ローマ14:14 わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。
この箇所も、神が汚れている!と教えているもの以外の全ての事です。14節以前に書かれた1節〜13節の内容から理解しないとなりません。文脈、前後に書かれた意味、何を議論しているのか?これを無視したら、パウロが語ってもいない創作話の解説を作ってしまうのです。
異邦人クリスチャンはこの様な箇所を読んで、モーセの五書は
廃れて終わりと書いてある証拠だ!!レビ記11章の食物規定は廃止だ!となどと早合点した解釈をしています。パウロがエルサレムの神殿で果たしたナジル人の請願、使徒21:21、パウロがユダヤ人議会の前で何度も証言した、ヘブライの子、パリサイの中のパリサイ、他のユダヤ人同様トラーを忠実に支持し生きていると公に証言しているパウロの言葉の方が真実です。
そしてパウロがもしモーセの五書を否定して別の教え=新しい
宗教を作る人なら、パウロは聖書を書き記すイエスラエルの神に
任命された使徒ではなくなります。
パウロが諭しているのは、人の意見、見解、その人の考えに対し人が物申し、批判し、意見を吹きかけるなかれと言う事であり、神の言葉や教えに対して人の意見で仕分けして良いなどと言う
話をパウロは議論などしてもいません。
ある人にとってある日は重要=神の記念日以外の普通のある日、そして食べ物、野菜しか食べないと言う人は、異邦人の市場で
売っている肉=レビ記11章に書かれた人間が食せる動物でも、偶像に捧げられたかもしれない、異邦人が触ったから汚れていると考えている信仰の弱い人の意見については、野菜しか食べない事を批判してはならない!と14:1に書いてあるのです。
神の言葉に対して人間が無用、有効などと言う判定など神に造られた人間が出来るわけがない!人間至上主義、西洋思想で神の
言葉を曲げて考えるその様なずれた思考回路=人の教え、神学を
根こそぎ排除しない限り聖書を、パウロが書いた書簡の内容を
完全に色眼鏡で曲げ続けパウロの意図とはまるで外れた解説を
人に伝える事をし続けるのです。
神と神の言葉は永遠不変であり、変化しない!と神が伝える
神の言葉の性質の基本中の基本を知らないまま、いや人の思想=神学で神の言葉を終了、否定、無用と言う歪んだ色眼鏡を通して聖書を読めば、聖書に書いてある事など理解出来ないまま、
神が伝える永遠不変の神の言葉=教えではなく、人の思想、空想話を信じ込んでしまうのです。神の言葉=教え=トラー=婚姻契約=モーセの五書に書かれた永遠不変の神の教えを無視、
ないがしろ、捨てる、否定する冒涜行為をしてそれが恵の時代に正義!などと考えてしまうのです。
もし全ての物なんでもきよいと言うなら神の人に対して教えている聖別の定義は根こそぎ吹き飛びます。神の宮の定義も吹き飛びます。罪、義の定義の全部も吹き飛びます。何をパウロが話しているのかこの節の前に書かれた内容、文脈から正しく捉えれなくてはなりません。
神の聖別した物生き方、その範囲での全てと言う意味です。
神の教え以外の誰かの意見で、異邦人が売っている肉は汚れている、偶像に捧げられた肉は汚れていると考える信仰の弱い人がいる。その肉はもちろん食物規定=レビ記11章、神が創造した
人間の食せる動物に限っている事実をずらして考えれば、なんでもあり、神の教えは廃れたなどと言う発想を異邦人がするのです。
だから注意して神の言葉は永遠であり絶対であり、人が違反したり、破ってはならないものであり、人の意見で仕分けられる性質では無いと言う神の言葉に対する正しい理解が無い場合この様な箇所を読めば、聖書に書いてある意味とは違う事を考えとことん書かれた内容を誤解して解説してしまうのです。
勘違いしてはならないのは、神が伝える聖別=これらは食べ物を通しても教えているのです。ノアの箱船に入ったきよい動物、
