翻訳と言うトリック リビングバイブル翻訳は不正確な意訳満載 コロサイ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書は原典聖書からの直接の翻訳の場合には、原書を元に翻訳していますが、原書を飛ばして、原書の翻訳のその又翻訳、英語のリビングバイブルの様な翻訳の翻訳、意訳満載の不適切な翻訳を

更に又日本語に翻訳していると言う問題点があります。

何重にも翻訳が挟まりオリジナルの意味文章とはかけ離れて

しまう事が起きてしまいます。リビングバイブルは翻訳者の思想

がふんだんに投影されてしまっている翻訳なのです。

 

不適切な翻訳のその又翻訳をする事は伝言ゲームと同じく、元のメッセージを正確に反映しないものになってしまう事が起きているのです。

翻訳とは、翻訳者の思想が必ず投影され反映されてしまいますから、その翻訳者が持つ思想に沿って翻訳されしまう、正確さと公正さに欠けてしまうのです。元の言葉を塗り替えた翻訳をする事が出来る!と言うトリックがあり、読者には原書から変化した違いが見えない!元の意味など翻訳からではもちろん読み取る事が出来ないと言う問題点があるのです。

人の書いた書でも、翻訳だけ読み、元の言語を理解出来ない場合にはその翻訳が正確で確かなものであるのかどうなのか確認する事は出来ません。その言語を熟知している人を通して確認して初めてそこに訳された内容が原書の意味通りかどうか決める手がかりとなるのです。

 

英語のリビングバイブルは、ケネス テイラーが1901年に

出版された英語翻訳”アメリカン スタンダード翻訳版”を主に利用し、自分の考えの意訳、パラフレーズで聖書の内容を書き換えています。

詰まりどう言う事かと言うと、ヘブライ語そして福音書以降は

ギリシャ語で書かれていますが、その原典聖書からの直接の翻訳ではなく、人が英語に訳した英語版を自分の思想、デイスペンセーション神学の思想で意訳、手直し翻訳をしたのが英語のリビングバイブルです。

と言う事は翻訳された聖書に、自分の思想を混ぜて更に翻訳をした、翻訳のその又翻訳です。そして日本語版リビングバイブルは、英語版翻訳の意訳翻訳版を更に日本語にした!と言うものなのです。

スコッフィールドリファレンスバイブルも翻訳の翻訳デイスペンセーション神学を広く世界へ浸透させるために聖書の元の意味とは違う注解満載にして出版された翻訳聖書です。そのお陰でアメリカの神学校では聖書=元の聖書ではなく、デイスペンセーション神学を通して聖書が教えられてしまい広く浸透し現代に至るまでクリスチャンの信仰、思想に多大に影響を与えてしまっているのです。この様な聖書は流通してはならないものなのです。

アスパルテームと言う人工甘味料と同じ。始めから世の中に流通し販売されてはならないもの、毒なのです。

このリビングバイブルは、意訳満載<人の思想満載>の不適切な翻訳を日本語に翻訳していると言う問題点があります。

不適切な翻訳のその又翻訳をする事は伝言ゲームと同じく、元のメッセージを正確に反映しない事になってしまう事が起きるのです。

コロサイ2:16−17 クリスチャンが神の教えが終了した根拠として上げる代表例の箇所ですが、これを読む前に、イエシュアは一体、父の言葉=永遠不変の神の言葉や神の記念日を終了される様な教えや発言そして実際に変更された教えや、祭りを実践行動をした記録が聖書に記されていますか?

答えは明らかに100%NOです。聖書だけに基づいて考える訓練をし始めないとならないのです。

 

イエシュアが教え生きていたのは100%父の教え=モーセの五書であり、イエシュアが祝った記念日は、第七日目のシャバット

春と秋の祭りであり、プラスイエシュアは”宮きよめの祭り”を

祝った事が1箇所だけ記されています。

福音書の中を見るだけでも、イエシュアがシャバット、過越、

仮庵を祝った記録が数々記されています。祭りに関しては30以上、シャバットに関しては少なくとも45回は記されています。祭りを祝うと言うことはシャバットもその中に含まれているのです。

ヨハネ7:14 祭(仮庵)も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。

7:15 すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうしトラーの知識をもっているのだろう」。

7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教は

わたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である

 

16節で”わたしを遣わされた方=父の教え”とイエシュアが言われた言葉を聞いたユダヤ人達は、父の教え=トラー=婚姻契約=

モーセの五書と正確に理解してイエシュアの言葉を聞いていたのです。だから、現代の異邦人の頭脳や耳に聞こえている事ではなく、古代の人達が聞いて理解した通りの意味に戻れば、イエシュアが語っている事は100%モーセの五書=トラーである事が記されている事を発見出来ます。聖書に書いてある事が事実であり、人が実践して教えている教えが聖書とは限らないものが多数あるのです。

前回書いた記事にコロサイ2:16は、原文に無い言葉で表現されている事を書きました。英語のリビングバイブルを訳した人もダービースコッフィールドの思想=デイスペンセーション神学を信奉するその思想に基づいてこの翻訳の意訳=自分の意見を盛り込んで訳している事が原文と比べてみると発見出来ます。

青字の言葉は原典言語には存在しない挿入された言葉です。

コロサイ2:16 そういうわけですから、食べ物や飲み物のことで、あるいはユダヤ教の祭り、新月の儀式、安息日の決まりを

守らないなどという問題で、だれにも批評させてはいけません。 

 

