ヨムキプルの過ごし方 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヨムキプルではどの様に過ごしているのでしょう?と言う質問が
あります。
国全体がイスラエルの神の仰せの神の定めの日に、シャバットとして止まるなどと言う国は世界中の中にイスラエル以外にありませんね。どう考えても無いと思います。皆が同じ意識では無いにせよ、国の代表が政府が国民全体が神の定めの日を認識し実践する国、神の永遠不変の契約を受けている事実を自覚している
神に選び出され、神の契約を受け取り生きる代表である事実は
永遠に変わらないからです。神の教えを保存する人が誰もいなくなり、神の教え=トラーを捨てて変形した教えを実践するなら
神の性質は地上に全く現れない事になってしまうからです。
だから残りの民を神が保存しているのです。神の伝える通りを
地上で反映し生きる人達=まことの礼拝者=神の意図通りを
生きる人を求めるとイエシュアも言われたのはその理由です。
 
異教の神々の地、イスラエル以外の世界の全ては、ヨム キプル聖書の暦の第七の月の10日のこの日は、週の真ん中の日なので労働日であり、学校もあり、日常は普通に動いています。
家に修理や工事に来ますし、郵便局、銀行も開いていて、
全て普通に営業している。、皆が休みで過ごす環境にありません。でもその中で1日中、今日のこの日が神の定めの日
であり、神の子らは全体で軌道修正する日であると言う事を
忘れないで過ごし、空く時間は必ずあるはずなので、その時を
聖別=神の目的どおりに分かち、過ごす事は出来るのです。
 
神殿が存在していた時には、ヨムキプルに何をしていたのか、
以前の記事に、そして付け足しで又載せようと思いますが、
全て神殿の中で大祭司、祭司達により行われる儀式は、イエシュアのされた業であり、この大贖罪日はイエシュアのされた業が
有効である事を表す日でもあります。
 
現在エルサレムに神殿が無いですが、イスラエルではどんな風にこのヨムキプルの日を祝っているのでしょうか。
昨日の日没はヨム キプルがスタートする時でしたので、
短いトラー、朗読、祈りがありました。
そしてそれぞれの家庭、場所に集まって晩餐をした後、皆で
ゆっくり過ごし、夜遅くまで話したり、トラーを学ぶ人達も
います。イスラエルはヨム キプルになると街全体が止まり、
車の往来もなく事実上の歩行者天国になります。
それなので、夜皆外に出て道路の上を歩いて街を散策します。
テルアビブのハイウエーや大通りにも全く車が通らないので、
普段車しか往来しない道を人が歩いたり、自転車に乗ったり
キックボードなどで自由に往来します。
 
 
そして今日は朝からヨム キプルのサービスがあり、家に集まり
祈りや朗読をします。皆特別な洋服を着ていますが、白い服を
着ている事が多いです。これは神殿の中の祭司たちの服装であり白=永遠のコバン=イエシュアの血で罪が削がれて新しく
白くされている事を意識するものです。この日大祭司もミクバ=洗礼桶に入ったあとは白い服に着替えるのです。
 
そしてこの日にヨナ書を読む伝統があります。それはヨナが神の
声を聞く事を拒否した後、神の前に悔い改めて、軌道修正した
後、ニネベの人達=異邦人達がイスラエルの神に戻る、立ち返ると言う事を助けた大きな業を神の前に成し遂げたからです。
 
その他、ヨムテルアの時に、石やパンくずを川、湖、池などに
投げると言う事をしました。
タシリフ=Cast off,捨てる、投げると言う意味の言葉ですが、
自分の罪を捨てる、切り離す事を意識するためだそうです。
たくさんの小石、パンを持って行って水に投げ入れます。
これは神の仰せではないですが、預言書からそれを考えてその様な伝統が定着しています。
ヨムキプルにもやったら良いかなとも思います。自分の生き方の中にある神の性質、教えとはズレているズレ=罪1つ1つ言い表して、その罪に戻らない!自分の中から水の中に捨てる!
インパクトある行動ですよね。実際に体感出来ます。あの罪は
神が言われた通りに水の深みに捨てられたからそれに戻らない。
 