きよくない動物=汚れている動物とは、人間が食するのに相応しくない動物の事です。この動物は2つがいで箱船に入りました。
きよい動物〜祭壇に捧げられる、人間の食するのに相応しい動物は7つがいです。7の数字でも表されている通り完全なるもの。
この定義は黙示録の最後まで変更無しです。
人の意見でどちらを選択しても良いもの、それらは神の教えに
関してではない、人の考える考えや人の見解の事なのです。
人が考えて意見すれば神の教えが変化するなどと言う、そんなのは神の教えではありません。それでは神の言葉に主権があるのではなく人に主権が移行すると言う思想であり、神の言葉の絶対性に反します。
汚れていると考えるのは、異邦人、異教徒の市場で売られる
レビ記11章にある人間の食せる動物は汚れているかもと考える
そう言う考えです。でもそれらの肉は異教徒が触ろうとも売ろうとも偶像の前に置かれたかもしれないけれどその食べ物自体汚れたものは1つも無い!と言っているのです。汚れた動物=人間が食するのに相応しく無い動物はどこまで行っても相応しく無い
汚れた動物であるのです。汚れた動物を食して良いなどとパウロは初めから話していないし、そんな発想さえ皆無なのです。ローマの読者もその様な事など微塵も考えてさえもいないのです。
日本人がコウモリや、蛇や、サソリ、ネズミを食べようなどと
言う発想を普通の人はしないのと全く同じです。パウロの様に、
モーセの五書を知り神の言葉が絶対であると神の言う通りの言葉を信じる人には、神の創造した清掃動物=きよくない動物を
食そうと言う発想は、神に対する冒涜、忌まわしき嫌悪される
行為神に対しての罪、冒涜的行為であると言う理解が根底にあるのです。神の言葉を理解しない場合、聖別の意味が分からないので、神の前に汚れと交わる事の意味を理解しないので、今は何でも食して良いのだとパウロが言っていると勘違いするのです。
異邦人クリスチャンの世界では神が禁じる人間に相応しくない
きよくない動物がどう言うものであるのか、どう言う性質のものなのか、それらが何であるのかを知らないのは、人の創作した
教えを信じて、神が語る永遠不変の言葉、教えを信じていないからです。
聖書は神の言葉であると信じますと言い、神の言葉は絶対であり永遠不変と言いながら、どうして、神の言葉に対して全く異なる取り扱いを教えられてその様に神の言葉を取り扱い、聖書に書いてある事と実際の行動がズレている事に対して何の矛盾にも
感じない、考えないのでしょうか?
刷り込み、洗脳教育=人の教えに脳回路が支配されていて、
神の言葉は途中で廃れた、変化した、終了した、無用になったと言う、神の言葉に反する人が創作した思想に頭脳を覆われてしまい、その思想からしか聖書を読めない、聖書に書いてある事を
曲げて読む事をしてしまっているからです。
神が人に伝える永遠不変の教え=言葉=真理=事実を聖書から
読み取らないまま、”ほ〜らここに今は何も汚れたものは無い、感謝すれば全部清められるからなんでも食べても良いのだ。
今は恵のなんでありの良い時代であ〜る”などと言う聖書に無い教えを異邦人は編み出して、それが恵の時代の新しい神の教えだと完全に読み違い、勘違いしているのです。
もし神の言葉を正しく理解出来れば、自分にフィットしない、
相応しくない、不適合な汚れた動物を食そう!などと言う発想
は神の前に出来なくなります。昨日も、今日も永遠に変わらない
神=メムラ=言葉=イエシュア=トラーに書かれた生き方を
神が今も自分に向けて話しているのに、神の真実は神の言葉を
否定し、理解しない、読まない、受け取らない場合には、神の教えの大部分は自分には全く通じていないと言う事なのです。
神が伝える事が真理であるからと言う大前提をずらさない。
神が伝える教え、それらは人間の食べ物ではない!祭壇の上、
神の前にも、神の宮の中にも捧げられない性質の動物!
