無数にある数々の聖書解釈に対する誤解を1つ1つ解き続けて
聖書を書いてある意味通りに正しく読み直して行かないとならないのです。ゆっくりじっくり神の言葉で語られる真実だけに立ってぜひ聖書を読み続けて下さい。1つの大前提、聖書に登場するどの預言者も、イエシュアも弟子もパウロも100%どの人種にもモーセの五書を教えています。聖書に登場する人達は、福音書以降も誰一人、現代の異邦人クリスチャンが教えられている様なモーセの五書は廃れた無効になった新しい教えをイエシュアがしているなどと言う考えも発想も存在しない!1世紀の当時の信者ユダヤ人、全ては100%モーセの五書に記された教えをライフスタイルとし、レビ記23章にある、シャバット、神の祭りを祝っていた事しか聖書には記されていない!と言う永遠の事実を聖書からはっきり読み取り、人の思想で聖書のある記述を読み替えたりする事をやめないとならないのです。
聖書には神の教え=モーセの五書を否定する別の教え、日曜礼拝、クリスマス、イースター、月一度の聖餐式、幼児洗礼、聖変化、神の言葉が変化した事実など書かれていません。ある翻訳には”過越”の祭りをイースターと訳していますが、それは完全なる誤訳です。造語=教会と言う人が作った造語と同じく、人の思いついた名前で神の祭りが訳されているだけであり、春の祭りのヘブライ語の名前は”ペサフ”=過越の祭りであり、イースターという名前ではない、何も変化していません。
それらは宗教の教えの産物であり、聖書が閉じたずっと後になって定着し始めた西洋宗教の教え、儀式、記念日だからです。
神の言葉に対しての取り扱いに関しての警告は、はっきりしています。それは、何かを獲得する、神の前に自分の努力で義を獲得する、行動によりそれを得る!と言う間違った思考回路、間違った神の言葉に対しての取り扱いに対する事をパウロが正して話している内容を、異邦人の世界では、パウロは割礼を異邦人には否定している!!!などと言う早合点の勘違いの読み込みをしているのです。
これはクリスチャンの世界に置き換えて言い換えれば理解出来ると思います。異邦人でモーセの五書に何の馴染みもない、イスラエルの国籍もない単なる部外者であったのに、遠くから神は引き寄せて下さり、イエシュアを通して同じイスラエルの神の家族の
一員として同じ契約の祝福を相続するメンバーとして受け入れて下さった、その根拠は何にあるのですか?神の教えを行なったからではありません。
信仰により、イエシュアを受け取った!と言う事で始まっただけでしょう。水に潜る儀式を受けたから救いを受けたのですか?
もし洗礼儀式が複雑であったなら、例えば洗礼と言う名前が付いた実は複雑な儀式があり、モーセの五書を空で暗唱するとか?水に5分以上潜らないとならないとか、そんな事聖書の教えではないと分かるでしょう。救いを得る事は人の行いによらない、イエシュアのされた業を信仰により受け取っただけです。その事をパウロが話しているのです。ユダヤ人の世界には、異邦人に対して
”割礼”と言う名前を付けた複雑な儀式とその後彼らの伝える口頭トラー=律法の行い、先祖の伝統の教えなどを生きるなどと言う
たくさんのものが付随していたのです。
これは歴史の中の全部の人、全人類に関して同じ救いの唯一の方法であり、行いで”義”とされ救いを獲得出来る人は一人としていない!と言う大前提を理解していないければならないのです。だから、神が一方的に与えている救いの恵みに対して、人が努力で獲得しようとするその方法は違うよ!とパウロは教えているだけです!
1世紀当時のあるユダヤ人達は異邦人が神の国の正式なメンバーになるには、複雑な儀式の数々を経て認証得なければなれない!
