日本に来て友人や家族と話している中でどれほど聖書からかけ離れた教えが浸透したその代償を目の当たりにしています。
超えられない壁とは、自分が見聞きして来た教え=神の言葉に手を加え塗り替えた教えなのに、それらが聖書であると言う事を
疑いなく信じる場合には、神の言葉に戻り書いてある通りを知ると言う事をしない場合は、巷に横行する主流な教え=異邦人が
唱える”神の律法は廃れ新しい教えが出現した”と言う事が聖書=神の言葉では無い!と言うことに全く気が付けない事です。
神の言葉は永遠不変真実である!と告白し同意するのに、実際の実践はそうではない。どうして神の教えが途中で代わり、聖書に登場する人々が信じて生きていたトラーの内容と、異邦人達が教える内容や実践が違うのか?
その大矛盾に何も疑問に思わないのです。
いつ神が神の言葉を変えて良いと命じ、いつ神が永遠に祝われると言う記念日を変えた事を実践せよと人に伝え教えたのでしょうか?その様な事は聖書には1度も記されていません。
その様に考えるのは神の言葉は永遠不変と言いながら、途中で
変わったと言う事が当然の事であると信じているからです。神が宣言する永遠不変!と言う事実と、どうして違う取り扱いを神の言葉に対して行っているのかと言う事を、真剣に考え始めれば
神の言葉とのズレが見えてくるはずです。
神の言葉は変わったと言う理屈、理由付けは全て1世紀後半からモーセの五書を否定したい異邦人教父達が唱えた神の言葉を退ける教えから来ていると言う事実を歴史の史実からも知れば分かると思います。神が神の言葉を変えていない。
でも人間が変えたのです。
神の言葉に聞かないで、人の教えに聞き入ると言う事は1世紀
イエシュアが居た当時も横行していたのです。
異邦人クリスチャンの教えと1世紀のユダヤ人達との違いは、
クリアーでもあります。
何が違うのか?1世紀に横行していた教えは、神の教えを人間の
解釈でこれこれあれこれしないとならないと言う、パウロも
解説していた”律法の行い”が存在していたのです。
律法の行いとは、モーセの五書に書かれた神の言葉ではありません。人間が勝手に解釈して人間が決めたルールをやるように他者へ強要したのです。これらのルールを決めたのは当然教師達です。でも神の言葉の本質からズレているのです。でも彼ら1世紀のユダヤ人の中には、異邦人クリスチャンの様に、神の言葉が廃れた、モーセの五書は呪いの律法で終了なのだ!などと言う非聖書的発想をする人は誰一人として存在しなかった!と言う事実を聖書の中から知って下さい。聖書も神の言葉は永遠であり途中で
廃れたり変化しないと最初から最後まで書いてあるのです。
でもサドカイ派の中に、復活を信じないと言う人も居たので
ある部分の神の言葉=聖書を正しく理解していないと言う事が
あっても、異邦人の世界で語られる様な西洋宗教神学、教理など
存在などしていなかったのです。聖書には西洋宗教の教えなどは
一切書かれていません。聖書には純粋な神の言葉、神の口から
語られたトラーのみが記されている!その聖書の事実=土台から決して離れないで考えないと結局神が語る真実は歪み、人間の
教えに変身してしまいます。
マルコ 7:1 さて、パリサイ人と、あるトラー学者たちとが、
エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
7:2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。
7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の
言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、
食事をしない。
7:4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、
食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。
<上記は人が作った教えであり、神の教えではないのです。>
7:5 そこで、パリサイ人とトラー学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。
これらを読んでイエシュアが来られて呪いの縛りの律法から解放したからだなどと言う、空想話=非聖書的教えを神の教えであると本気で疑いもなく信じていると思います。
イエシュア=トラーである事、イエシュアが教えた教えは父の言葉=トラー=モーセの五書以外に無い!と言う事実に全く無知である場合、どこまで行っても神が伝えている言葉の意味が通じないままになるのです。
神の言葉が意図することでは無い、人が勝手に解説したトラーは
変化ありき!が全てで異邦人クリスチャンの間で語られるのが
定番の教え、思考回路だからです。
でもそれらは聖書にか書かれている事実ではないのです。
人の伝統の教え、しきたりとあるそのものなのです。
イエシュアも言われた通りです。イエシュアがたとえ話を通して語っている内容はモーセの五書に書かれている真実をたとえ話を
通して諭しているものです。
その中に、モーセの五書を知ろうとしない人には、何を言っても
通じる訳がない!とはっきり書いてあります。当時の人はモーセの五書を知っていたはずなのに、神の言葉の本質を理解しない人達も居た事が書かれています。
ルカ16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセ<モーセの五書>と預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
1世紀のユダヤ人の間では、”モーセと預言者”と言う言い回しは、モーセの五書、預言書、諸書=聖書を指して言っているのです。
新約聖書と言いますが、福音書以降は、モーセの五書、預言書
諸書に書かれている内容の”コメンタリー”なのです。
福音書以降には、モーセの五書を塗り替える教えはありません。
最初の部分を否定する教えも1つもないのです。以前と違う教えなども1つも聖書には記されてなどいないのです。
そして福音書以降は預言者が書いたものではない。
詰まり、創世記〜マラキまで預言者により記され完結されていて、それ以降の福音書は、最初の部分に書かれた内容を1つでも塗り替える教え、解説は福音書以降には書かれていない!と言う神の言葉=聖書の性質の基本中の基本をまず理解すれば、
巷で語られている異邦人が解説する非聖書的教え=モーセの五書を否定した解説がズレている事実、あたかも神がモーセの五書を変えたと解説される場所の内容、論点を完全に誤解しているからである!と言う事実が根底にあるのです。
だから、福音書以降その中にあたかも翻訳により、そして人の
解釈により、モーセの五書を否定した教えが書かれていると考えられる場所は、その中に書かれている内容、論点を理解していないから起きる誤解なのです。
この様な箇所を読み、早合点に”ほら、モーセの五書を否定した
教えが書かれているではないか!”などと解説していますが、
トンデモナイ誤解です。
1テモテ4:1 しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。
