過越の祭り 古代の人達はイエシュアをミシュカン タナックを通して知っていた | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉、教えは1つで全部繋がっています。体が全ての器官で

繋がって1つの体である様にどの部分も体に属しているので切り離したら正常な機能が出来ないのと同じです。

 

ミクダシュ=聖別された場所、天にある神の家のレプリカを地上にも作られせた”ミシュカン”=神の聖別された神の臨在が住まう場所を通して、イエシュアを教えている事が見えます。

異教の神々とイスラエルの神の違いは、もちろん本物の神=創造主であり、神は人と共に住まう事を願い、切望しているお方。

 

神は両手を振って、”罪は消えた〜”とだけ宣言して、後は人と関わらない事をしても良いのですが、聖なるお方が人と共に住まう事を切望している、不思議です。いや親なら分かる親心です。

でも聖なるお方はそのままでズレた人達=違う場所に飛び出してしまった人達と交わる事は出来ないのです。それは不可能だからです。罪の代価は死であり、イエシュアの命の代価が支払われなければ、人は神の元に繋がれる事は出来ないのです。

神は聖なるお方であるから、罪と共に住まう事が出来ないのです。

これが”ミシュカン”=神の聖別された臨在が住まう場所でずっと

教えられて来たのです。未だ見ないイエシュアをミシュカンを通して、神の言葉を通してずっと同じ福音を教えられて来たのです。

異邦人クリスチャンは、福音書以降を読んで初めて救い主を理解し、福音書に記された事をタナック=トラー、預言書、諸書に

照らし合わせて読むと考える、福音書以降に詳しくイエシュアが記されていると考えていますが、よくよく考えてみてください。

 

聖書に登場する人達、福音書〜黙示録、1世紀の時代の人達は

タナックしか知らない!聖書としてそれだけが存在していたのです。福音書以降の短い最後の解説付随記録は、聖書として正式に認められたのは5世紀以降なのです。何百年も後。しかも手書きで多くの人に流通して読まれていたのでもない。

ユダヤ人達はどの時代もずっと口頭でもタナックを聞かされ学んで神の言葉を知っていました。

タナック=トラー、預言書、諸書のみから、地上に来られるメシアをはっきりと理解していたのです。タナックには深い内容が記されているからです。そして1世紀当時の人達は、タナックに記されている事実から、毎年毎年神の祭りの時にメシアが現れると待望していたのです。

春の祭り、秋の祭りはどちらも預言的祭りです。春の祭り、2000年前の過越の祭りの時には彼らユダヤ人が理解していた通りエルサレムにメシアが来られて、過越の子羊として屠られ

復活されました。春の祭りで表されている内容は実際に地上に

於いて実現し証明されました。

 

秋の祭りはまだ地上で実現されていない未来預言であり、メシアの再臨、メシアと共に住まう事が表されています。メシアの中に頭脳に割礼がされた人達=新しい契約とは、皆が”互いに主を知ろう”と言う必要がない、イエシュアを通して新しく生まれ、頭脳に割礼がされ神の教え=トラーを皆が生きるその時が来る事が記されている、それがエレミヤが言ったイエシュアが言われた

”新しい契約”=再更新される同じ契約を生きる事です。

今全てのユダヤ人がイエシュアを信じているのではない状態です。頭脳に割礼の無いままメシアが分からないまま、契約=トラーに記されている事は生きているけれど、新しい契約は、ユダヤ人がメシアをはっきり認識して神の教えを生きる事、その時が来ると預言されているのです。

 

イエシュアが2000年前に初めて来て、処刑され復活したから

それまでは救いが無かったのだと考えているのは、肉の目から見ているからであり、神は時に制限されない永遠の中に存在しているのです。神は創造物ではなく、時を含めて全てを創造された方

です。時は神が造られ神はご自分の創造物に制限などされない

お方なのです。

この地上の歴史の始まる前から、永遠の中にイエシュアの死、復活は既に完了しているのです。神の完全なる完了の業を地上で証明したのが2000年前です。人に口で文字で伝えただけでは、それだけでは信じられない、証明にならないから、イエシュアは実際に地上に人として生まれて来られて地上のミシュカンで教えていた事、天にあるイエシュアの贖いを地上で見せて下さったのです。でもイエシュアは何度も現れています。モーセや70人の長老は、シナイ山=天の御座が直接降りてきた場所で、契約を交わした後の祝宴をしたのです。モーセも燃える芝の中でイエシュアを見たのでしょう。モーセ一人で40日40夜、天の現実で

過ごした後、顔が栄光で輝いていたとあります。

永遠の中に全ては既に完了している事実が聖書には記されています。だから私達はこの世の礎が出来る前に既に聖別され選ばれていたとあります。何も形になっていない、何も創造されていない、未だ誰も生まれてもいない前から私達はイスラエルの神の子らとして聖別され選ばれていたと書いてあります。理解不能な

不思議が教えられているのです。全て永遠の中から考える。

ミシュカンの儀式の数々の中で、神の祭りの中で、聖霊に目が開からた人達は、その中でイエシュアの実態を教えられ理解していたのです。エルサレムに出向けなくても、タナックにイエシュア