しかも、異邦人がユダヤ人になると言う当時の人達の教えは、
異邦人の家族や親戚とも関係を断つ!その理由は、異邦人の生活は汚れと密着しているからそれを避けると言う意味があるからです。家族親戚と縁を切る?自分たちユダヤ人でさえ出来ない様なそんな苦痛を異邦人に要求するのはやめなさい!と使徒15章でパリサイ派のリーダー、知恵ある人達が言われたではないですか?イエシュアを信じたら親族家族と決別しなくちゃならないの?そんなの神の教えではないでしょう。
だから、異邦人として生まれたら異邦人のままで生きて、割礼と言う宗教改宗儀式無しのままで、そんなタイプのユダヤ人世界でメンバーとして認められる事をする必要などない!と言う事なのです。でも神の教え=トラーを異邦人の家族の中で生きよ!と
パウロが言っているのに、異邦人だから割礼は無関係!神の教えは無関係!なんて話などパウロは1つもしていないのです。
パウロの場合は、ユダヤ人の世界に密着していましたから、彼らの仕来りに倣った事実はあるのです。鞭打ちの刑を受けたのも
彼らにイエシュアを伝えるために甘んじて受けたと言う事が記されている事でも分かります。
議論の本質、内容が見えていない場合には勝手な解説をし、さらにモーセの五書は廃れた!と言う人の教えを神の言葉だと勘違いしている人たちが聖書を曲げて解説してしまう事がずっと起きているのです。
神の知恵に満ちた人は神の目線で神の教えをちゃんと手ほどき出来るのです。異邦人にはすぐには神の教えが分からないだろうけど、シャバットごとに会堂でトラーを学べばそのうちに理解が進むから、とりあえず絶対やってはダメな事!神殿娼婦と交わる、神殿で汚れた動物を絞め殺して捧げる事、血を飲む事、汚れた動物を食べる事!それだけは理解してやめて!と伝えています。
それらを最低限まず守ってくれるなら、異邦人イエシュア信者を
パリサイ派のグループに受け入れます!と言うのが使徒15章
エルサレム会議での決断なのです。異邦人はそれだけやってればOKなんて浅はかな理解をしてはならないのです。
神の言葉を学ばない、知らない=神との関係が育まれなくなる
要因、温床を作る事なのです。
割礼とパウロが書いている意味を理解していないので見えないだけです。当時のユダヤ人の世界であった儀式=異邦人が完全に
ユダヤ人になる改宗儀式をする、それはもちろん肉的割礼も含まれているから割礼と書かれていますが、改宗儀式で女性には割礼などありません。詰まり完全にユダヤ人として生きる表明の儀式を異邦人はしないと神の国の一員とはなりません〜会員登録済まないとメンバーとはなってません〜そんな教えは神の言葉、教え、聖書ではない!と言う事を言っているだけです。割礼は永遠に意味のあるものであり、消された意味のなくなった教え儀式ではないのです。永遠の契約の印でもあるのです。割礼と言う聖書で教えられている様々な意味を深く学べば神の教えがどれほど優れ麗しいものであり、神の子らに与えた印である永遠の意味が理解出来ます。しかも男性にしか与えられていないと言う点でも男性は神の契約を受け継ぐに更に重たい責任を負わされていると言うことが分かると思います。
パウロが話しているのは、何かの行いで救いや義を得る、神の
義や好感、ひいきを得るために神の言葉を実践する!と言う
思考回路がずれている!と教えているだけなのです。割礼をしたからアヴラハムは救いを得たのではないのです。信じた!それだけ、その後に神の保証〜契りの印、割礼が与えられたのです。
神の契約=シナイ山で与えられた婚姻契約は、人が努力して救いを獲得するなどと言う、そんな目的のために与えられたものではない!目的違いの生き方をしたらズレてしまうのです。
トラーは既に救われた人々に与えられたもの!それが大前提なのです。そして、同時にパウロがガラテヤで救いを得る前の人も
神の教えを新しく創造された実体が無いまま生きても、神の言葉を生きるとは真理の中に留まり生きる事であるからいずれキリストに導かれることになる役割の側面もある、これをキリストに導く養育係と表現しているのです。そして何より神の言葉で記されている人の本来の性質を分からないまま生きていたとしても、その生き方で人は安全に守られる!と言うことになることをパウロが説明していることでも分かるでしょう。
