シャバットを迎えました。
イエスさまに出会った〜!あの時から、私が聖書に記された神が伝えている永遠普遍の本物の言葉に出会うまでの長い間、神が人に伝え続けている一番大事な大前提=イスラエルの神は変身、変化せず、神の言葉も変化しないと言う永遠の事実を聖書に記されているのに、それが終わった教えだと教えられてしまい神の性質と神の言葉はイエシュアが地上に来られたら変わったと言う異邦人西洋人が考え出した教えを土台に神の言葉をそれらの思想を通して考えて読んでいただけでした。
神の言葉は終わったと言う人が創作した教えは、神の言葉を読まなくて良い、知らなくて良い、又は全く無視して捨てる行為を
奨励している行為です。だから、聖書に書かれている事が見えない事が起きてしまうのです。
一方神の言葉はあなたの命そのもの、イエシュアそのものであり永遠にガードして生きるものであると言う神が伝える通りを受け取る人には、神の言葉を熱心になって探り求める事を日々し続ける、だから神の言われている事を今日もキャッチし受け取り生きる事が出来ると言う事実があるのです。
神の言葉を蔑ろにする、学ぶ必要はないと言う人の思想に洗脳されてしまい、ほとんどの異邦人は聖書の最初の75%など丹念に読まないし学ばない理由は、単純に神の言葉は今は無用だと教えられてしまっている人の教えを聞いているからでしょう。
どれだけ、神の純粋な言葉に人の教えが混ぜられて別物のコーテイングがされた聖書とは違う教えが混在、混ざったもの、純粋な神の言葉ではないものを聞いてきたのだと気が付いたのはずっとずっとずっと後の事です。不純物、害毒な物が混ぜられてしまうこれから人が食してはならないもの、人が取り入れてはならないものをどんどん取り入れる様に要求されて来る、それと全く同じ事が1世紀後半から起きて今に至るのです。
今は何が人の教えで何が神の言葉なのか、聖書に書いてある事に照らし合わせればはっきりと確認出来るけれども、15年前まで識別する知識が無いので神の言葉と人の創作した教えの違いに
聖書を読んでいても全く気が付きませんでした。有名人、学者、教師達の言うことなどには絶対間違いはない!質問しても上手い具合に言いくるめられて納得させられ、知識の無い自分には何か違うと違和感あるだけで、聖書の記述を根拠にすると言う知識がそこまでなったので神の言葉とは違う人の教えで頭脳が洗脳されたままでした。神が昇天以降に教えを変えたのではなく、異邦人西洋教父達、異邦人信者達がローマ帝国の迫害の前に屈して、元からあるヘブライ思想の神の言葉などに対する反発=反トラー思想、反ユダヤ思想も伴い、自分達や異教徒にフィットし受け入れられる新しい教え=新しい宗教を編み出した事実さえ知りませんでした。
シャバットと言う言葉を初めて聞いたのは15年前です。ヘブライ語さえ全く知らない状態でした。アーメンやハレルヤがヘブライ語?ともはっきり知りませんでした。それほど私は聖書に書いてあることに対して無知でお粗末な教育状態でした。日本人の小学三年生で九九を知らないと言うなら、学校で先生は何を教えているの?と普通は考えるでしょう。でも信仰の世界はその様な事があっても、教師が教えるべき事を教えていないと言う様には決して考えないのです。神の性質を生きるにはまず何を生きるのかを知らなければ、真実な生き方は生きられないのです。
安息日と訳されている言葉は、ヘブライ語で止まる=シャバット
1週間7日ありますが、この第七日目だけ、特別な名前が付けられ
