日本に来てから毎日が怒涛の様に超忙しく過ぎていますが、
その中でシャバットを又迎えて、諸々の雑用を全部ストップ、
リセット状態になり、この神が定められた日を歓迎し、迎えています。何が大事か思い出す。ゴミ、毒を食べ続けてはならない。
ゴミ=毒〜体も同様、自分の頭脳に取り入れる異物の考え、
蛇の囁きを逐一一掃し続けないとならないのです。それが自分自身が神の中=エデンの中に留まる唯一の秘訣〜神の言葉で守られる事です。
様々に起きる日々の出来事は決して偶然などでは無いと言う事を
体験的に自覚学習している日々です。地上の歩みはこの連続で
そしてどの過程、歩みの中も、主の中に居て運ばれている現実
主に出会う体験、実際の出来事を通して主の現実、実態に新たに
出会う体験を繰り返すと言う事です。
それがモーセの五書に書かれている贖われた人の生き方です。
そして実は悩みの日こそ、良い。詰まりは神の掟を学ぶからです。
前回の記事に続く事なのですが、どれほど人の教えに汚染されてしまって来たのかと言う事に気が付く場合、気が付か無い場合
話せる内容が異なってしまいます。
超えられない壁。。。神の言葉=預言では、最後は主の名は1つになり、神の民は1つとなる預言の通り、分裂は無くなるのです。
ゼカリヤ14:9 主は全地の王となられる。
| יְהוָ֛ה 主は一人=エハッド 彼の名=主の名も1つ=エハッドと書いてあります。 どう言う事を神が人に伝えているのか、宗教の教え=商人が売る宗教の教え=人間の教えは最後は全部一掃され、主ご自身の実態、主が語られる真実な言葉、教え=人の生き方に戻る事が預言されています。 神が語られる神が人に伝える人間の生き方、それらはモーセの五書のみしか無いのです。異邦人クリスチャンはモーセの五書を否定した教えが最終的な神の教えである、それが福音書以降に書いてあるなどと信じていると思います。そう信じる理由は、信じた初めから周りにそう教えられ続けるからです。 でも聖書には最後には偽物、混ざりもの、自ら勝手に編み出した宗教定義の聖別は全て消えて、神が伝える通りの本来の性質、生き方に戻る事が預言されています。 どうしてユダヤ人と異邦人が別の教えを生きて、別の記念日を 祝うのが当然だと考えてるのか?それでは神の言葉とは異なる 生き方です。最後に1つ神の中に1つ性質、人種に関係なく どの人も神が伝える同じ聖別された生き方をし、同じ記念日=レビ記23章に書かれたものを世界が祝う日がやがてくると 神が言う預言とは真っ向から違う考え、実践をしているのです。 パウロの書簡にもある様に、1世紀当時のユダヤ人は、異邦人など天の国の相続権など無い、だから異邦人はユダヤ人になる 改宗儀式=ユダヤ人が編み出した儀式を通して完全にユダヤ人に帰化しない限り天の一員とはなれないと教えていたのです。 それは”律法の行い”と呼ばれる人の教えの1部なのです。 詰まり、神がモーセの五書で伝えている内容とは違う、信仰により義とされた事を受け取り神の子とされる事とは異なる教え なのは神の言葉により明らかに記されているのです。 そして、一方異邦人クリスチャンの世界では、1世紀後半から 異邦人教父達により教えられ続けた反モーセの五書思想プラスローマ帝国からの迫害で、ユダヤ人同様モーセの五書を生きる人達は全てユダヤ人とみなされ、重税が課せられ処刑されたのです。 だから異邦人クリスチャンの世界では、モーセの五書を生きると言う事を聞いただけ瞬時に条件反射的にものすごい抵抗を示すのです。神の言葉を生きる事があたかも悪い事、恵みを捨てる神に対して失礼な生き方をする事、そして聖霊により救われた事を無視する事、古い律法により義とされるためにやって いるなどとトンデモナイ勘違い誤解をしているからです。 