昨日の昼間イスラエルと他のヨーロッパ、アメリカ、アジア圏に
いる友人達と一緒にヨムキプルのサービスに参加しました。
私にとっても心身共に丸々充実した一日でした。
一番重要な基本は創造主に言われた通りにする、生きる。
神の言葉から右へも左へも逸れないことです。
創造主が語る教え、神の言葉は人に何を伝えているのか?と言う
ことをはっきり自覚する事、これが一番大事な基本中の基本です。
神の言葉で伝えらる丸ごと全ては、私達が神にどの様に造られて
いるか、造られている性質通りに生きる詳細を神が人に伝えているのに、その殆どを無視したら、神の伝える人間の生き方は
はっきりとはよく分からなくなってしまうと言う事です。
親が子に伝える事をその子がよく理解して言われた通りを行動するのと、親の言う事無視して勝手に行動するのと、どう違うのか
と言う事と同じです。人間の親も、子が知らない事、理解出来てないことでも、分からなくても伝えて分からなくても子供はそれをやる。やっているうちに分かってくる、安全に守られる。
そう言う事と同じです。最初から全部理解出来なくてもとにかく
神がそう言うなのだから、やる!それを分からない、受け入れられない、自分の思想や宗教文化とは異物だから排除すると言うならそれは、的外れな方向に進むと言う事になってしまうのです。
神が人に伝える事は”するするなかれ掟リスト”ではなく、
”わたしが創造したあなたは〜〜〜を生きて、〜〜〜を生きない
様に造ったと言う事を伝えているだけです。
宗教の思考回路だと、神の前に〜〜〜〜〜しないと怒られる
神を喜ばせなくてはならい、〜〜〜〜〜するなと言われて自分の楽しみを剥奪される不都合な教えだなどと考えているのです。
意識、関係がズレていると言う事に気が付いた方が良いかもしれないです。夫婦の関係が監視状態で相手の顔色伺う意識であれば
それは本来の喜び=エデンは存在しないでしょう。モラハラの
相手がいつ怒り出すのか怯えているのと同じタイプの関わりです。相手のご機嫌を伺いビクビクする。
正常な関わり、向き合う関係、隔たりのない透明な関係、相手の意図、考え、思いが手に取る様に理解出来る関係の中にあれば、陰りはなく関わりに喜びを見出せる。
それが神が創造した人の性質だからです。
ズレた生き方、ズレた関係、ズレた関わり、エデンの園でサタンの声を聞いて奪われて失ったものは、人の本来の性質、神と人と人と人との本来の関係である事を理解すると見えてくる内容だと思います。
ヨム キプルが終了すると、嘆き悲しみを全部後ろに、過去に
全部置いて、だらだらと引きずらない。そして新しい年、次の祭り、仮庵の祭りに向かって準備します。喜びの季節に入ると言う
表現がされます。仮庵を庭やバルコニーに設置し準備します。
イスラエルではマンションも多いので、バルコニーが仮庵になって行くのが見えますし、お庭がある家には仮庵が次から次へと
出現します。本当に盛大な祭りで楽しいものなのです。
今日から皆この仮庵造りを始めるのです。
海外から多くのクリスチャンたちがこの時期にイスラエルを
訪れますが、エルサレムや他の都市の様な大きなドームみたいな会場が仮庵だと思っているのですが、本当は家庭で小さい仮庵で
過ごす、住まうと言う体験なのです。
イスラエルに行かなくても、自分の家で部屋の隅でも小さな
テントを置くとか、段ボール箱やシーツで一箇所を塞いでみるとか、ベランダに置いてみるとか、その家の事情にあった仮庵を
作ってやってみるとその中に入って食事をしてみるなど、
仮庵体験が出来ます。
普段と全く違う事を実際に体験して、仮庵に住まうと言う意味
この世のどんな状況にあっても仮の庵でも、イエシュアの中に
住まう事実を再確認するからです。
仮庵の祭りは2022年は日曜日、10月9日日曜日の日没から16日日曜日の日没までです。そして第8日目も神の仰せ
通りに祝うのですが、トラーを一年読めた事を感謝し喜びを神の御前に表現し、神を祝福する盛大に祝われる日です。
7日の日没から8日日没が週一度のシャバットを祝い、そして
9日の日没、仮庵が始まる時から10日月曜日の日没から2日間、止まる日シャバットとして祝い、仮庵の最後の日と第8日目も同じくシャバットとして止まり祝います。
これらが神の創造された秋の定めの祭りであり、これで一年を
締めくくる祭りになります。そしてその時からイスラエルには
春から夏、今まで1度も降らなかった大地を割る雨が降り出すのです。新し農作業のために神が大地を準備して下さるからです。
そして乾いた大地に不思議な植物が出てきます。荒野で見た植物はニョロニョロを連想させる様なものでした。
2015年の仮庵に行った時の画像です。
仮庵の祭りは必ずぴったり満月になります。
イスラエルは規制が完全撤廃されたんだから、仮庵にもおいでと言われたけど、行きたいけど行けない事情が出来たので、今回は我が家でこの秋の祭りを祝っています。
大贖罪日が終わると、自分の歩みを振り返りズレていた事に
嘆き悲しみ軌道修正をする日々を終わり、過ぎた1年を全て後ろに置き去りにして新しい季節に入る!と言う事をするのが今の時です。
神のオリジナルの記念日、定めの時を生きると、救われた人の
地上の歩みと預言的祭りがぴったり重なる事に気が付きます。
なぜなら、人の暦は一年を巡る円だからです。神がその時を創造したからです。そのサイクルをずっと繰り返しますね。命が生まれて地上の歩みを終わり、そしてその次世代の命が又次の世代の命を生み引き継いで終わる、それをずっとサイクルで繰り返す