第七日目だけが、週の7日の中で唯一神が聖別している主の日
モエッド=定めの日=神との会見のアポイントメント日として
定められている日です。
異邦人クリスチャンの世界ではローマ教が決めた教えに則り、
第一日目が週の安息日と変えてしまいましたが、それは神が決めた安息日ではありません!ヤラベアム王がした罪と同じ、人が
勝手に思いつき、考え決めた記念日です。
1世紀後半から、異邦人が勝手に神の言葉を改ざんし続けていると言う事実を知らない場合でも、どうして神の言葉、神の記念日
を聖書に書いてある人達、イエシュア 、ユダヤ人異邦人イエシュア信者、又は当時の一般のユダヤ人達が生きていた、祝っていたでも現在どうして違う事を実践しているのだろう?とまず考えたら良いです。そして聖書に戻り神の言葉で記されている事実だけをたどり、さらに神の言葉=聖書に記された真理にだけ基づき
考え続け、神の前に正しい疑問を問い続けて考え続ける事をすれば良いのです。
聖書に基づき神から正しい答えを受け取ることをお勧めします。
本当の事、真実を知ろうと探求し続ける人に神は聖霊=神の言葉の事実を通して必ず聖書に書いてある真実を神は教えて確信させて下さいます。
神が創造を1-6日に間に終了、完了し止まられた記念日、神が人と全ての創造物と揃って集い、祝った人類歴史最初の日が第七日目である!神が創造された記念日である!と言う事実をまず認識して下さい。人ではなく神が造られ、その日を永遠の記念日と神が指定し、神に創造された神の似姿に造られた人たちは、神がされた様に6日の間働いて、第七日目を止まる!神がそうされたから人もそうしなさいと言う神のシンプルな仰せです。
神の言葉を今は破棄、終了、無用、詰まり神の言葉を捨てる、
神の言葉に注意を払わなくて良いと教えられているその事自体が異常自体である!と気がつかないとなりません。
それらの発言は死に神が伝えるところによれば匹敵する罪である聖書に記された罪の定義の丸ごと全体を知らないのは、神の言葉は今は無効であると言う人の教えを信じているからです。
この道路は時速制限ありませんよ〜!これは安全だからどんどん体に取り入れましょう、どんどんやりましょうと言う嘘と同じです。誰かの嘘信じてその通りにしていたら、必ずいつか問題にぶち当たります。だいたい神の言葉に敬意を払わない意識はサタンから出ているものであり、そしてそれは人を神から引き離すものである、そして人を安全な境界線の外に飛び出して生きて良いよと教えている偽物の教えである!と気がつかないと本当に危険です。
神=言葉=イエシュア =聖霊=トラーである!と言う事実を聖書から知らない異邦人が考え出した教え、神の言葉は廃れた、神は
死んだとドイツの哲学者ニーチェが言った性質に繋がります。
神は死んだ、神の言葉もほぼ壊死したと言う人の教えを全部捨てて、神の子らは今、今日この日、正真正銘神が週一度呼び出している聖別された日=聖別=神の目的通りに分かたれた日=主の日に集い祝う事をしよう!人ではなく、神が招いている事実に目覚めて気がついて、本物の羊飼いの声を神の言葉=聖書から発見しましょう!
一年に渡り、神が神の創造された記念日=神の子らを呼び出し
一緒に祝う定めの日=アポイントメントの日を神が決めて人に
伝えています。その神の言葉を聞くのも、拒否するのも、それぞれ個人個人の選択です。そしてこう言う思想を発言するのはやめないとなりません。
神の言葉を生きる、イコール律法主義、恵を無駄にする生き方である!