神が忌み嫌うと言われたその様な動物を、神に聖別された神の宮である人の中にも食して取り込めないのだ!と言う単純な事実を理解し、神の知恵、考えの奥深い内容を理解すれば、それらと
交わる事、神に対する背信行為であると理解出来るのです。
異邦人クリスチャンで反モーセの五書、モーセの五書終わりありき!と言うデイスペンセーション神学や置換神学を教えられ、
その思想を信じている人達には、ほぼ100%この様な箇所を
聖書に書かれている意味とは異なる読み違いをしているのです。
そして神の前に神が禁じている行為は、今は許されているのだ
などと勝手な発想をして、自分の身に神に相応しくないものを
取り込み続けてしまう行為をしても気が付かないままになるのです。
つくづく別の霊の作戦はエデンの園から巧みであると分かります。敵は分かる様に人を騙さないからです。それらしくて実は真実ではない事を語る。信じる人の口から不真実を語らせている。
有名な学者が言うから、みんなが言うからみんなが実践しているからそれらは真実であると言う考え方をしてしまう。
聖書に何も根拠が無いにも関わらず。本当に巧み。
そしてまさかイエシュアを信じながら、自分がイスラエルの神に対しての背信行為をしているなどと考え付きもしませんでした。
聖書に書かれた永遠不変の神の言葉をその通りには受け取ってはいなかったし、神の教えに対して無知であり、学ぼうともしない
自分へ向かって神が今も語って教えている教えだと言う認識が
なかったからです。なぜなら廃れた呪いの律法、それらを生きる事こそ神へ対しての背信行為、恵みを捨てた生き方であると教えられて来たからです。神の言葉に敵対せよ!と言う教えです。
神の言葉に敵対する事が正義である!などと信じ込ませる教え。
だから聖書など学ぶ事をしないのです。第一聖書など読まない人の方が多いです。満遍なく読み、正しく学ぶ、しかも原典聖書を
学ぶなんて聞いたこさえありませんでした。聖書を教える人達がそうであれば、普通の人は尚更、聖書なんて読まない、学ばないです。
だから神の言葉が何を教えているのか真剣に追求もしようともしない。追求したくとも、正しく教えられる手がかりが見つからない。私にも正しく聖書に書かれている本当の意味を教えてくれる
教師がずっといないかったから分からなかったのです。
聖霊が教えて下さると言います。そうですがそれには前提があるのです。聖書に書かれた意味をまず正しく知らないままでは、
聖霊が導きたくても自分が神の言葉を誤解したままでは、
真実には気が付けません。言葉=メムラ=神=聖霊なのです。
聖霊と神の言葉は一体であり矛盾が無いのです。神の言葉を否定しながら、どうやって聖霊が神の言葉=神の考え=思想を解き明かすのを人が理解できるのでしょう?神の言葉を否定する人
信じない人には神の思索=言葉は理解は出来ません。神の言葉を理解するには、まず神の言葉を否定する思想が、人が作った非聖書的教えであると言う事実に気がつき悔い改め=軌道修正が無いと、神が語る真理に対して正しい探索の旅は始まらないのです。
聖書とは違う事を教えられてしまったら、それは神の声の中で
神の声=教えを聞くと言う場所から外れ、人の教えに聞き入って
しまう場所に飛び出すのです。神の伝える真理とは違う事を
信じ込んでいたら、聖霊=神の言葉が教える真実が見えなくなるのです。厄介なのは人造の思想、神学、教理が異邦人クリスチャンの世界にがっちり浸透してしまって、聖書ではなく、人の思想を信じてしまっている事実に盲目のまま気が付きもしない事なのです。聖書では無いことを信じている、実践していると言う事
さえ思い付かない、考える事さえ、疑問にも思わないのです。
神の言葉を否定することが正義!と考える思想=それは、神が
呪いの律法を終わらせた!と言う異邦人が考え出した思想に洗脳されているからです。
信じる者の中に、聖別を汚すものを取り込ませて、神の言葉に
対して無感覚になる事を教え、それを2000年近くも語り続けられている。マジョリティ=異邦人の大多数がその様な教えを
唱えて信じて実践しているから、それらの教えや実践は神が支持しているに違いないと思い込んでしまうのです。
でも、狭き門から入りなさいとイエシュアが言われた通り、
滅び=神の言葉を否定する教えの門は広く世界に浸透してしまっている事実を考えると、神の真理は神が伝える言葉の真実の中
それを探る時に初めて理解出来るのです。神の言葉は終わり!と大衆が唱えている教えと、神が人に伝える永遠不変の真理は
だいぶ異なる内容の数々なのです。なぜなら、大衆は神の言葉は
2000年前に終了し破棄されたので、今はモーセの五書とは
違う教えを生きる、又は個人の選択でどの教えも人が選ぶ、人が神の言葉を却下する権利がある、神の教えを変更する事は人には許され可能と言う、神に対してあり得ない冒涜的教えを教えられてしまっているからです。
続く