偶像礼拝 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

使徒 17:1 一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、

テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。

17:2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、

三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、

 

聖書の世界、1世紀当時の世界に入って聖書に書かれた事を

考えてみると色々な事実が浮かび上がります。

パウロがテサロニケに行った事が使徒に書かれています。

そこにはユダヤ人の会堂があり、そこではモーセの五書が教えられていた記録が書いてあるのです。

福音書〜黙示録の中に記されている、聖書とは100%モーセの五書、それに付随する預言書、諸書のみであると言う事実だけに立って考えると、タナック=モーセの五書、預言書、諸書以外の

教えなど聖書のどの箇所にも書かれていな事実は永遠の事実でも

あるのです。

パウロは例によってユダヤ人の会堂に入り、3回のシャバット

第七日目にタナックに基づき論じたと書いてあるのです。

聖書に記された事実を曲げたり無視して聖書を読むから、書いてある内容を正しく把握出来ないのです。神は神の記念日や教え、

言葉を歴史の中で1度も変えてなどいない!!!と言う事実に

まず気が付けば、神が神が伝える通り神は永遠不変、真実を曲げない嘘をつかない、2面相の神ではない事を理解出来ます。

 

安息日とは、福音書以降も変更など1つもありません。

変更したと考える時点で、聖書ではない事に基づき考え論じ

人に間違った情報を伝達してしまっていると言う事に気が付かないとならないのです。

 

以下に書いてある内容も、同じです。ユダヤ人の会堂では、

モーセの五書とは違う教えを教えなどしません。

100%イエシュアが教えた、父の教え=トラーのみを教えていたと言う事実にだけ立って考えれば見えます。

 

使徒17:10 そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、

ユダヤ人の会堂に行った。

17:11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直で

あって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。

 

パウロが諸外国に行った時ユダヤ人の会堂に行ったのは、そこに

トラーを学ぶ人達、ユダヤ人が存在し、その中に少数の異邦人も

居たと言う事実があるからです。1世紀当時はほぼユダヤ人が

イエシュア信者の大多数派=マジョリティであったからです。

そして、ベレヤでは、テサロニケのユダヤ人より素直〜真実を

聞き受け取る状態が準備されていたと言う事が書かれています。

そして、彼らが調べていた聖書と書かれているものは100%

トラーであり、それに付随する預言書、諸書のみであるのです。

私は以前この様な箇所を読んで、この人達はタナックとは違う

教えを考えていたとか福音書以降を読んでいたと誤解していました。福音書〜黙示録は100%モーセの五書、預言書、諸書しか

書いてありません。この当時には福音書以降は聖書として存在していない、まだ書かれている途上であるのです。そして福音書

以降には別の教えが登場した!と言う嘘を全部削除しないとならないのです。

 

17:16 さて、パウロはアテネで彼らを待っている間に、

市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。

 

アテネ市内は至る処に遺跡があります。そして偶像礼拝が満ちていた痕跡が見られます。昨日アクロポリス博物館に行ってみましたが、ピリポ カイザリアにあるパン神の偶像礼拝の場所と同じく、様々なギリシャ神の遺跡を見ました。

ギリシャ、ローマ異教の神々に同化、迎合、適合、融合させられたイスラエルの歴史を振り返っても人は簡単に別の教えに騙され

混ざってしまうのです。特に政治的圧力、同調圧力に人は簡単に屈してしまうからです。それに抵抗するにはどうしたら良いか?

神の言葉に聞くと言う事から常にずれないと言う事だけが秘訣

です。

イエシュアが荒野で悪魔の大御所に試みられた時、神の言葉、

申命記の中にある神の言葉を引用し対抗し悪魔を追い払ったのです。

WWYDイエシュアと同じ事を私達もする必要があるのです。

その時に神の言葉を捨てる様な行為をしていたら、私達は神の言葉権威を捨て、悪魔、嘘、まやかし、騙しに抵抗出来ない事になるのです。

知識の無い民は滅びるとは神の言葉を捨てる民は滅びると言う

意味だからです。正しい事を悟らない、知らない、嘘に騙されてしまい身の危険を招くからです。

 

17節から22節にアテネの人々の興味に対するパウロの回答が

書かれています。

17:19 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。

17:20 君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」と言った。

17:21 いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである。

 