パウロが話しているのは、神の救いを人の手柄=宗教儀式=ユダヤ人になる改宗儀式を通して得ようと考えている人達に向けて
話している、その様な思考回路で行動する人は、神の救い、贖いの意味を根本的に分かっていないからです。人の行動、努力、
修行では救い贖い聖霊は得られるものではないからです。
義とされ新しく創造される事実は、人が自分自身を造り出せない生み出せないのと同じ、神により新しく生まれ出されなければならないと言う事実を分かってないから、恵から漏れていると話しているのに、異邦人クリスチャンの世界では、古い教え=律法を生きる人は恵から漏れるなどと考えているのです。
律法に戻るのか〜恵みを捨てるのか〜と言う発言をする人達は、福音書〜黙示録に書かれている内容が100%モーセの五書に基づき語られている、モーセの五書とは違う新しい別の教えや契約、約束は1つも書いてないと言う事実を知らないからその様に考えているのです。支離滅裂。モーセの五書が律法なら、福音書以降のイエシュアの教えも、パウロの解説も100%同じ律法です。
福音書以降に記された新しい教え=神の言葉ではなく今の時代は聖霊、恵で生きるのだ〜!?聖霊イコール神の言葉なのです。神の言葉はどれも100%神ご自身=聖霊により記されたものであるのです。この思想、どんなタイプの宗教でも生み出す事が可能です。神の言葉を捨てるとは信仰の根拠が無くなると言うことだからです。根拠=それぞれの悟り、それぞれの発想、それぞれの考え=恵、聖霊により導かれる。聖霊に導かれる根拠は神の言葉に基づくものでなければならないのです。
さて、この神が創造されてお膳立てし招いている週一度の日は
第七日目以外にないのです。それ以外は全部労働日、普通の日
です。日曜日はイスラエルでは労働第一日目、学校に行く日です。神の言葉では日曜日は主の日、聖別された日ではないのです。人間が後から考え出して決めた日!イスラエル以外の国は神の言葉に根付いて生きていないので、それぞれの国の、それぞれの文化、社会の規定で動いているのです。これが神の地上で選んだ国神の言葉、栄光を反映させ、世界へ伝える役割として選んだ唯一の国と、そうではない異教の神々に仕える国の違いなのです。
今年2023年の過越の祭りは4月5日の日没から始まります。
一年に渡る神の呼び出しの日、アポイントメントの日に関して
再び話す良い機会に当たる時期です。神が言われた!と言う事を
本当に聞く人は神からの祝福を受けます。これは否めない事実。
祝福を受けると言うと、御利益とか繁栄の神学みたいな思想を考えると思いますが、違います。もちろん必要の全ては与えられると言う約束は契約の保証の中にあります。
私達人が一番望むものは、本来の姿を生きる事、神に創造された本当の自分を生きる事、そして神と他者との本来の関係を生きて体験する事、神と顔を顔を合わせる最も親しい関係の実態に生きる事、それが神のデザインだからです。それが満たされないので、あちらへこちらへ色々な方向へ代替えを求めて彷徨ってしまう事が起きるのでしょう。
モーセが一人だけ、神の国=天がシナイ山に降りてきたその中に
入って行って直接神と対面した栄光を受けたのです。
目に見えない現実を私達も今受け取っているのです。
基本は神が言う事に耳を傾けて聞く。聞いて理解したら全部分からなくても生きる。それを始める事です。信仰は100%行いに
直結しています。行いが無い思想だけの信仰は異邦人哲学の世界の話だけのものなのです。神の言葉を生きる事が悪い事と言う思想は、神が伝える教えとは全く異なることを聖書から知っていないとなりません。あなたはわたしの言葉を行う事が出来ると神が言われたのはなぜ?頭脳に割礼がされ、神の言葉を理解し、内側に聖霊=イエシュアが住んでいる事実があるからです。
申命記30:11−16
神は神の定めた時に、神に贖い出された人々、イスラエルとそして同様に同じく神の言葉に応答して神の家族と加えられた人々
全てに向けて神は同じ教えと同じ約束、そして同じ記念日を祝う事を伝えています。
同じイスラエルの神に贖い出され、救い出された個人個人、コミュニテイの中で、神は力強い方法で、特別な方法で私たちと出会って下さると約束しているのです。
シャバットは一年に渡り毎週第七日目に招き出されている日。
それを祝い、月一度の新月、聖書の暦の、月の第一日目を祝う。
そして、春に4つ、秋に3つの祭りを祝う、これが神の創造された神の正真正銘オリジナルの永遠に、代々に渡り神の子らで祝われる記念日と人ではなく、神が人に伝えている記念日なのです。
レビ記23章。
シャバットは、その日突然ではなく、前から準備して祝うもの。
その準備する、シャバットに向けて仕事をプランする、用事を
プランする、神の呼び出された日を祝うために準備すると言う事を生きる中にも神から色々な事を教えてもらえます。全てシャバット中心に日々の生活が回って行く。そしてシャバットで学んだ事を他の6日間に同じ様に生きる。神から全て与えられている、神から教えられている全てを生きる日々を過ごす。
続く
Shabbat Shalom