ミカ 7:19 再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ、
第七の月の前の第6の月は悔い改めの準備をするので、気持ちがヨム キプルに向かって準備される期間です。ヨルダン川で
ヨハネが洗礼を授けていた事が記されていますが、この第六の月の時期であると考えられます。
なぜなら、その通りの内容=悔い改めを個人でコミュニテイ
国全体でする時期は一年の中でこの時だからです。
 
そしてヨムキプルの日には一般には特別な健康上の問題がある
場合、子供や妊婦さんなど以外は、前日の夜の晩餐から今日の
日没まで断食をします。
それは、この世界で自分の周り、コミュニテイにどうして貧しい人がいるのか、その原因は何か?神のトラーを生きていないから、神の仰せ通り互いのシャロームをガードしていないから、
周りの人を顧み見ない態度で生きているから。
そして特定の人が富を牛耳り搾取しているからと言う事。
そしてその場合、貧しいと言うのは、必要最低限の食べ物を
食べられない、詰まり空腹を感じる、それを体験してみると言う
事、これが身を悩ますと言う言葉で考えられる事だからです。
 
そしてこの日の日没が来たら、Break Fast=断食を断つ、英語ではブレックファストととは、Break=中断、壊す、Fast=断食 断食をやめて、食事をするからそう言います。朝食も前の夜から朝まで断食しているので、それを止めるので朝食を英語ではこれをbreakfastと言います。
断食を断つ、破る盛大な会食を皆でして祝うのです。
 
聖書にだけ戻る軌道修正=悔い改めをしたら、聖書に書いてある
神の言葉だけを認めたら、聖書に書かれている全ての人、
預言者、イエシュア、使徒、パウロ、1世紀当時の人達は何を
生きて何を祝っていたのか、神の記した永遠の証拠、神の言葉
でその答えの全てが書かれています。
イエシュアも使徒も全ての人も、トラー=モーセの五書を生きてシャバット、新月を祝い、そして春の4つの祭、過越 種無しパン、初穂、シャヴオートを祝い、過越からシャヴオートの祭までの7週間、7回のシャバットの中で、新しくされた人の事実を生きて準備したのです。
そして、秋の3つの祭り、ヨムテルア、ヨムキプル、そして仮庵
を祝った事しか書かれていません。7と言う数字に着目です。
神の定めの日も完全なるものであり、人が手を加えて変形する
必要の余地など一ミクロンも無いからです。

詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

神の言葉を信じるのか、信じないかを本当に問われているのです。聖書は神の言葉であると信じていない教師もいるのです。

それ以外のイスラエルの記念日は、宮きよめ=ハヌカと、プリム
エステル記に記されている>ですが、これらの祭りは福音的預言的祭りのカテゴリーには属さない祭りなのです。これらの祭りはとても意味のある祭りであり、イエシュアも祝っていました。
ハヌカに関しては、この祭りの裏にある出来事=マカバイ戦争は
マラキ書が書かれた後、福音書が書かれるまでの約400年間
聖書が記されない空白の時期に起きた出来事であり、唯一聖書に記されているのはイエシュアが宮きよめ=ハヌカの祭りでエルサレムに来られて、神殿の中に居た記録が1箇所だけ書かれているだけですが、ハヌカ=異教徒の汚された神の宮を再度きよめ奉献した記念日の裏には、マカバイ戦争があり、これは紀元前168-160年の出来事です。
その他聖書にはハヌカは記されていない、唯一ヨハネが1箇所
記している、それがイエシュアがハヌカを祝っていた証拠でもあり、聖書に記された唯一のハヌカの記録でもあるのです。

