シャヴオートの祭りの意味  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に書かれている春の最後に来る神の祭りの名前の意味

 

聖書箇所

ヘブル/ギリシャ語名

出エジプト34:22

申命記16:10

ハグハシャヴオート

7週祭り

出エジプト 34:22

申命記16:10

ハグ ハアシフ

収穫の祭り

出エジプト 23:16

民数記 28:26

ハグハカチア

ビクリム

初穂を捧げる祭り

レビ記23:16  使徒2章

ペンテコンタ

ペンテコステ

 

 

 

 

 

異邦人クリスチャンの間で、ペンテコステはシャヴオートの祭りであり、ペンテコステはレビ記23章に書かれた三大都上りの

祭りの1つであり、それらの祭りは、全てシャバットと繋がっている、全ての祭り=神の定めの記念日はシャバットが中心で繋がっている継続して祝われてる性質の記念日である事実を語られない、教えられない、祝われないと言う状態です。

神のオリジナルの記念日を異邦人クリスチャンが祝わない様に

教えられ始めたのは1世紀後半以降、2〜5世紀の間にその

教えがどんどん浸透しましたが、それは神の仰せではなく、

異邦人達の思想により編み出された教えが浸透し、継承され続けて今に至ったお陰なのです。

 

シャヴオートは日本語訳では7週祭と訳されています。

これは過越から7週、7回のシャバットを経て祝われる祭り

だからです。ギリシャ語のペンテコスタ、英語のペンテコステ

はこのシャヴオート=7週祭りを、第50=7週=49日目の次の日の第50日目に来る祭りだから、ペンテコスタとギリシャ語

では言います。

でもヘブライ語の7週の方が詳しい意味が通じるのです。

漠然と50日目では、7週の間の7回のシャバットが意味する

ものが見えてこないからです。

過越の祭から、シャヴオートまでの7週は橋渡しの期間であり

7週で繋がっていて、初穂を数える7週間、婚姻契約を受ける

準備期間でもあるからです。

イエシュアが過越で処刑され、この7週の間に復活のイエシュアが現れて弟子達の心、頭脳、考えを準備した事、過越=出エジプト、奴隷状態から贖い出された人が新しいID、自己像=神の民である新しい自己像に切り替える期間でもあったのです。

 

シナイ山でのシャヴオートと使徒2章で起きた現象を比べて見ると、この祭の意味、性質が見えて来ます。

シナイ山では、エジプトで奴隷状態であったイスラエルと

少数の異邦人が、1つの大家族としてエジプトからイスラエルの

神により贖い出され、引き出されて荒野に連れ出されました。

その人数100〜200万人がエジプトを脱出したと言われています。そして約束の地を目指して新しい旅が始まるのです。

 

これは、贖われた人達が約束の地=やがて来る未来=神の国を

生きる現実に入る事と同じ意味を持っています。神の国に住まう

人達は、神の国の天の祭司の生き方を1から学ぶ、それが荒野での40年の旅路で表されているからです。神の教えを捨てる生き方は、神の国にどの様に生きて振る舞い、治めるのか学ばない

状態になると言う事を意味します。

 

過越、子羊の血を通して贖われた人、新生体験とクリスチャンは

呼びますが、上から生まれる=神と繋がる=聖霊が内側に住まう

状態がスイッチオンされた状態になる事です。

出エジプト以前は全て、個人個人に神が現れて、語られて、個人個人が神を信じた体験が書かれています。それらの人達も

イエシュアの贖いの完了の業を通して、同じ方法、同じ福音を

聞いていたのです。アヴラハムはイエシュアの業を受け取り、

まだ見ぬイエシュアの日を見て喜んだと書いてある通り、

アダム、ノア、アヴラハム、イサク、ヤコブ、どの時代の聖徒達もどんな種類の人種でも全て同じ救いの方法、同じイエシュア=聖霊=新生体験をし、神の口から語られた同じ教え=トラーを

教えられていたのです。クリスチャンも道は1つ!と言うのは、

救いの方法、手段はイエシュアの業を通し=永遠の中から既に完成している完了の業を通してだけ、人は救われる、1つしか方法は存在しないのです。時代ごとに別の方法、別の救いや教えなど

神の中には存在していない。人が創作した教えと神が伝える事実とは違うのです。この世界の礎が置かれる前から、選び出された

と書いてある通りだからです。永遠の中から考えないと、神が

伝えている真理、真実は見えません。

 

個人個人に語られ、個人個人が神との関係を体験した、それが

シナイ山以前に起きた出来事ですが、シナイ山では個人ではなく

群集全体=新しい国民=イスラエルの神に属する1つの神の民=国民が誕生したのです。2つの民、2つのグループではありません。シナイ山でその国民=イスラエルと異邦人の群集の全体に

神が直接語られたシーンが書かれています。

そして、イスラエルの神の国民=民に神の国を生きる神のトラー=イスラエルと言う国家の憲法を与えた、それがモーセの五書なのです。憲法と言うと固く聞こえますが、憲法の無い何も無い国は、無法地帯の国になります。常に身の危険を感じながら生活しなくてはならない国も現に存在しているのです。

 

過越では、エジプトの奴隷状態から自由へと解放されました。

そしてシャヴオートでは、イスラエルの神に属する国民が誕生し、そしてイスラエルの神の民は、神の真理=言葉=性質を生きる自由へと導き出されたのです。

異邦人クリスチャンは、神の言葉を呪いの呪縛、縛りの律法と

言い、神の言葉の性質をとんでもなく誤解した教えを聞かされています。神の言葉は、神が創造した神の似姿に造られた人がどの様に生きるのかが教えられている、伝えられているものであると言う事実に全く盲目だから、呪いの古い呪縛の律法などと言う