人は神の口から出る一つ一つの言葉により生きるとある事と 真逆の教えを信じても矛盾に感じない。感じない=神の語る真理に気が付けない鈍感な状態に留まっているのです。 神の口から出た言葉=モーセの五書である事実に全く盲目なのです。 聖書を読めば明らかに分かる通り、イエシュアが生きて教えたのはモーセの五書のみです。そして贖われ救われた人は、 モーセの五書に書かれた生き方に戻ると書いてあるのです。 間違い、誤解は、2000年前以降の人は救われるため、救いを維持するためにモーセの五書を生きるのだ!と言う完全なる誤解の発想から聖書を読み考えているのです。 救われるためにモーセの五書=神の教えを生きるのではないのです。昇天以前の人達も漏れなく100%全て同じイエシュアを通して以外に父の元に来れない!と言う事実を聖書から読み取っていないのです。イエシュアを通して以外救われる方法は後にも先にも1つしか存在していないからです。 神に贖われ救われた人は、神の性質を生きる事に戻る!これ=トラーに生きよ!とはっきり聖書に書いてある事を理解しないまま、人の編み出した教えに聞き入るから、誤解が誤解を生み出し、神が伝えている真実が見えないまま人の発想を語り続けてしまうのです。 宗教の教えに浸透埋没邁進してしまうと、神の言葉のある部分は理解出来ても、その他の聖書の記述が人の教えに塗り替えられ洗脳されてしまっているのでどうしても理解出来ない誤解し続けてしまうのです。 神の言葉が律法であると言う思想は、聖書とは全く異なるものです。第一に神の言葉を指して律法と言う言葉は只の一度もヘブライ語では聖書に記されていないのです。不適切な翻訳は人に神の言葉の真実を伝えない妨害をするものです。律法と言う翻訳の裏にある本当の言葉は、トラーであり、その意味は、 教え、インストラクションと言う意味なのです。しかも神の 言葉は人を生かすもの、保護するもの、神に造られた神の性質の生き方を伝えているものであるのに、どうして神の教えが 途中で廃れ歴史の前後で神の言葉が呪いの律法であるとされてしまうのですか?昇天前後で神の言葉がどうして変化したと 聖書に書いてない事、人の教えを根拠にして考えるのでしょう?その思想自体が全く非聖書的なのです。 神の言葉、呪い縛り律法。詰まりイスラエルの神=イエシュア=聖霊は呪い、縛り、律法だと言っているのです。それって どんな神?です。人を呪いの律法で縛り上げる意地悪な神? 神ご自身は神の言葉は完全であり人を生かすもの、道を照らす光=光の中に歩めと伝えているのです。反トラー思想は全て 異邦人が編み出した単なる人の思想に過ぎず、それはいずれ 時が来れば確実に消滅すると預言されているのです。そんな 消滅しなければいけいない人の教えを信じて生きる無意味、 その意味を考えれば良いのです。人が最初に嘘を食べたらどうなったか?エデンの園の騙しを思い出せば良いのです。 私達が神に教えられている事は、人が考えた半分神の教え半分人間の教え=混ざり物の偽物=宗教の教えを知り生きる事ではなく、純粋な神の言葉神が伝える人の性質を生きる事に戻る事だけなのです。 聖書を読んで行くと、人々の中に神に対して戻ろうと言う願望 これらをクリスチャンはリバイバルと言っていますが、それが 起きる条件がはっきり記されています。 ”神の言葉”に戻り熱心に探り生きる=これが神を求めると言う行為だからです。神の伝える事を知りそれを生きることに戻ろうとした時に人は生き返るからです。 神=言葉=トラー=イエシュアだからです。 ネヘミヤやエズラ、その他預言書にはっきり記されています。 人が神の真実に目覚めるのは、神に言葉=聖霊により書かれた 神の実態に目覚める時です。 私はクリスチャンの教え、実践、生き方をバッシングする意味でこの様なブログを書いているのでもないし、同時に人造= 人の教えを擁護支持、支援などもするつもりなども全く無いのです。