4:2 それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。
4:3 これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、
感謝して受けるようにと、神の造られたものである。
4:4 神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。
4:5 それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである。
この様な箇所をパウロが語る論点とこの中に書かれている問題が
何なのか、当時どんな事情があったのか?と言う事を知らない
場合にはパウロの書いている意図とはズレた違う読み込みをしてしまうのです。古い教え=律法に戻る〜惑わす霊とは、モーセの五書に戻る教えを唱える人だ!などと考えるのではないでしょうか。
ここでパウロが語る2つの事があります。
1 当時はびこっていた偽教師
2 異端の教え〜グノーシス主義
です。クリスチャンの世界にもあるでしょう。特に結婚をしたら
神に対して完全に仕える事は出来ないと考える思想。
独身のみ修道士や修道女になると教えているでしょう。
肉体や物理的な事は汚れているものである、霊的な事がより優れているなどなど。だから中世の修道士は人里離れた山に住み、
世俗と関係を断ち、この世の楽しみを一切求めないと言う生き方をしたのです。でもそれは神のデザインでも何でもない、宗教の教えを生きていたと言うのに過ぎないのです。
でもこの肉体や楽しみ喜びを否定する、犠牲になることが美徳
霊的な事が何より優れているなどと考える思想パウロが指摘する非聖書的教え=グノーシス主義、クリスチャンの中にも知らない間に蔓延っている事に気が付きませんか?
神は全てのものを”トーヴ”神の意図通りに造られた、神のデザイン通り=それが”良い”と訳されているヘブライ語の意味なのです。デザイン通りに取り扱わない場合に問題が生じるのです。
それを神の意図通りに反する事を教える偽教師がいて、肉体に
苦痛を与えることやこの世の楽しみを断つ事、断食をしたらより
神に近づけるなどと教える非聖書的な教えをしていた問題が
あったのです。ある人は独身ですが、聖書で結婚を禁じてなどいません。結婚は最初の最初から神のデザインだからです。
全ての人が独身なら、”産めよふえよ地を満たせ”は実現しないし、同性同士の婚姻は、そこから命は生まれてなど来ません。
1テモテ4:3 これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。
グノーシス主義、肉体を酷使する、神のデザイン通りの願望を
否定する事が、崇高で霊的で良い事であるなどと教える偽教師、
偽の教えについて語っているのです。
この2つ目の食物を断つとありますが、断食して神により一層
近づけよなどと教えたのです。
神の教えを理解する当時のユダヤ人の中では、全ての食べ物と
書かれていれば、それらはレビ記11章に書かれた神が創造した
人間が食べる様にデザインしたもの=全ての食べ物、それ以外の食べ物は人間の食べ物ではない事を皆理解しているのです。この点を異邦人クリスチャンは全く誤解しているのです。神の教えが永遠不変と言う基本中の基本である真理を無視する様に教えられているからです。
だから4節を読んで、感謝して食べれば何でも食べて良い事に
なったと書かれている〜などと教えているでしょう。完全に誤解しています。神が神の言葉を否定し途中で変形などしていないからです。それを信じる人は、神の教えに書かれている事が真実であると言う事が見えなくなってしまっているのです。
神の言葉を勝手に塗り替え解釈する又は神が言うことが真実で
あると受け取る、それは個人個人の選択以外にないのですが、
偽物の教えを聖書の事実から見抜けない場合には、知らない間に神の警告に反抗し神が忌み嫌うと言う事を知らないまま生きてしまう危険があるのです。
神は時、食べ物、祭りを通しても神の聖別を教えているのです。
だから神の祭り、シャバット、新月、食べる、飲む、全ての事に於いて神の栄光を表しなさいと言われているのです。神の伝える実態を無視して違うことをしたらその行動からは神の栄光は現れないのです。
聖別の意味、実態を理解しないなら汚れたものを内側に頭脳に
肉体に取り入れ、神の教えを退けながら自ら作った聖別〜宗教の教えに邁進しそしてそれが神の願う事神が喜ばれる事と自分よがりの宗教を生きてしまう事になり神が語る恵、祝福の意味、実態を逃してしまう事になる事が書かれているのです。道徳的な教えは神を信じない人でも理解出来るものです。なぜなら私たちは神のDNAで造られている、腹に書かれたトラー=それを良心などとも呼びますが、人間としてしてはならない事はある程度理解出来ます。でもイスラエルの神の国の子らの生き方、聖別された生き方の実態は神の言葉を本当に理解しない場合には見えない世界を神が人に伝えているのです。でもシンプルなのです。
神が言われた事をまず受け取る。そのうちに神が語られている意味が深く深く分かる、それは実践を通して初めて理解出来る内容だからです。以下の箇所は未来預言です。
イザヤ65:1 わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。
わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
65:2 よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、
わたしはひねもす手を伸べて招いた。
65:3 この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、
65:4 墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、
憎むべき物の、あつものをその器に盛って、
65:5 言う、「あなたはそこに立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別されたものだから」と。
これらはわが鼻の煙、ひねもす燃える火である。
66:15 見よ、主は火の中にあらわれて来られる。その車はつむじ風のようだ。激しい怒りをもってその憤りをもらし、火の炎をもって責められる。
66:16 主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる。主に殺される者は多い」。
66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。
66:18 「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。
わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。
66:23 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
66:24 「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。