シャバットの喜び | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

誰がこの世の全てを創造されましたか?誰が時を創造され、

誰がシャバット、新月、過越や仮庵の祭り、神の聖別された記念日=皆が覚えて祝う特別な日を創造されましたか?

創造主がそうされたのです。人間は神の創造されたものどれ1つ創造など出来ないからです。

 

神が創造された、イエシュアもこの世界を創造された、不思議な

事が聖書には書かれています。

ヘブライ語では、神が創造されたと言う言葉を、”エロヒム”=神、異教の神々でも使えわれるジェネリックの言葉しかもこれは複数形で書いてあるのです。単数は、エル。エロヒム=複数。

そして造られたと言う言葉は、神の創造にしか使われない”バラ”

と言う言葉ですが、この動詞は単数三人称男性なのです。

これは翻訳では見えない事実が見えるものです。最初からイスラエルの神=イエシュアが記されているのです。

 

そして神の創造の始めから、神は時を創造され、神に取り特別な日を取り出し、分けて=聖別し、その日を人も特別な聖別された日として過ごす様にされました。人が決めたのではなく、神が決めて創造したと言う事実に留まれば神の言われる意味が見えてきます!

 

人は神に聞く以外に、本当の意味において生きる術が無いと言う事なのです。

神が最初に”聖別”と言う言葉を使われたのは、この第七日目で

あり、この日にだけ特別な名前をつけました。シャバット=止まる。そして第一〜第六日目には名前がありません!単なる数字で表されているだけです。

これだけでも、1〜6日は普通の日、神に聖別された日とは異なる、神が創造された通り、労働する日、止まる日ではないことが

はっきり記されています。

この様な記述を読んで、深く考えて行く必要があります。この箇所を空で暗記してるさと思うと、この中に記されている奥深い神の考え、神が人に教えようとしている永遠に続く深い麗しい教えを発掘しこないます。

 

人は神が説明する通りを聞く!これが基本中の基本。神の言葉

教えに人がアレンジしてはならない!と神が言われている通りです。子供の頃、母はお料理が上手で、自分の作ったものに自信が

あったのだと思いますが、料理に余計なソースや味付けし直す事は、作った人の料理に対して失礼になるのよといつも言いました。まあ味付けや塩加減はその人の好みと言う事もあるのでしょうけれど、完全これでぴったり思った通りのものが出来上がった!と言う思いが人にもあるのです。神が語られている事は、その通りです。完全であり人間が手直ししたり、変形したり、改良する必要がない!その様な余地も無い。と言う永遠の事実を知って下さい。しかも神の言葉は設計図、DNAと同じで、人が手を

つけて遺伝子組み換え、設計図変形したら神の意図通りは表れ出てこなくなります。

何も聞いたことがない、聖書を読んだ事もないとして、考えてみて下さい。私達、イエシュアを通して神の者として取り戻された人、イスラエルの神に属する者は、神が伝えている真実を知りたいと願うのではないのでしょうか?

 

それとも、何でも良いから神の言葉ではなくて、自分の感情を表現したいから、自分の思い、発想、考えに沿う事をしたいと考えるのでしょうか?

 

神を愛する人は神の言葉=教えを聞いてそれを生きる人とイエシュアも言われました。愛すると言う実態は何をもって表されますか?

その人の生き方で周りにその人の信じている事を表明するのです。信仰は単なる思想や哲学ではない、聖書は全て”動詞”アクションが記されているのです。

 

ヤコブ2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、

それだけでは死んだものである。

2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって

信仰を見せてあげよう。

2:19 あなたは、神はただひとりであると信じているのか。

それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。

2:20 ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。

 

愛の表れ、証明とは、相手の言う事を真摯に聞いて受け止めその通りにする事です。相手に対して本気で関係を持つ事を行動で

見せる事です。

相手の言う事真面目に聞かず適当に聞き流して、相手の意思を却下し、自分が良いとする事をする、それって相手を愛している

実態が現れているのでしょうか?単なる自分勝手な自己中心な

行動です。こんなシンプルな事実が見えなくなってしまっているのです。神の栄光は神の言葉を実際に生きる中から現れ出ます。

相手がこの様にしてとはっきり伝えているのにそれを人が丸無視しているからです。

 

それは、人間が作った教えや、人間が決めた神の仰せとは違う事

が神の言葉、教え、み旨であると誤解しているからです。

それらは、人が創作したもの!とはっきり分かれば、どう言う

行動を取るのか、それはそれぞれが神の真理をはっきり自覚した時自ずから取るべき行動は分かる事です。

 

