いつか私達の本当の王の王、主の主、所有者、創造者の前に顔と顔を合わせて立つ日が来たら神になんと言いますか?”私はあなたの古臭い教えは有害で律法主義なので、あなたの言葉を熱心に学ぶ必要などない、知ろうとする必要などない、あなたの古い教えを生きることは律法主義に陥るので、恵みを生きる様に自分にも言い聞かせ、人々にもそう教えました。人々にあなたの言葉は変化し意味が軽減したので注意を払う必要などない箇所が殆どになり、特に異邦人には関係ない教えになったので、神の言葉だけど軽く扱う様に教え、その代わりにイエス様を信じなさいと伝えて来ました!”と言うのでしょうか?
一体誰の教えを根拠にこの様な事を考えているのか、これらの
言葉で表される内容を聖書に照らし合わせて調べたら良いのです。
古い教え=創世記〜マラキ?それなら福音書〜黙示録も古い教え
もトラーそのものなので、同様に同じく古い無用である律法の教えになるのです。古い教えと信じる人には神の言葉の意味は消え何もかも無意味な古い教えと変化してしまうのです。
聖書にはトラー以外の教えなど書かれていないのだ!と言う永遠の真実にまず気が付かない限り、人の教えに引っ張られて行きます。だから申命記など読んでも頭の上を通り過ぎてしまうのでしょう。
でもイエシュアが引用されていた多くはトラーです。モーセの五書。イエシュアの山上の垂訓など申命記を解説しているのです。その事実に気が付いていますか?イエシュアが父の言葉=トラーを否定する教えをしたら、イエシュアは偽救い主、偽教師、偽預言者と言う事になってしまうのです。
申命記4:1 イスラエルよ、いま、わたしがあなたがたに教える定めと、おきてとを聞いて、これを行いなさい。そうすれば、あなたがたは生きることができ、あなたがたの先祖の神、主が賜わる地にはいって、それを自分のものとすることができよう。
<イスラエルと書いてあって異邦人とは関係ないと読むのでは
ないのです。イスラエルの中に、同様に神の言葉を受け取り、
贖い出された人全て、イスラエルとは神の家族の代表の名前、
大家族の名字として記されている!と言う永遠不変の事実から
読まないと、聖書は、イエシュアは異邦人には全く関係のないもの、この世ではイスラエルしか神の家の中に住まわないと言う
宗教の教えに変身するのです。>
4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、
主の命令を守ることのできるためである。
4:3 あなたがたの目は、主がバアル・ペオルで行われたことを見た。ペオルのバアルに従った人々は、あなたの神、主がことごとく、あなたのうちから滅ぼしつくされたのである。
4:4 しかし、あなたがたの神、主につき従ったあなたがたは皆、きょう、生きながらえている。
4:5 わたしはわたしの神、主が命じられたとおりに、定めと、
おきてとを、あなたがたに教える。あなたがたがはいって、
自分のものとする地において、そのように行うためである。
4:6 あなたがたは、これを守って行わなければならない。これはもろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。
彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。
4:7 われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。
4:8 また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべてのトラーのような正しい定めと、おきてとがあるであろうか。
4:9 ただあなたはみずから慎み、またあなた自身をよく守りなさい。そして目に見たことを忘れず、生きながらえている間、それらの事をあなたの心から離してはならない。またそれらのことをあなたの子孫に知らせなければならない。
30:1 わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、
30:2 あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、
<イエシュアもこの箇所を引用して人に話し諭しました。>
30:3 あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。
30:4 たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう
30:5 あなたの神、主はあなたの先祖が所有した地にあなたを帰らせ、あなたはそれを所有するに至るであろう。主はまたあなたを栄えさせ、数を増して先祖たちよりも多くされるであろう。
30:6 そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。
30:7 あなたの神、主はまた、あなたを迫害する敵と、あなたを憎む者とに、このもろもろののろいをこうむらせられるであろう。
30:8 しかし、あなたは再び主の声に聞き従い、わたしが、
きょう、あなたに命じるすべての戒めを守るであろう。
30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。
30:12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:13 またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。
30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。
30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。
