神の言葉を差し引くクリスチャンと神の言葉に付け足しをするユダヤ人 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

申命記4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。

 

神の仰せに逆らい違反し侵害するその行為は、神の言葉に人が付け足し、差し引きし人間が神の言葉に手を加えたら、神の純粋な教えが正確に把握出来なくなり、神が伝えている麗しい生き方=神の性質=イエシュアが生きられた実態〜足跡を生きられなくなるよ!と言う警告なのです。

 

申命記は、モーシェがこれから地上を離れて天に行く、そして

40年の荒野の旅の後、イスラエルと少数の異邦人達はやっと

約束の地に入る、その時に再度神の教え=トラーを確認して語っている箇所です。

この箇所には何が書いてありますか?神の言葉に付け加えてはならない、又は差し引いてはならない、減らす=削除、破棄、捨て去る事をしてはならない!神の言葉に記されていない人間の教えを神の言葉に付け足して偽物、混ぜ物の教えを作り出してはならないとはっきり警告しています。

 

それなのに、人は宗教の教えを編み出して、神から直接言われた

”神の言葉に付け足し、差し引き”をし続けて、神の警告を真剣にシャマル=ガードする事もせずに、おのおの勝手な教えを編み出し続け、好き勝手な方向へ行ったと言うコヘレト7:29にある警告通りの事をし続けて来ました。

 

神の言葉は時代ごとに分断されたもので、時代ごと人種ごとに、

違う教え、聖書の最初の75%と最後の25%とでは別の教えが聖書には記されている!!!と言う異邦人が語る創作神話、都市伝説をまず完全に全部捨てないとなりません!

 

神の口から直接語られた言葉をモーシェが聞いて、スマホや録音デバイスに音声録音したのではなく、神が語られた通りをモーシェが文字で書き記したのが、モーセの五書=トラーなのです。

私達は今神の口から直接語られた同じ言葉を文字として頭脳にインプットしている!その事実をじっくり考える必要があります。

聖書では聖書と言うタイトルではなく、”トラーの書=神の教えインストラクションの書”又は ”証の書”とヘブライ語で書いてあるのです。

 

神の言葉は、古い箇所は終わり!と神の言葉では無い事を信じる場合には、こう言う事になります。人が神の上に権威を置く。

神の口から語られた永遠不変の言葉、神の教えの書を人間が勝手に価値識別判定し、仕分けて、神の言葉を捨てたり付け足したりしてしまっていると言うことなのです。

 

神に何を言われてもそれが頭脳には響かず、自分には関係の無い教えと考えて神の教えを聞き流す事をしてしまうのです。それでは神に何を教えられているのか良く分からない危険な状態になります。み言葉を聞けない飢饉とは、神が神の考えの深い所にある事を人に言葉で伝え続けているのに、自分の頭脳にはその神の言葉が届かない状態であるのです。神の言葉は終了!と考えている場合神の言葉=聖霊が今も神の言葉を通して人に語っているのに、聖霊を遮っていると言う事をしているのです。

クリスチャンもこの聖書箇所を引用して語りますね。

耳を塞いでいる。ヘブライ聖書には”耳を引っ張って神の声を聞く”とか神の声の下にいて神の声の中で神の声を聞くと書いてあるのです。日本語でも耳をかっぽじいて聞きなさい!と言いますよね。人の創作の教え、教理、神学とは神の言葉が聞こえない様にする耳栓と同じ作用をしているのです。

 

2テモテ3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

ここに書かれている通りを本気で受け取り信じて生きていますか?それとも只そう書いてある事を字面だけ読み流しているだけでしょうか?余りにも神の言葉に対して軽い態度であるならば

神の言葉が記されていても”そんなの自分には関係な〜い”と考え続けるのです。自分に取って都合の悪い教えは破棄!励ましを受ける箇所は受け入れる!と言う自分勝手な聞き方をし続けて、