神の言葉に敵対する思想を刷り込まれて信じているのです。

もしモーセの五書が呪いの律法ならば、イエシュアが教えられた教えや、福音書〜黙示録に短く書かれた教えは全て100%

モーセの五書ですから、それらも同等に呪いの呪縛の律法と言う事になるのです。聖書に書かれている事と人の創作した教えの

矛盾に気がつかないまま、福音書以降には、別の教えや別の種類アップグレードされた聖霊が与えられたと言う、人が作った教えを信じるので、聖書に書いてある真実が覆い隠されてしまうのです。

シナイ山以前では、狭い範囲の場所に生きていた少数の個人個人しか神の教えを聞かされなかった、神は個人個人に現れて、神の教えを伝えたのを、今度はシャヴオート=シナイ山での出来事では、大勢の人達、200万の出エジプトした人達全体へ神が語られたのです。

今までは、神の口から直接口頭によりトラー=神の教え、インストラクションが個人個人に与えられていたのが、シナイ山では

文字により書かれて記され、永遠の保証、証拠として与えられた

のです。それは、神の教え=イエシュアの性質を歩む自由を

与えられたと言う事を常に覚えるためです。

神の婚姻契約=トラー=モーセの五書を捨てると言う行為は

背信行為であることが聖書の最初から最後まで同じ意味で貫かれて書かれています。婚姻契約書破棄=神の伝えた関係、人間の

生き方を自ら捨てる、それは神が伝える関係の中での生き方を

放棄している行為なのです。無法とはそう言う意味です。勝手な生き方、自ら聖別し自らきよめ、自ら作った教えを勝手に生きる。そんな事は神は人に伝えてないし、求めていないし、それらをやってはダメであると固く禁じているのに、神の言葉は終了!神の言葉を破棄せよ!律法に戻るな!と言う別の霊から出る言葉を信じるなら、神が伝える永遠不変の真実はその人の頭脳には

届かない事になってしまっているのです。

律法と言う言葉は聖書では神の教え=トラー=モーセの五書を

指して使われない不適切な翻訳です。神の言葉に神が敵対すると言う事実を聖書から考えてみれば良いのです。

言葉=神ご自身=聖霊、神が神自身に反撃し撃退し内輪もめをする!悪霊が悪霊と内輪もめしない!とイエシュアが言われた事に

繋がります。ウルトラマン太郎、ウルトラの父をボコボコにボコるの聖書版の巻になってしまいます。

 

人の中に出現する問題は、神の教え=言葉ではない、神が意味していないことを神が伝えていると教えられてしまう事なのです。

これもエジプトの要素と全く同じです。神が意図していない教えが浸透したら、私達は神の声の中で神の声を聞く状態ではなくなってしまうのです。半分真実、半分嘘のトリックに気をつけよ!

熱い=本物、冷たい=偽物、なまぬるい=混ぜ物の教えに注意

せよ!とずっと警告され、黙示録でも同じ警告がされています。

とエデンの園の最初から忠告されているのがそれです。

 

過越では、私達の体は物理的にエジプトから出されました。

そして、シャヴオートでは、私達の頭脳の中にあるエジプト=

偽の教え、偽の自己像の奴隷状態を取り出して下さったのです。

それは、神の言葉により、偽の自己像や教えを神が伝える真実に

切り替える事、これが荒野の旅路の意味なのです。

切り替える。神の言葉に浸る=そして神の語る教え=言葉=性質を生きて練習する事で、偽の教えの思考回路が頭脳の中から

消去されて行くからです。実際に頭脳の中に物理的にこれが起こるからです。古い自分=主と共に死んだ自分の記憶は頭脳に確実に残っていますから、人は瞬時に変わらないのです。新しくされた事実に基づき、神の言葉=真理の中で全ての思索をとらえてとパウロが言っている意味、古い人=古い記憶に振り回されてしまう葛藤をパウロも伝えているでしょう。だから、常に新しい人

として考え、行動し続ける選択を毎秒行い続ける!と言う意味で書いてあるのです。全ての思索をキリストイエスにあり捉えて!

だから、神の定めの時から時の間で、神が教えるパン種を指摘されたらそれに取り組み、パン種をどこで受けたのかの原因と

そしてその問題に実態に神の前で向き合う、取り組むと言う癒しのプロセスを辿る、それが神の1年の記念日から記念日のサイクルの中で教えられるものなのです。

 

人は神の伝える言葉=教えを忘れるなら、神が伝える自己像も

神が伝える言葉の真実にも気が付く事は出来ないのです。

 

シャヴォートの祭りは初穂を祝う祭りでもあります。

初穂は何を意味するのでしょうか?イエシュアの命=性質に繋がれ、連なる者とされた、神が私達の所有者であると言う意味です。ここで誤解してはならないのは、どの時代にもイエシュアの

実態=トラー、預言書、諸書、神が伝えた真実=イエシュアにより贖われ、救われた事実を理解して内側に聖霊を受けて生きて

いた人は同じ福音を太古から知っていた!その事実を受けて

生きていた事、使徒2章以降、いきなり聖霊が降ってきて、

別の新しい教えや新しい福音、新しい聖霊、力を受けたのではない事実をタナック=トラー、預言書、諸書に書かれている事実を把握しないと見えないのです。

恵時代=聖霊時代=教会時代と言う人の創作した思想を全部削除して、聖書に書いてある事実を把握する必要があるのです。

 

 

続く