あなたは命を選びなさい!あなたは神の言葉を生きることを選びなさい!と言われて、どうしてそれを神の言葉を捨てよ!と言うすり替えられた教えに付いて行く危険に気が付かないのか!と
警告していることでもあります。
聖書に記されている事を読み知れば、多くの真実が見えて来ます。出エジプトした人たちはイスラエルだけではないのです。
少数=異邦人で表されている事実を見ても分かるでしょう。
モーセを通して、代表を通してイスラエルに伝えられた神の言葉を同様に受け取る残りの民の異邦人はどの時代にも居る事実が
あり、神は肉的ユダヤ人だけに助け、許し、救出、贖い、祝福、
恵みを与えているのではないのです。彼らユダヤ人と言う大家族の長男を通して、家族の兄弟姉妹全員同じ祝福を受けるとあります。アヴラハムは全世界の父、彼も異邦人だった事実に注目して下さい。神は神の言葉に同じ様に応答する人達を誰でも受け入れるからです。区別などないのです。
それともユダヤ人の中にいるイエシュアと異邦人の中に居るイエシュアは別物であると言うのですか?そう言う思想を言うのが
異邦人なのです。神のこの教えは異邦人には今関係ないと言う
思想は、永遠不変の神の性質を曲解し、永遠不変の神の言葉を
曲解すると同時に、別物2人のイエシュア=聖霊が存在すると
言っている空想思想そのものなのです。
イエシュアは住まう人の中で自由自在に変化すると考えているのでしょうか?それは聖書ではなく、空想話、人が作った宗教神学の作り話に過ぎないのです。
聖書に書いてある未来預言を読み、それを寓話化しないで読めば
神が伝えている事、神の家の中に異邦人ユダヤ人共に住まい神を
礼拝する日が来る事実が書いてあるのです。
イザヤ56:2 安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。
56:3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。
56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、
56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。
聖書の中から神が神の言葉を変えた!と考えるなら、それはどんな箇所を取り出して考えているのでしょうか?神が永遠不変と言われた言葉に照らし合わせたら、神の言葉が変わったと誤解する箇所は、書いてある内容を誤解し、書いてある意味をその通りに
受け取れない人達が主張している解説を聞いているのだ!と言う事に目覚めて、気が付いて下さい。
変化しないものが同時に変化すると言う事自体、真実ではない
完全なる矛盾です。
そんな単純な事実にさえ宗教と言う教えは人の思考を洗脳し
神の言葉の事実に対して麻痺させ、盲目にさせているのです。
イエシュアはトラーに書かれた本来の人間の生き方が出来る、
復活の命=永遠の中から存在するものを地上で証拠として
自らの処刑と復活で証明して下さったのです。残りの民はどの時代にも、神の言葉を理解していた人は同じ復活の命を内側に信仰により受けていたのです。1世紀の人たちは100%タナック
のみを読み、その事実を知っていたのです。そうでなければ、
どうして弟子たちが”あなたが約束の救い主ですか?”と聞いたのですか?どうしてシメオンが赤子のイエシュアを神殿で見た時に救い主である事を見て、神に感謝を捧げたのですか?ヨハネがどうして”見よ、神の子羊!”と言ったのですか?みなタナックから
救い主イエシュアを知っている人は知っていた!!!同じなのです。
2000年前に突然救いが出現したと考えるキリスト教の教えと
聖書に書いてある真実=永遠不変から存在し、この世の礎が造られる前から全てが用意され、選ばれている事実に照らし合わせ、その事実がタナックに様々な人の人生と出来事を通して教えられ記されている事を学べば、神は永遠の中から存在する同じ福音、同じ教えを伝えている事をはっきりと聖書の記述から確認するに至る事が出来ます。それをしないから、神の伝える永遠不変の真実が見えないだけなのです。神の言葉ではない、人の教えに決別さようならする言う最後の時代に既に入っているのです。
ルカ2:21 八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。
2:22 それから、モーセのトラーによる彼らのきよめの期間が
過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。
2:23 それは主のトラーに「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、
2:24 また同じ主のトラーに、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。
2:25 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。
2:26 そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。
2:27 この人が御霊に感じて宮にはいった。するとトラーに定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、
2:28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、2:29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、
2:30 わたしの目が今あなたの救=イエシュアを見たのですから。
2:31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
2:32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。
続く