偏り栄養失調になり、何を神が教えているのか全貌が見えないままになるのです。

聖書とここに記されているのは、この時点では、タナックのみを指して語っているのです。もちろん聖書は全ての書は聖霊により

書かれたものです。タナック=モーセの五書、預言書、諸書です。

イエシュアが、モーセ(トラー)と預言書と両方二つを指して

ずっと語っている意味は、聖書は丸ごとワンセットだからです。

トラー=モーセの五書が終わりとクリスチャンは主張している

意味は、同時に預言書も終わり!と言っている意味なのです。

トラーが終わりなら同時に預言書も終わり!なのです。

それでは、未来預言も全て破棄された!未来預言も不明!何が神の本当の教えなのかが分からない〜て事です。めちゃくちゃな思想である事に聖書を読みながら気が付かないとならないのです。

 

創世記〜黙示録、全部同じ内容が記されていて、それらは全部

神の霊感により人を通して記された書なのです。

付け足し差し引きするなかれ!と言う神の教えはもう破棄!

終了!などと考えて言い続けて信じて実行している場合、それは

聖書ではなく人の思想を語って生きている!と言う事に全く気が付いてないだけなのです。聖書ではない教えを信じるとは、イスラエルの神を信頼し生きている信仰ではなく 人の教え=宗教の教えを信奉し、信仰して、人の教えを生きている!と言う事なのです。

聖書が分断されて前後に別の教えが書かれている2つの書物であると考えている人間の編み出した思想から聖書を読んでいるので、聖書解釈が自ずから歪んでしまうのです。

そして、聖書の最初の部分は全て”寓話” ”比喩” ”霊的”と解釈し

イスラエルと書いてあったら、それは今は異邦人であると読み換えする様な事をしているのです。置換神学。

イスラエルと書いてあったらそれはイスラエルであり、同じイスラエルの神の大家族、同じ婚姻契約の生き方に異邦人も加えられたと書かれていると言う事実から読まない限り限りなく自由自在に自分解釈に聖書を変形させて、自分の意見を聖書に語らせる事

をしてしまっているのです。

 

クリスチャンの世界ではマタイ5:17の様な箇所を全く誤解して読んでいます。この箇所でイエシュアがトラーを破棄しに来てて、終了したと普通に解説されています。

でもイエシュアはそんな意味でその箇所をに記された言葉を語ってなどいません。この箇所はこのブログを読んで下さる方なら何度も解説しているのでご存知だと思いますが、翻訳だけ読んでみても、何が書いてあるのか分かると思います。

 

トラーを知らない異邦人には全く認識が無い事なのですが、

ヘブライの世界=聖書に記された世界では教師がトラーを否定した教えなどすると誰も考えないのです。万が一神の言葉を否定する人が居たならば、それは偽教師、偽預言者であり、その罪は

トラーに基づけば石打ちの刑に匹敵するものだからです。

 

一番の重大問題は、聖書の大部分を聖書の記述に照らし合わせて

聖書で聖書を読み解き、解釈しているのではなく、聖書に書かれている言葉を人の思想や人造神学で読み解いている!!!と言う重大問題がある事なのです。人の思想=聖書とはズレた人が編み出した神学や教理や思想の事です。

何を言っているかと言うと、例えば、神は愛ですとか、キリストの贖いの血により罪赦され新しく創造された人を信仰により受け取りましたとか、その様な事は聖書に記された事実です。

 

でもその他に記された聖書箇所を、聖書では無い人の神学で語り解説している!と言う事をクリスチャンの間では気が付かないまましてしまっているのです。例えば、神の言葉は呪いの律法だ!律法に戻るなかれ!とかキリストが来られたら神の言葉は終了したので、神の言葉を生きる必要はない、いや神の言葉は生きるなかれ!神の言葉を生きる事は恵みを無駄にした律法主義だとか、又はユダヤ人だけ神の言葉を生きていれば良いとか。感謝すれば汚れた動物も今は何でも食せる様になったのだ!とか。人間の世界に様々な動物と人間の間を行き来する病原菌、病をもたらしているものは、その様な清掃動物を食した事が原因でもあるのに、それが神が語る教えなどと言ってしまっているのです。