それが人類歴史です。
そのサイクル、命のサイクルは神の定めた時を巡り営まれています。新月、満月、月のもののサイクル、そして命が誕生する
40週間のサイクル。
1年のサイクルを、人は神の定めの時を巡り生きる様に最初から神は人をその様に創造している事実があるからです。
人は夕休み朝起きて活動する様に造られている。1日は夕に始ま
る。止まると言うところから始まる。神の備えた全てで神に信頼して生きると言う状態を生きる。人は6日の間働いて第7日目に
止まる様に創造された。それが神に造られた人の性質。
何のために神の定めの時を人のために造ったのか?全てはイエシュア=福音の中心を教えるためであり、私達が神の似姿の人として、エデンの園から飛び出した後も元の実態を取り戻す事、
自分が誰であるのか思い出す、神の中に存在している事を教える
印であり、新しくされた人として成長をする時を歩むものとして造られたものであるのです。
私は救われた後、聖霊により様々な事が瞬時に変わると言う様な
間違った教えを聞いて信じていました。祈り続けて懇願すれば
最強のパワーの聖霊が降ってくる〜などと言う教え。ある人には力の強い聖霊やパワー?聖霊の量が違うから変化しないのだなどと教えられましたが、そんな事聖書に書いてある内容とは全く違う教えです。
聖霊=神=イエシュア同一であり、量や質が変化したものが
それぞれの中に注入される訳じゃないからです。同じ神。
神が住まう人に応じて違う神に変化などしないからです。
自分が神に完全に一体で支配された状態、イエシュアが
父とわたしは同じと言った様、神の中に100%バプテゾー=
浸潤しているかいないかの違い。もっと分かりやすく言えば
周波数ぴったりにあった接続100%の場所に居る=神の意識とぴったり同じ、それともずれているからワイファイが不安定です〜みたいな場所にいるか、神の言葉をキャッチ出来ない状態であると言う事なのです。神の目から見る通りに見ているか
ずれているかです。
神の暦はどの時代の人もどの人種でも同じ一年のサイクルです。
神の子らは神に教えられる様々な事、それは自分の生活に起きる
様々な事件や人間関係の中で顕著に分かる、目覚めていれば何を
教えられているのかはっきり自覚出来ます。
一人一人に、カスタムメード、その人ぴったりのレッスンプランを神が用意しているからです。それをシャバットからシャバット新月から新月、春の祭りから秋の祭りを神の言われた通りを
過ごして神の声の下で声の中で神の声を聞くならはっきり何を
指摘されているのか気が付かせてもらえます。
1年を巡り神の創造された時を歩む様に人は造られているからです。季節=モアデイム=神の定めの日のために月星太陽は造られたとあるのです。
この神の定めの時、1年の最後の秋の盛大な祭りを喜びの季節と
表現します。
福音書を読んでもイエシュアが仮庵の祭りの時に様々なメシア
宣言をしています。イエシュアが祝っていた祭り、記念日は
レビ記23章に記されているものです。
WWJDと言うフレーズを唱えるなら、イエシュアがされた事を
教えた事を行わないと言う生き方は、どう言う意味なのか考えてみたら見えてきます。神の言葉は飾り物では無いのです。
画餅を壁に飾って鑑賞するのと同じ。神の言葉を聞いて生きないとはそれと同じ事です。神の言葉を素晴らしい教えですね〜と
鑑賞し、眺めるだけで実際には生きない事。
実際に生きたらそれが現実に現れ出るのです。神の現実が地に
反映され、神の栄光が神の子らの中から現れ出るのは、神の言葉教えを生きる事を通して環境に認識されるのです。
神の教えを生きない、神の時の中で神の教えられる事をキャッチしないと言うことは、救われても以前の主と共に死んだ自分の
まま生きて、神の言葉に照らし合わせてズレている生き方に
まるで注意を払わず、去年と同じズレ、生き方を繰り返し何も
学ばないので、変化も成長もないのは不思議な事ではないのです。神の言葉を学ばない、イコール何を教えられているのかはっきり分からないと言う事です。福音書以降だけ読んでもそこに書かれている内容は、神の教えのほんの短いコメンタリーであり
聖書の最初モーセの五書を理解しないなら、神が人に伝える
生き方、個人、コミュニテイ、生きる全てに於いての全てが
最初の部分に書かれているので、それらを知らなければ全貌は
見えないのです。福音書以降にはモーセの五書の本の短い抜粋
が語られているだけだからです。福音書以降には別の新しい教えが書かれているなどと人の教えを信じたら聖書の真実は見えなくなります。そして、罪の詳細も福音書以降では知り得ません。
そこには全部書いてないからです。聖別の詳細も同じです。
神の性質の中に成長すると言うことは、自分が神の言葉を学習して実際に生きて再所有して行くものなのです。この世界の様々な事と同じです。教科書だけ読んで、人の教えを聞いて、練習をしないなら、その人はその分野に何も上達しません。野球のルールうんちくだけ聞いても実際に練習しないなら上達しないでしょう。自動的に上から力が降ってきて自動変化するのだと想像していたら大変な誤解です。
農業に携わる人の作業の工程でも分かります。聖書には農作業を通しての例えでたくさん教えをしています。種を植えて放置する場合その作物は害虫にやられたり、又は空の鳥にタネを食われてしまいます。種を植える、植える前に大地を整える。そして植えた種に水をまき、成長を促すために管理し続ける作業が必要なのです。それをしないなら作物は期待出来ないでしょう。
続く