贖い出された人達は全て過越を体験している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプトに記されている、エジプト脱出、過越の事件、イエシュアの業を、毎年毎年代々永遠に過越の祭りで祝い続ける様に神は人に伝えています。

 

過越の祭りを、ヘブライ語では”ペサフ”と言いますが、ペサフと言う言葉を、過ぎ越す、パス オーバー、スキップ=飛ばすと訳していますが、本来の意味は、母鳥が子供を羽で覆って危険を免れさせる事を意味する言葉です。子羊の血で、私達は死から免れた、永遠の命を代価により与えられた事実は、イエシュアが地上に来られる前から永遠の中に存在しています。

屠られた子羊とは、あのエジプトで屠られ鴨居に塗られた子羊の血、イエシュアの贖いの血を表す影であるのです。

 

イエシュアの地上での誕生が神の教えの中で強調されないのは、神であるお方には、始まりも終わりもない、永遠から永遠に存在するお方だからです。

大祭司メルキゼデクの位に属するイエシュア。

 

創世記14:18いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。 19彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。20敵をあなたの手に渡された

いと高き神がたたえられますように。」

アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。

 

ヘブル7:1このメルキゼデクはサレム=の王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。 2アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。 3彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって永遠に祭司です。

 

メルキゼデク=מלכי־צדק=義の王、サレム=平和、欠けがない、完全。

始まりも終わりもなく、永遠に大祭司=イエシュアを語っている

タナック=モーセの五書、預言書、諸書にはずっとイエシュアが教えられているのです。

出エジプトの一連の出来事は、異教の神々から代価を払われ贖い出された事、イエシュアの子羊の血で死から逃れた事を教えている、福音の中核が語られているものです。この出来事を通して、どの時代のどの人種でも、信じる者一人一人に対して、同じ福音=贖い、救いを神から教えられているのです。

イエシュア=救いは1つ、救いの方法も1つ、代価を払った贖いもたった一度きりです。

そして毎週シャバットでもこの過越で贖われた事実を読み思い出します。

これらを、出エジプトした後ミシュカン=神の家の儀式の中で

イエシュアのされた業をずっとイスラエルは代々に渡り教え続けられて来たのです。タナック=モーセの五書、預言書、諸書には、メシアが至る所に記されています。

過越の祭では、この出エジプトの出来事、贖い、救いの出来事を

皆で話し、実際に思い出す、数々の儀式や寸劇や、ゲームをして

夜通し祝うのです。諸外国に住む人達は、神の国=イスラエルの様に神の祭りで休日になる事はありませんが、種無しパンを祝う

日は、7日間です。その中に必ず週末=シャバット、金、土、日

曜日の休みの日が来ますから、その時にゆっくりこの回想する

事を家族や仲間と出来ます。

 

エジプトに居たヨセフの元に11人の兄弟、合計で12人、そして家族の総数は70人。この数だけでもある事を意味しています。

出エジプトした人達がまず行った場所でも同じ事が表されています。

出エジプト15:27彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。

 

シナイ山で契約の祝宴をしたのも70人の長老です。

7と言う数字に注目。

 

エジプトのヨセフの元の来た70人の家族は、飢饉の間そこで

安全に暮らしましたが、必要以上にエジプトに長居してしまいました。約430年であると言われる期間です。本来ならばカナンの地に戻らなくてはならなかったのにその様な長い年月をエジプトで過ごし、自分達の本来のアイデンティティを失ってしまいました。アイデンティティ=イスラエルの神の子ら、本当の神に繋がり生きる事が出来ない状態で暮らしていたのです。

 

エジプトと言う名前は、ヘブライ語ではミツライムと言います。

ミツライムとは、狭い、苦しい、悲しい、束縛、包囲などの意味がある言葉で、それらの意味でこの国に住まうと言う事が、本来

聖別された神の国=イスラエルに住む神の子らの生き方と別の神々に影響されてしまう、神から離れたズレた状態、環境である事を表しています。

エジプトの苦役と言えど、その中で家は与えられ、給料も与えられ、それなりに美味しいものも食べられていたのです。

だから、荒野でマナしか食べられなくなった時にこんな発言を

します。

民数記11:5エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。

 6今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」と呟きが始まりました。

 

神が様々な奇跡を起こして、出エジプトし、そして紅海=葦の海が割れて、追手のエジプト軍が全部その海に飲まれて消えたそんな壮大な奇跡体験をしたばかりなのに、金の子牛でイスラエルの神を拝んだり、問題に直面するたびに呟く、神に同じ様に助けを求める事を全然学ばない、元の肉の生まれの頭脳に割礼の無いままの人達が居たのです。

それ以前に出エジプトする前には、10ヶ月以上の長い期間に

渡り10の災いが起こりました。その時も神の臨在、奇跡を体験しているのです。その1つ1つの災いはエジプトの神々に対するイスラエルの神の裁きと解放です。

モーセの契約を受け取る前から、トラーに記されている事が

神の言葉として記されています。

口頭で同じ神の教えを伝え続けられているからです。

10の災いは異教の神々=サタンに対する、イスラエルの神の

裁きです。

モーシェがエジプトのファラオに対決する前まで、ミデイアンの

地に逃れファラオの処罰から身を守っていました。この事件は、

同胞がエジプト人に苦役で痛めつけられているのを、モーシェが

対決し相手を打ち殺してしまったからです。

今のサウジアラビアの北西、大体エジプトのゴシェンから400キロの場所に逃れていました。でもそこからモーシェを神が呼び出し、イスラエルをエジプトから脱出させる事をしたのが、

出エジプト記の最初に記されている事です。

 

この出来事の中でも、イエシュアが語られ、私達がイエシュア=

子羊=代価により偽の神々、偽の生き方、偽の教えから贖い出され、死にまつわる様々な呪いから救い出された事を教えられているのです。

 

贖いと救いの違いは何ですか?