不真実な教え=人の教えは神の教えではない!と言う事 そして人の教えではなく、神の純粋な言葉だけを知ろうと言う共通の場所に立ちたいのです。 残念なのは、素晴らしい生き方をしているのに、神の言葉を日々読み感動しているのに、それらがモーセの五書に書かれた 教えである事に気が付かず、昇天以降は新しい教えが出現し 以前の律法に縛られた生き方から離れよ!と言う思想が本当であると考えてしまっている事、そしてそれを人に伝えてしまっている事。偽のイエシュア像を世界へ伝えている事。 それほど人の思想に洗脳されてしまっているのです。 初めから神の純粋な言葉だけを教えられ生きる場合には、 宗教が編み出した教えなどが聖書では無い事が理解出来るのです。 |
シンプルに記述すると、クリスチャンの世界では、救い主が来られた後は厳しい呪いの律法から解放されたのだから、律法に
戻るなかれ〜と言う教えが根底にあるのです。
この教え、相当根強く例えて言えばなんだろう白壁に染み付いたカビ、生木に染み付いた墨のごとく拭い去れないほど密着したものなのです。神の言葉=神ご自身である事に全く気が付いていない神の言葉から気が付いていない落とし穴にはまっているのです。
この様に考えていませんか?クリスチャンになって同時にユダヤ人=モーセの五書に書かれた生き方をする事は出来ない!律法に戻るなかれ!と言う教えを異邦人クリスチャンは聞いているのですが、それって根本的に聖書とは何も関係の無い人の思想です。
なぜなら、イエシュアが示され教えられ生きたのは父の言葉=
モーセの五書であり、モーセの五書に書かれた生き方は呪いの
縛り、又はモーセの五書を生きる事で救いを得る時代は終わらせるために来られたなどと聖書に書いてない事を異邦人クリスチャンは考えている、その思想こそが根本的なズレの原因です。
イエシュアは逆を話しているでしょう。しかも聖書に登場する人
聖書を書き記した人、全員ユダヤ人である=ルカもユダヤ人背景であると考えられていますが、それらの人達の中で誰一人西洋宗教神学思想を考える語る、神の言葉が終了して新しい時代が来たなどと言う空想教理を考えている人など存在していないのです。
あるクリスチャンがユダヤ人にこう言います。キリストを信じたらユダヤ人やめなさいと。?イエシュアを信じる事、これほど
ユダヤ的である事に気が付かず、イエシュアが生きたことがモーセの五書である事も聖書の記述にあるのに読み取らず知らず、
イエシュアを信じたら古い教えから解放されよと言うのです。
だからイエシュアを信じたら、シャバットを捨て、日曜礼拝をし
ポークハムサンドイッチを食べよ!と言った人がいます。
あるユダヤ人が、レビ記11章に書かれた人の食べ物ではない
神が禁じる聖別を破る食べ物を食べよ!とクリスチャンに言われ
それが出来ないならあなたは救われてはいない証拠だと言われたそうです。そのユダヤ人も本当の意味でモーセの五書を理解していない人だったのでしょうけれど、証拠としてレビ記11章を
破れ!と言われたそうです。イエシュアが私を信じたら、モーセの五書に書かれている事を破り、なんでも感謝すればきよめられるから、豚、ネズミをも喰らえなどと言うとでも聖書に書いてあるなどと信じているのでしょうか?
悲しいかな、神の言葉を理解しない異邦人とユダヤ人。
当然そのユダヤ人は罪悪感は感じたそうです。
その反応の方が神の前に正しい事なのです。エデンの園で神に禁じられた行為をして尚もそれが神の伝える真実だ!などと言う矛盾に耐えらない。神が禁じた事は永遠に変わらない。それをやることが恵の時代の生き方だ?完全に神に反する宗教の教えです。いや実際死が人の中に入ったのは、神の伝えた禁じられた行為=食べる事をしたと言う事をよく考えないとならないのです。
続く