書簡に書かれている論点の事実をはっきり把握しないとならない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

日本に3年ぶり来て以来、忙し過ぎてブログを書く時間がほぼ

無い状態ですが、私の場合文字に書き出して考えると言う作業を

通して様々な事を自分自身が、再確認、理解出来ると言う大きな助けになっているので、出来るだけ書いてみようと思っています。

 

仮庵が終わってこれから長い冬の時期、春になるまで祭りの無い

時期である事を今は神の言葉から理解する事が出来るので

身の回りに起こる様々な事件が偶然では無い、意味があって起きていると言う事を受け止めながら、考える事をしています。

 

西洋宗教の世界の教えに浸ってしまうと、聖書=神の言葉が語っている事が目の前に書いてあっても見えない現象が起きます。

同じ主を信じる友人と話していて、神の言葉は変わらないと言う事実に同じ様に同意しても、結局聖書に書いてある事をその通りには取り扱っていないと言う事に気がつかず、人の教え=今は

古い時代の律法とは違う教えを生きるのだよ!と言う教えが聖書だと信じているのです。エデンの園のあの蛇は今も力を発揮し

人に神の真実を発見する妨害をし続けているのです。

そしてイエシュアが生きた生き方を本当は理解しないまま、

人の教えを聞いているのだなと言う体験をしました。

 

神の言葉を学ぶ!と言う事に対して、抵抗がある、拒絶反応を

示すなどがあります。愛に生きるのが大事なのだよ!と言うし

実際に本当に周りにその様に生きている多くの人々がいます。

でも神の言葉を丁寧に学び続けると言う土壌が異邦人の世界の中には無いものなので、知識に偏るな!などと言われるのです。

でも聖書を読めば分かる通り、人は神の口から出る1つ1つの言葉により生きるとある通り、もし神の言葉をどの部分でも捨てて良いなどと考える場合、本当に危険な状態になるのです。

それは低温やけどと同じく、気が付けない、でも危険なのです。

 

どう言う意味かと言うと、自分の好きな場所だけ抜粋して取り出すと言う事があっても、聖書に何が書いてあるのか、満遍なく

追求学ぶ知ると言う習慣が無い事です。だから実際にイスラエルの神の家族に属したらどう生きると言う自覚がない、聖別が何か分からない、神の前に忌み嫌われる事をしても何も感じないし

自覚も無いと言う事が起きてしまうのです。

そして神の教えとは違う事を教え、生きて世界へ宗教を伝えてししまうと言うズレをしてしまうのです。

クリスチャンも神の言葉は永遠不変だよね!と普通に同意しますが、実際の生活ではその様に神の言葉を取り扱ってはいないのです。

なぜでしょう?それは人が変形した教えが聖書であると本気で

信じてそう生きているからです。

古い教え=律法は無用!と言う場合、全ては結局人に対しての

攻撃や反発と言うより、神の言葉をその通りに聞く事からずれていると言う事にまるで気が付かないと言う事なのだと言う事がはっきり分かります。

 

西洋宗教の世界で教えられている教えにどっぷり浸かり続けてしまうと、ある事柄に対してのみ重きを置いて語られている事に

気が付けなくなってしまいます。

救いとは全存在の修復だからです。ある一部分の何かでは無いからです。

人間の体の機能を考えても分かる通り、全てが繋がっているから

です。

勿論生命を司る上で重要な役割を果たしている臓器があります。

だからと言って他は不要と言う事ではないのと同じです。

全部が全て合わさって、本来の機能を果たす様に神がデザインと

して造られているからです。

 

クリスチャンの世界で誤解されているパウロの書簡ですが、

よくよく学んで行くと、何を誤解して解説しているのかはっきり

見えて来ます。

ガラテヤやローマを読んで行くと、その中でパウロが諭している

トラーの教えの中核、それらのグループの中に存在していた問題が何かと言う事が最初からはっきりしているのです。

 

パウロが語る論点の部分が見えないと何をパウロが話しているのかも理解出来ないし、1世紀のガラテヤやローマの人々がどんな問題に直面していたのか、そしてヘブライの世界、神の言葉や

教えの世界を聖書に書かれた内容通りに読み取らないと、パウロが何を伝えているのかが理解出来ない事になるのです。

 

1世紀のイエシュア信者の中にも様々に神の教えを誤解している

人達、していない人達が混在していたのです。

 

簡単に言うと、ガラテヤやローマの中で語られているのは、

人間が作った宗教儀式を通さないと、異邦人は神の国の一員と

して認められない!と言う誤解があったのです。

これがパウロが指摘している問題なのです。

異邦人がユダヤ人になる儀式を通して改宗しないとならないと

聞いてどう言う内容をパウロが語っているのか、理解していないと、パウロが話している意味が理解出来ないのです。

 

信仰により義とされた事を受け取るだけで、神の国の一員になる事実は聖書の最初から至る所に記されています。

よくよく考えてみると見えます。

ルツの様に、姑ナオミに”あなたの神は私の神”と言ってルツは

夫亡き後、自分の異邦人の故郷に帰らず、姑ナオミに付いて行ったのです。とてもシンプルでしょう。変な宗教儀式などなど何も無い。異邦人ルツの内側で、イエシュアが神である事、彼女が新生体験をした事がなければ、その様な告白など出来ないのです。