血を食したら肝炎になったりするでしょう。

神は聖別=神の上に分かたれた人達の生き方を食べる事、飲む事、神の記念日を通して、普段の生活の中で生きる事を通して

教えているのに、その教えは全部なし崩しになり、神の言葉を捨てる場合には、神の宮である聖別の状態が汚されていてもその事に全く気が付けないのです。神の前に忌み嫌われる事が何であるかが分かっていないと言う事です。

神の言葉、エデンの園で語られた”食べるなかれ!”簡単な指示、

教えでしょう。それを破ったら死と別離が舞い込んだ事考えれば

神の教えはそんなに難しくないのに、違反すれば命に匹敵する代償があったのです。体も霊も精神も一体であり、神の宮である人は同時に体も汚してはならない、汚れたものを頭脳にも体にも取り入れてはならない!と神が言うのは、そんなに難しい教えなのでしょうか?

そして、神が創造された神の子らに印として与えられた記念日を祝う事をやめ、その代わりに2世紀以降に人が作って考えた別の記念日を異邦人は生きる様になったなど、それらは聖書に記された神の教えとは全く異なるものです。でもそれが神の仰せだ!と疑いもなく信じているのです。今は何でも自由、神の記念日も

人間が自由に選んで生きる!などと解説しているのですが、

そんな事聖書には1つも記されてなどいません!どの日も何でも同じなら聖別と言う意味が消えてしまいます。

聖書を神の言葉と信じると言いながら実際には書いてある通りの取り扱いをしてないのです。人間至上主義。

パウロの書いた内容を完全に誤解している、聖書に記された意味を現代の異邦人の世界の教えで解釈している、聖書とはズレた人の思想で語る聖書解説の世界が展開されてしまってそれが浸透し根強く確立し、多くが聖書では無い教えを本気で聖書だ!と信じ込んでいるのです。

 

マタイ5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、

と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

トラーと預言書を破棄するために来たと思ってはならない!と

書いてありますよね。破棄する為ではなく成就する為である!とありますが、この箇所を破棄しに来たのでは無いのに、終了しに

来た!と言っているとクリスチャンは解説しますが、支離滅裂な

解説だと気が付くでしょう。

 

ここで書かれている言葉は、”破棄”と”成就”と言う言葉はセットになっている当時のラビたちの教えの世界の慣用句です。

破棄=トラーを正しく解釈していない事を意味する言葉です。

成就=トラーを正しく理解し解釈しそして生きる事です。そして成就と言う言葉自体、ヘブライ語では”固く確立する”と言う意味の言葉であり終了したなどと言う意味などは一切ないのです。

言葉のトリック翻訳トリックで勝手な解説が横行していますが、読んだだけでも破棄しないのに終了させるなどと言う解説は変でしょう。

 

5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

トラーが今日も有効な証拠〜今現在天地が滅びていない!それならトラーの一点一画もすたらず全うされる!と言う事です。

強調です。神の造られた天地は滅びないからです。

こんなにクリアーに神の言葉が永遠に堅く立つ事実が書いてあるのに、どうして記述とは違う解説をするのか、それは人間の作った神学を通して神の言葉を曲げて解説している事が原因です。

”すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ”イザヤ40:6−8 聖書に何が書いてあるのか、読んだら書いてある通りに考えてそこから離れないで考え続けないと人の創作思想に引っ張られて聖書とは違う解釈をし続けてしまいます。神の言葉は永遠に堅く立つ!と言いながら、どうして神の言葉は破棄されたなどと言い続けるのか?その重度で致命的な矛盾に聖書の記述の事実から気が付きさえすれば神の語る真実発見の旅は始まるのです。

 

続く