信仰=行い=神が言われた事を行う事です。ではどうして異邦人の世界では神の言われた事を放棄しているのか?ひとえに全て

今まで書いてきた通り、1世紀後半から神の言葉ではない教えに

神の言葉は今は必要ない恵みの時代と言う、聖書とは何も関係のない、当時の自分達の立場、都合=ローマ帝国からの迫害を回避するため、そして元々あった反ユダヤ思想、それに伴う馴染みのないモーセの五書に対する反感神の言葉に同意したくない異邦人達の思想を元に作った宗教=カトリックと言う教えが土台にある

からです。

 

でも神は何と人に伝えていますか?人の教えに遮られないで、神に言葉だけに向き合って下さい。私達は神から与えられるものは宝、祝福なのに、それを受け取る邪魔をされてはならない。

神の永遠不変の仰せ、言葉教えだけに戻って考えれば見えます。神は今も私達に変わらない神の教え、神に造られた人の生き方をずっと語り続けています。

 

それは聖書を読まないなら、神の言葉が終わったと考える人の

耳、頭脳、腹の奥底には届かないのですが、静かな小川のせせらぎの様に、その音=神の言葉に気が付いて考える人には、神の声

=聖書に記された神の言葉は、音、せせらぎの様に小さな音でも絶え間なく流れ続け語り続けている事実を聞き取る事が出来ます。

神の言葉も神の性質もたとえ人がどう説明、解説、理由づけしようとも、実際に永遠に変化しません。神の言葉は変化すると言い続けているのは人間が勝手に思い付いた教えを言っているだけなのです。聖書に照らし合わせて、神の言葉が伝える神の永遠普遍だと言われる言葉に気が付かない人の発想。

神の言葉が神が伝える通りに変化しない事が真実なら、以下の

しかも未来預言も永遠に変わらないのです。異邦人に対しての

励ましの言葉でもあります。

 

イザヤ56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、

56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。

56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――

56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

56:8 イスラエルの追いやられた者を集められる主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。

 

神は神の仰せを生きる時、神の聖別された日に特別な出会いをすると約束されてこの日に神の子らを呼び出しているのです。

 

宗教、文化、国の、個人個人の特別な記念日は人間が決めた、

作ったものですが、神には神の創造された人々を呼び出している定めた日=聖別された日=主の日を創造の最初から用意し、

それを歴史の途中で変えてなどいません。

 

聖書の事実だけに基づけば、神の週一度の記念日は第七日目であり、そして月一度の記念日は新月の日であり、春には4つ秋には3つの祭りがあるのです。それは永遠に変わらないのです。

 

パウロが使徒20章で過越ー種無しパンの7日が終わり、次の祭りシャヴオートまでの7週の最初に当たる時に、次の旅への相談などをしていた件が書かれています。ここには日と言う言葉はギリシャ語には無い言葉が翻訳では挿入されてしまっています。

 

これは、例えシャバットの終わる夕方だとしても、これが日曜日礼拝であるものではないです。夕方に集まりパンをさくと書いてあれば、今も同じくシャバットを閉じるために集まり食事を一緒にするからです。しかも週の第一日目は聖書では労働日、普段の日です。聖餐式なるものなど1世紀には彼らの中には行われていません。しかも、安息日=シャバットをユダヤ人が別の日に変更したり、安息日に旅やビジネスや商売の話などしないからです。

 

クリスチャンが聖餐式なるものを今月の日曜日に実践しているのは、カトリックが、過越の祭りでした晩餐の中の1つを取り出して、別の儀式にしたものを行なっているのです。最後の晩餐で、イエシュアがされていた儀式は、過越の晩餐、”順序”と言う名前が付いた晩餐で、出エジプトの一連の出来事の意味、私達が贖い出され、新しくされ、神のものとされ解放された事実を思い出すものであり、春の祭りの1つなのです。

ユダヤ人は今も金曜日の夕暮れ、2つのハラーのパンをさき

ワインでシャバットを祝いますが、それは聖餐式をしているのではないのです。

しかも過越の晩餐で食されるパンは種無しパンであり、種あり

パンでは意味がないからです。罪がそぎ落とされた人、新しく

創造された人を表すものがマッツア=種無しパンだからです。

 

様々な憶測で誤解して聖書を読み違えているだけなのです。

 

シャバットを神の言う通りに尊ぶ人、異邦人は神がこう約束されています。”わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる”。

 

Shabbat Shalom