リビングバイブルの日本語訳ですと、神の教えを生きない事で

誰からも批判されてはならない!と訳され、パウロが書いてない事を勝手に翻訳者が解説してしまっている翻訳になっています。

 

でも本来ギリシャ語で記されている元の言葉、文章は、この日本語訳の意味とは全く違います。パウロはコロサイの中で何が問題であると2章で説明していますか?だましごとの人間の教え、哲学です。禁欲主義者達のむなしい教えは、シャバットや祭りを豪華な食事と飲み物で祝うことを批判していたからです。

禁欲主義者は神が与えた喜び楽しみあらゆる事を否定します。

禁欲主義者は結婚まで禁じています。

グノーシス主義とは聖書とは全く異なる思想なのです。

だからあるグループは結婚しては神に仕えられないとまで教えているでしょう。それ聖書の教えではありません。神殿に仕える

レビ族の祭司達はどの様な人と婚姻しなくてはならないのかは書かれていますが、神に仕える職に就くから結婚したらだめ、神に十分に仕えられないと言うのは単なる人の禁欲主義思想です。

婚姻は神が創造されたデザインだからです。

むなしい教えの哲学を宣う人の言う事などにコロサイのイエシュア信者達は惑わされ聞く必要などはない!神の教え通り、神の

記念日を神が伝える通りに盛大に祝おう!と言う意味です。

 

神の記念日をご馳走で祝うことは神のみ旨です。なぜ?

家族と仲間と喜び楽しむこと、それは食べること飲むことを通して体験すること、神の前で喜び楽しんで神がどんなに良いお方であるか知るように!と聖書には記されています!なんと言う良い神なのでしょう。

 

申命記14:26 その金をすべてあなたの好む物に換えなければならない。すなわち牛、羊、ぶどう酒、濃い酒など、すべてあなたの欲する物に換え、その所であなたの神、主の前でそれを食べ、

家族と共に楽しまなければならない。

16:10 そしてあなたの神、主のために七週の祭=シャヴオート

(ペンテコステ)を行い、あなたの神、主が賜わる祝福にしたがって、力に応じ、自発の供え物をささげなければならない。

 16:11 こうしてあなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、ならびにあなたがたのうちにおる寄留の他国人と孤児と寡婦と共に、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。

神のシャバット、祭りを祝う事でその祝いの楽しさを味わい、

神がどんなに良いお方であるか知るように!と書いてあります。

家族で仲間と友人とで祝う祝いはそれはそれは楽しいでしょう。

特別な日を特別に祝えないとは、とてもさみしいものです。

私は以前”苦行”が美徳みたいに教えられましたが、聖書に書いてある神は人が語るそれとは全く異なる事を人に教えています。

しかも今週木曜日の日没に来るシャブオートも、過越、仮庵の祭りと同じ都上りの祭りの1つです。シャバットや神の祭りが

呪いの律法の教え、獣の印などと解説しているのは、神の記念日の意味を知らないからです。

そして次の箇所も臭い箇所で、誤解された解説がされ続けている箇所の代表でもあるものです。青字の言葉はギリシャ語原典文章には無い言葉が付け足されて訳されてしまっています。

 

リビングバイブル訳

2:17 それらは、キリストが来られる前にだけ有効であった、一時的な存在にすぎないからです。

つまり、キリストという本体の影でしかなかったのです。

新共同訳

2:17これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。

口語訳

コロサイ2:17 これらは、きたるべきものの影であって、

その本体はキリストにある。

新改訳
17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
口語訳と新改訳はギリシャ語の意味に近い訳がされています。
 
さて、この意味は何でしょう?クリスチャンの世界では”影”と言う事を一時的なとか、消え去るものとか、そんな意味で捉えられてしまっていますが、影が消えると言う事は本体も消える!と言う事実を考えて下さい。自分が居るから、自分の影がありそれは自分が動く通りに自分の姿をそっくり映し出してずっと付い来るでしょう。自分が居なければ影も消えるのです。自分=目に見える実際の自分、影=目に見えないけれど同じ自分の実態と言う
意味です。
 
地上の神の家ミシュカンで表され教えられている通り、神の臨在が宿る場所、目に見えない天の神の家の現実を物理的に実際に表したものが地上の神の家です。それは天の影=シャドーコピーです。目に見えないけど実態は同じです。
イエシュアは父の影です。目に見えない神の実態を地上で肉体を
取って来られたイエシュアは父そっくりそのもの、わたしを見たものは父を見たと言われたでしょう。そして、神の言葉も影です。目に見えない神の実態そっくりそのまま現れ出ている、それは神の言葉です!ヨハネはそれを、神=言葉とヨハネの冒頭で
書いているのです。言葉が人となった。トラーが肉体を取って
来られ人のうちに住んだとあるのです。住む〜ミシュカンです。
シャカン=住まう、ミシュカン=神の臨在が宿る場所、神の家。
これが理解出来ると、ここでパウロが言っている意味が見えます。
パウロはここで食べ物規定がなんであるのかの”イロハ”の話はしていないのです。そんな事は神の教えの初歩中の初歩の真理であり、レビ記11章に神の言葉により明確に人に伝えられている教えであり、神の子らは神が創造された人間が食べるに相応しい食物を食べる!1世紀パウロの書簡を読んでいた人達には、そんな事は幼子でも理解している事であり、神の教えに対して誰も異議申し立て、否定などしないのです。
 

申命記14:2 あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。

14:3 忌むべき物は、どんなものでも食べてはならない。

 
続く