が記されているのです。エルサレムの神殿で色々な実体験をした人達は地元に戻ってその事を周りの人達にもつぶさに教えたでしょう。

唯一の大祭司〜メルキゼデクの位に属する大祭司イエシュア。

一年に一度ヨムキプルの日に、きよめをした聖別されたただ一人の大祭司=イエシュアを地上で代表するレビ族アロンの家系の大祭司が至聖所に入る事が出来る、贖いの血がふりかけられる事、贖いの蓋の上に乗る כְּרַבִּים クルビム(チャラビム英語 ケラビム)その中に神の言葉=10の言葉の板が入れられている、

ミシュカンの中の最も聖なる場所にある、最も大事な物=神の言葉=命の源、その中に入れるのはただ一人です。

この事実から、イエシュアのただ一度の贖いの意味を理解する人は理解していたのです。これが見えないのは、聖書に書いてある事実が読み取れていない場合なのです。

イエシュアが地上の”祭司制度”=レビ族の代表=アロンの家系の大祭司を通して教えられ表されています。ヘブル書に記されている内容は、地上の影の祭司制度と、天に実際にある祭司=イエシュアの事を話しているのです。影と本体の話です。

 

神の契約が古くて要らないものなったなどの話はヘブル書でも

一切していない、誤解されている内容でもあります。

天にある祭司システム=イエシュア〜メルキゼデク(義の王)の

位に属する大祭司、ユダ族。地上の大祭司はレビ族のアロンの家系の男子のみがなれるものであり、イエシュアはレビ族ではない

ユダ族です。天と地の祭司制度の違いがあるのです。

 

神の家の中=神の臨在に繋がれる唯一の方法は、イエシュアの血により贖われた事実を通して、神の至聖所に入れるのです。イエシュアのただ一度の贖いで人は神の元に繋がれる事を教えているのが、地上のミシュカンで教えられていたのです。

ミシュカンの中の出来事で教えられている事全ては、イエシュア

の業を教えているもの、メシアを教えているのです。

 

タナック=トラー、預言書、諸書に記されている、救い主が

来られる、イエシュアを古代の人は知っていたのです。現代の人達よりもよっぽど深く贖いの業を理解していたのです。

ダビデの詩篇などを読めばそれがはっきりと見えると思います。

ダビデの教科書も、モーセの五書=トラーのみです。ダビデも

ミシュカンでの癒しのプロセスを体験している事を記しています。

シャバットで、新月で、そして神殿を中心に祝われる過越の祭り=イエシュアの地上の最初の到来、秋のショファーを吹く日、王の到来を告げるもの、そしてヨムキプル=大贖罪日を経て、仮庵の祭りを祝う事で、再臨、イエシュアの中に住まう事を教えられていたのです。タナックを新しくされた人、聖霊が内側に住む人達ははっきりとその中に記されているメシアを理解していたのです。

地上にメシアが来られる事を古代の人は、タナックを通して知っていたのです。だからシメオンも、救い主が生まれて一目見ただけで約束の救い主である事を認識したのです。福音書以降の記録を読んでも分かります。注意を払って彼ら古代の人達が何を話しているのか読み取ってください。彼らの頭の中には100%モーセの五書預言書、諸書しかない!と言う事実から考えてください。

ヨハネ10:22そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭=ハヌカが行われた。冬であった。 23イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 24すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。

 

マタイ16:14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

 

マタイ11:3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

 

ヨハネがイエシュアに尋ねた質問に、イエシュアは上の様に答えています。これを聞いた人達は、預言書に記されている救い主に関しての言葉をイエシュアがそのまま言っている事を理解したのです。どこにそれが記されているのでしょうか?

 

イザヤ29:18その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。

19苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い

貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。

 

イザヤ35:5そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。

6そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで

荒れ地に川が流れる。

 

イザヤ61:1主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。

 

詩篇118:26祝福あれ、主の御名によって来る人に。

わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。

27主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。

祭壇の角のところまで祭りのいけにえを綱でひいて行け。

28あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる

 

神の都上りの祭りのたびに救い主が現れるとユダヤ人は考えていました。なぜなら神の定めの時に神は神の業をされるからです。

神の祭りは定めの時=主の日=預言的福音的祭りだからです。

その通りに過越の祭りの時にエルサレムにイエシュアが現れそれを知っていた人達は何をしたと書いてありますか?

 

ルカ19: 35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。

 36イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。

38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。

天には平和、いと高きところには栄光。」

 

ヨハネ12:12その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、 13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。

「ホサナ。<ホシアナ〜どうか救って下さい!>主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。

<主の名〜神の一番親しい名前=יהוה 主と訳されている四文字の名=ありてある わたしはあると言う名。過去現在未来永遠に存在するお方>

14イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。

15「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、

ろばの子に乗って。」

 

ぜカリヤ9:9娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る

雌ろばの子であるろばに乗って。

10わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。

戦いの弓は絶たれ諸国の民に平和が告げられる。

彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ。

11またあなたについてはあなたと結んだ契約の血のゆえに

わたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ。

12希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。今日もまた、わたしは告げる。わたしは二倍にしてあなたに報いる。

 

 

続く