神を知らない人でもトラーを生きている人達は、余りズレた危険な生き方をしないことでも分かると思います。腹に書かれたトラーを生きている、見知らぬ神を求めている神の選びにある人は
存在しているからです。神の伝える教えを生きる事は安全な事だからです。体も心も精神も守られるからです。
クリスチャンの世界では神の言葉を生きる事は律法主義と即座に条件反射的にその様な人の教えに照らし合わせて考えますが、
知ると知らないとも、神の子らは神の性質を生きる!と言う事に招かれている事実があり、それらの詳細がモーセの五書に記されている!と言う事実があるのです。神との関係を証明保証するのは、トラー=婚姻契約=モーセの五書である!と言う事実をまずはっきりと知らないとならないのです。
人の婚姻関係は、婚姻届に記された謄本で表されてそれが証拠
証明です。婚姻契約=神の言葉=根拠を捨てる教えは神の教えとは違うものです。
福音書以降はモーセの五書に記された教えの短い抜粋しか記されておらず、人の生き方の全領域に関しての詳細は再度重複して細かく記されいないのです。なぜならタナックに全てが記されているから、福音書以降に重複する必要などないからです。
クリスチャンは福音書以降はモーセの五書とは違う新しい教えが
書かれていると本気で信じているのですが、イエシュアの話している内容は100%モーセの五書だと気がついてないだけです。
パウロも弟子達も100%モーセの五書を教えていた事実があるのです。トラー=モーセの五書以外の教えをした?それならば
聖書に記されていることとは違う、神の教えとは異なる新興宗教の教えになってしまいます。
これら以下は人の教えです。
コロサイ2:21 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。<当時のむなしい哲学思想です>
2:22 これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。
2:23 これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。
当時の人の教え=哲学に記されている事があります。
Ps crates epistle 14
”大麦で作ったパンを食べ水を飲み、魚やワインを食するなかれ!”とあります。詰まりこの哲学は、貧相を奨励し、美味しい
食べ物を食べるな!と言っている教えです。
これとコロサイ2:16−17がどう繋がっているのか見えます。ギリシャ語では、こう書いてあります。
”それゆえに、食べ物、飲み物、祭り(春、秋の都上りの祭り)
シャバットに関して、誰にも批判されてはならない。”
口語訳の方がこのギリシャ語に近い訳になっています。
口語訳
コロサイ2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。リビングバイブル版は原典に書いてない言葉を加えています。
青字が原典には無い挿入された言葉です。
コロサイ2:16 そういうわけですから、食べ物や飲み物のことで、あるいはユダヤ教の祭り、新月の儀式、安息日の決まりを
守らないなどという問題で、だれにも批評させてはいけません。
リビングバイブルの日本語訳ですと、神の教えを生きない事で
誰からも批判されてはならない!と言うパウロが書いてない事を
勝手に解説してしまっている翻訳になっています。
ギリシャ語で書いてある2:16は、彼ら禁欲主義思想哲学に
基づいた考えの人達に、神の教えにあるシャバットや祭り新月に
関しての祝い方について批判されるべきではない!と言っているのです。食べ物、飲み物はレビ記11章にある教えは変わって
いません。日本でも記念日、祝い事、宴会にはご馳走がつきものですよね。ご馳走のない貧相なテーブルなんて寂しいでしょう。
特に神の教えでは神の記念日のためにお金を蓄えて起き、その時に好きな食べ物、飲み物=もちろんレビ記11章、申命記14章に記された人が食するのにふさわしい食べ物です。
神の記念日はご馳走で盛大に祝う!これを禁欲主義者が批判していたのです!人の教えではなく、神が人に伝えている真実が見えますか?