贖いとは、代価を支払い買い取る事です。偽の主人に繋がれている、これはエデンの園を飛び出た人全員です。その贖いの代価は

人の努力で支払う事が出来ない、罪の代償は死だからです。

そしてそれは人間や動物の死では贖いえないものなのです。

だから、それを人の努力で聖霊=新しく生まれ変わることを得ようと言う思考回路は、最初からズレています。新しくされる事実は信仰によりのみ受け取れる性質のものです。神ご自信がイエシュア=子羊の血の代償を永遠の中で支払い済みなのです。そして救いとは、様々な艱難からの救い、救出です。最初から聖書にはイエシュアが語られています。

 

エジプト脱出し、葦の海=紅海に直面し、後ろにはエジプトの

軍隊の追っ手が命を狙って追いかけて来たのです。

この一連の出来事の中にも色々な意味があります。

 

出エジプト3:8それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 9見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 10今、行きなさい。

わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

 

神の数々の中の名前の1つでもある”神が見られる”と言う名。

四文字=主の名 主と訳されていますが、”主は見られる”

יהוה יראה  アドナイ イエレイ=見る=見たら何が必要か知っているから、主は備えると訳されている名前でそれがここの9節の”見た”と同じ言葉です。

それまでイスラエルの苦役を忘れているのではない、時満ちて、神の時、解放の時が来たから、モーシェにエジプトに戻りその

ミッションを成し遂げる様に伝えたのです。

指令です。特別な時の特別な指令。トラーの中に記されている

”ピクード”と言う言葉です。ある特殊な事態に特殊な特定の主の指令が出る。それを実行する。だからあるピクード=指令はある人は行わない、ある時期には行わない、様々に違うのです。

イエシュアに出会った一人一人も人生のある時期、ある時、救い主と出会う体験をしました。その時自体も神が用意して下さったものです。ある人は、なんでユダヤ人は救い主が分からないの?

信じないの?と言うのを聞いたことがありますが、神が”時”を

それぞれの人に用意して準備していることは確実です。思うのですが、同時に人はある事に気が付いてもある事には気が付いていないのです。タナックを読んで、それがあの2000年前のイエシュアの事である!と気がつくのは、本当に聖霊に目が開かれる事、これは誰でも同じです。彼らユダヤ人は、特に西洋宗教で色塗られた偽の救い主=イスラエルの神像のおかげで、それらが

聖書に記された通りのイエシュアである!と言う事に気が付けないでいるのです。

だから、誰もが正しく聖書を語り、正しいイスラエルの神像、

イエシュアを語る事に軌道修正=訂正、悔い改めしなくてはならないのです。変化進化する七変幻の神、変化する廃れる神の言葉=約束=契約=教えと言うのは、異邦人が神の言葉に手を加えてしまった純粋な神の言葉ではない!それに異邦人が聖書からはっきりと気が付かなくてはならない課題が残されているです。

黙示録の冒頭に記されたエペソのグループに対して”あなたは初めの愛=シナイ山の婚姻契約=父の言葉=トラーを忘れた!離れた”と言う警告は、神の言葉を曲げる事をしてきたことに対する、警告なのです。忘れた=最初から異邦人は神の言葉を生きる事に根付かない、知らないのです。

 

私は救い主に出会った後、だいぶ長い間、”イスラエルの神”を

誤解して信じていました。誤解=人の教え、神学や教理で変化する神と変化した教え=今は古い教えは関係ないと言う教えが聖書だと、聖書に書いてない反聖書的教えを真実であると、疑いなく信じていました。

それと同じなのです。進化論などどうしてそんな事が信じられるの?それは神の創造の真実に目が開かれるまで、人が考えた科学の偽仮説を信じているから、真実が見えない、そう言う事です。

救い主を知っていても、その救い主の教えられた教えは、

100%モーセの五書!父の言葉である!とどれくらいの異邦人クリスチャンが認識しているのでしょうか?もし認識していたら様々な教えをリセットして神の言葉通りに戻る事を絶対にします。なぜなら、神の教えとは違う事をすることに違和感を感じ、神の教えとズレた事など出来なくなってしまうからです。

 

神が世界の全てを創造された!と言う事実に気がついた人はそれ以降、進化論を唱えて信じますとは言えなくなるでしょう。

それは嘘だからと真実をはっきりと知った後分かってしまったからです。

だから、ユダヤ人がメシアに気が付かない事と異邦人クリスチャンが神の言葉が変化した、人種により別の教えがあるなどなどと信じる事は両方同じ性質のブラインドスポット=盲点なのです。

 

 

 

続く