そして異邦人であるルツはこの世の礎が造られる前から、将来の救い主を生み出す系図に加えられていたのです。

これを古代のユダヤ人はイエシュアにより救いを受けるなんて

知る由がない!などと勘違いしている場合には神が伝える永遠の事実、同じ福音、同じ救いが最初から存在している事実が見えないことになります。途中から救い=イエシュアが登場するのでは無いのです。永遠の中から存在していた!書かれている通りに受け取れば見えて来ます。

同じ1つの福音は最初から伝えられ、残りの民=神の言葉を理解した人たち、ノアやアヴラハム、イサク、ヤコブ、ダビデや

その他預言者達、皆全員もれなく同じ様にイエシュアを通して

信仰により贖われ救われた事実が書いてあるのです。

 

ガラテヤやローマ、1世紀のユダヤ人の世界に存在していた問題は、人が編み出した宗教儀式=それを”割礼”と言う名前で呼んで

いたのであり、それはアヴラハムに与えられた永遠の契約の保障である割礼とは違う!ユダヤ人になる改宗儀式=プロセライト=割礼という名の人が作った儀式を経なければ異邦人は救われない、天の家族の1員ではないとユダヤ人は考えていたからです。

でもイスラエルの神はそんな儀式も作ってはいないし、異邦人も

シンプルに信仰により義とされた事実を受け取るだけで神の国に加えられる事実があるのです。

 

人の作った教えを生きなければダメだよ!と言うのは神の教えではないと言うことをパウロが言っているのに、割礼=古い教え

割礼などやってはならないなどと教えている異邦人がいますが

全く誤解しているのです。しかもパウロはアヴラハムの割礼=

父の教えを1度たりとも否定などしていないし、これら無用

軽くなったなどとも考えてさえもいないのです。

論点は、人の教えを通して救われる!と言うのは神が伝えている事ではないよと言う事です。

 

例えば、クリスチャンの中で洗礼を受けないと正式な神の家族ではないよと教える多くの人達がいるでしょう。それと同じズレを

パウロが指摘しているのです。それがパウロが話している内容

なのです。

人が作った儀式を経なければ救われない!と言うなら、

こう言う事と同じです。子供が生まれた!でも指定された方法で生まれてない、指定された病院で生まれてないから、生まれたと

しても生まれたとはみなしませんと言いますか?

事実生まれた。神の前に新しく生まれる、神の元から切り離された人が神に気がつく!と言うことは儀式を通してではなく、

神に直接教えられ気がつくと言う体験をするからです。

生まれた!その事実だけが大事なのです。救われた事実を誰かの

儀式を通して判定されるものではないからです。

割礼これはクリスチャンの世界では全く教えられない、理解していない神の真理、教えですが、割礼を与えられたのは、信じた

男性が、神の契約を永遠に受け継ぐのだと言う神からの印!としてするものであり、救われるためにやるものではないのです。

普通は神の教えを理解する親により生まれた男の子が8日目に

受けるものです。自分の知らない間に印が与えられていた。

その意味を後で気がつくのか、気が付かないのかと言う課題もあるのです。義は無条件として与えられている、その事実を受け取り生きますか?と言うのはその個人の選択であり、人種により無条件に救われると言うのではないのです。

男性=家族の代表=全世界の父=アヴラハムに与えられた永遠の契約である=信じて義とされる事実は永遠!と言う証拠として

与えられたものなのです。

この違いを理解出来る場合は、神が何を語っているのか見えて来ます。水をかぶっても、人は新生体験は出来ないでしょう。

でも救われたから、新しくされたから、その事実表明として

クリスチャンは洗礼をしているのではないのですか?

表向きの表明や印は、中身の実態が伴わないとまるで意味が

ない!と言う事なのです。救われても神の性質を生きないなら

それは無意味!と聖書には書いてあるからです。

その人の生き様=神の似姿=神が伝える実態を生きないなら

その信仰は無意味、死んでいるとある通りだからです。

聖書には、洗礼はたった1回の出来事ではなく、様々な時にするものである事が書かれているのですが、この内容は又別の時に

書きます。

そして、救われた人は神の言葉を生きる必要はなくなったなどと

神の教えを理解しない異邦人達が唱えた教えを教えられてしまうので、これ又違う教えを刷り込まれてしまっているのです。

もし、あなたが神の言葉は永遠不変と本当に信じるなら、どうしてその様に生きないのか?と本気で疑問に思って考えた方が良いと思うのです。矛盾を感じない矛盾に気が付いて。

その行為は、神の言葉を否定する事を、無意識のうちにしている

からです。それは神の伝える言葉を意識しない、考えさえしないと言う生き方を選択しているからです。

救われた人は、イエシュアが生きた父の言葉を生きるとはっきり

聖書には書かれているのに、クリスチャンの世界では、救われた人は、古い律法は拒否し、心に記された新しい律法を生きる事

こそ神の前に素晴らしい生き方、恵の生き方と言う聖書の様で

実際はそんな事聖書に書いてない教えを唱えているからです。

聖書は、モーセの五書以外の内容は一箇所も一度もたりとも書いてない事実に丸で気が付いていないからだと思います。

福音書以降は、初めて人間に救いが与えられ、新しい教えが

与えられたと言う誤解をしている限り、神が語る永遠の真実=

神は神の語った言葉を永遠に変えないと言う事実に気がつく事が困難になります。

そしてヘブル書の著者は不明とされていますが、ヘブル書には

ガラテヤやローマの様に、人の編み出した儀式=ユダヤ人になる改宗儀式を通してでなければ、異邦人は救われないなどと言う

考えをする人達に対して話していません。

でも本質が同じ問題が書かれているのです。

 

 

続く