ヨハネ10:22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。

10:23 イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。

そうすると
聖書に基づき、人の教え=宗教が編み出した聖書に書いていない
教え=神の言葉=教え、トラーは廃れ、古い律法の教えや祭りは
廃れた!などと言うのは人の唱える教えである事を絶対に知らないとならないのです。神は永遠不変の神であり、途中で変わらない神であり、同時に神の言葉で、神の言葉も永遠不変であると
神が言っているのに、異邦人は神の発言に対してずっと横槍を
入れ続けているのです。
神の定めの祭り、記念日は代々に渡り永遠に神の子ら=ユダヤ人そして異邦人=他国人、誰でもイエシュアを信じ同じイスラエルの神の元に贖われて引き寄せられた人達は、同じ契約を生きて、同じ教えを生きて、同じ記念日を祝う、同じイスラエルの神の
大家族にされた!と言う事実を曲げないで聖書を読めば、神が
伝える真実に目が覚めます。エペソ2章。
宗教が作った教えや記念日は人間、異邦人が神の言葉を曲げて
創作したものであり、それらは神の仰せでは無いと言う区別が
絶対的に必要なのです。
聖書の中にもし、昇天以降、日曜日礼拝、クリスマスやイースターを祝い、昇天以降は神が神の教えを破棄せよと人に教え、
それぞれが思うところの自由自在の神の教えを変形した教えを
生きて、神の永遠不変の定めの日=レビ記23章を祝うことを
神ご自信が終了、停止した!が書かれていると言う事を発見した場合、多分カトリックの司教が言う様に、聖書から証拠を提示し、申し出れば、1000ドル相当の賞金を頂ける事になって
います。
なぜなら、彼らカトリックが神の言葉、記念日を変えたと宣言しており、10の言葉の中にある、自らの手で偶像を作るなかれと言う神の警告も削除しているそうです。
 
そうです。イスラエルの神が神の教えや記念日を変える事は、
神の性質に反する行為であり、嘘であるので、その様な行為は
決してする事は無いからです。
それは偽物のイスラエルの神像であり、イエシュアはそんな愚かし事を人に教えたり実行しないからです。父の教えに忠実!と言う意味は、父の教え=トラー=モーセの五書に忠実である!と言っていることはヘブライ人の耳にはクリアに理解出来る内容なのです。イエシュアが弟子たちに過越の晩餐で語られた様に、過越の祭りを祝うたびに、晩餐をする時には、マッツア=罪が濾された事実、贖いの杯で表される子羊の血は、イエシュアが地上で処刑されたことによる、天で完了されている永遠の贖いである事実を思い出し、新しい契約=エレミヤ31章、この契約=同じトラー=婚姻契約に加えられる人は、神の伝える事実トラーを腹の中DNAに刻まれ理解している人達のみで構成される、再更新される同じ契約である!と遺言された事を知れば、神の記念日を祝うたびにとイエシュアの口からも言っているのです。過越を祝う、
イコールレビ記23章に書かれた神の記念日全部を祝う!と言う大前提があるのです。神のオリジナルの記念日を捨てて別の記念日を祝い世界へ神のされた業を告げ知らせると言う事は神は伝えていない。それぞれが考える違う形でイスラエルの神を世界へ伝えよ!などと神は人に伝えていないからです。それはイスラエルの神の教え=トラーを天竺教と言う仏教の一派であると嘘の建前を日本人に伝えたザビエルと同じ背信行為になってしまいます。神が言われた通りそのままを正しく鏡=自分の発言、行動を通して反映して伝える。
神の王国に仕える、メレキゼデクの位に属する天の祭司=イエ
シュアのされた業を、レビ族の地上の祭司が地上の神の家=神殿で教えた通りの事を伝え、教え生きる人達であると書いてあるのです。神の言う事とは違う性質を持ち込んで神の家、王国を
神の意図通りには治めることなど出来ないと言う事実を神の伝える言葉の中からはっきり知り、地上の神の天の祭司達の生きる姿の中に神の栄光がそっくりそのまま反映される、クリアーな鏡=神の性質、教えを映し出すと言う役割があるのです。
 
本当の悔い改めとは、神の語る言葉だけに戻り、ズレが何であるのかをはっきり気が付く事から始まるのです。神の教えに照らし合せて、人の創作した宗教の教えを生きているのか、それとも
純粋なみ言葉=神の言葉、トラーに記された神が創造された人=神の性質通りを生きることに戻るのか?それは神が伝える教えを理解しないなら、自己流の悔い改め、自己流の生き方、人の教えを生きて神の教えを退けてしまう生き方に留まって本来の自分と
神との本来の麗しい喜び=エデンの関係に戻る事が困難になって
しまうのでしょう。
 
続く