様々な人が居るのです。シメオンの様に、イエシュアが来られる前から救い主をトラー、預言書から理解して、アヴラハム同様

イエシュアの日を待ち望みその日を喜んでいた人達がいます。

その人達を残りの民、聖徒と呼び、クリスチャンと言う1世紀当時作られたあだ名で呼ばれていないだけです。

実態は、同じ救い主を受け取り贖い救い聖霊を内側に受けていた

人達はエデンの園から飛び出した後常にどの時代も存在していた

のです。

ここでパウロがアテネのギリシャ人や外国人に尋ねられた事は

トラー、預言書に書かれていない違う教えを教えていたのではないと言う事実確認をしないとならないのです。

トラー、預言書に書かれた事、永遠の贖い救いの事実を地上で

イエシュアがされるまで誰一人肉眼で天からの証拠を見ていない

だけで、信仰により受け取り霊の目で見ていただけだからです。

この様に新しい教えと書いてある様な箇所を早合点し、新しい教えをパウロがしているのだ!などと言う非聖書的な読み込みは

回避しないとなりません。真実とは違う事を考え信じていては、

神が伝えている永遠不変の真実が見えなくなるからです。

 

神の語った事実に目が開けれて気が付いている人、気が付いていない人。その違いだけなのです。そして神との関係、神が伝える

教えの内容の理解は個人個人それぞれ違いがあるのです。

その事実だけを捉えれば、神が新しい教えを昇天以降作り出し

今までの教えを破棄されたと言う仮説が嘘である事を聖書から

発見出来ます。

17:24 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。

17:25 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、

17:26 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。

17:27 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。

 

パウロが話しているのは、神はどんなものにも妨げられない存在である事、偶像礼拝の神々の様にある箇所、ある偶像の中に住んでいるのでは無い事をさとしているのです。

そして、もちろん様々な人種が存在し、様々な時代を人は歴史の

コースを生きているのですが、だからと言って、神が時代ごと

人種ごとに別の教えを伝えているなどと言う創作話は真実には

ならないのです。人は同じ人間、一人の人=アダムから造られて出て来て繋がっている大家族、一体であると聖書には記されているからです。

神は自由にご自分の考えに沿って何でもする事が出来るのです。

ご自分の創造物や、時空に制限などされないのです。

神は神の臨在をどんな方法でも知らせる事が出来るのです。

イエシュアが人として来られたと言う事は制限された場所、肉体の中に住んだと言う事実あります。

でもイエシュアは神であり人であると言う不思議な存在であり

全人類の中にただ一人しかいない存在でした。

そして、神殿の契約の箱の中に神の臨在が在ったのです。

神は自由自在になんでも出来るのです。

神殿は意味がない!などと言う飛躍した教えは、神の神殿は何を表しているのかを理解しない思考回路なのです。

 

17:29 このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。

17:30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしに
されていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
 
偶像礼拝、異教の神々の宮や偶像は人が作ったものです。
神の神殿は、神が神の宮のデザインの詳細をモーセに伝え、
天にある神の家のレプリカを地上に作られせたものなのです。
神の子らが自分が誰であるかを学ぶ、学習の場でもあるのです。
これだけでも大きな違いがあります。そして異教の神々の宮の
様に偶像はありません。エルサレムの神殿に置かれているもの
寸法、材質全て神の教えのなにがしかを表しているものなのです。そして神の家の中で神の子らの生き方を教えたのです。
それがトラーに書かれている内容なのです。
 
偶像礼拝の基本は、人が神をコントロールする事!これに尽きます。祈りや修行、苦行、犠牲、好きな事を諦める事などなど、

表向きはあたかも神に熱心に仕えてるかのごとくに見えますが、本質が違うのです。これが偶像礼拝の中心なのです。結局自分の行い、努力、思い、熱心で神を動かして自分の思い通り、願いを聞いてもらう!と言う下心が根底にあるからです。偶像の神々に対する態度と何も変わらない、そして自分の編み出す礼拝や修行は神に取り何も意味のないものであると書かれています。

神が求めているもの、神のデザイン通りを知り生きる事生きる事。神の言葉、教えを聞く、砕かれた心〜頭脳とあります。

礼拝とは生きる事の全てであるからです。

何をしていても神の意図通りならそれが礼拝であると書かれています。それは何かして神を喜ばすと言うことではなくて、本来の

姿をフルに生きる事、それに尽きると言う事です。

 

エーゲ海。家族親戚が海の前に住んでいます。

街中から15分位の近い距離です。

夜9時頃まで人が泳いでいます。

60キロ先の島も見えます。どこまでもまっすぐに見えます。

気候はイスラエルに似ていて暑いです。

 

 

アクロポリス博物館

 

 

パン神が左上に見えます。

 

 

 

 

 

 

どこもかしこもすごい人の数。

 

 

 

 

太古の住宅、町の上にこの博物館が建てられています。