異邦人クリスチャンの世界で神の言葉が誤解され、一般に流通している使徒信条とは以下の様なものだと思います。イエシュアは”呪いの律法”を終わらるために来られた。呪いの律法=モーセの五書に書かれた生き方は、人が生きるには苦痛で困難な教えであるから終了させた。怒りの神が変身し今は恵の神になり、恵の時代にはモーセの五書に縛られない生き方に解放されたetc etc
それらは申命記30章に全く反した教えです。神の教えのなんたるか、神の教えの知恵深き事、麗しい事、美しい事、イエシュアの性質そのものの生き方である事を理解していない人が唱える
人間創作の思想です。神が寝ても覚めても何をしていても神の
教え=トラーから離れるな!と言われたのに、どうして2000年前から神の教えを捨てよ、離れよ、忘れよ!と言うのですか?
神の教えを忘れよ、捨てよといつ神は言いましたか?
申命記30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、
30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。
命と幸いは神の性質=神の教えに根付いて生きる事から生まれる
もの、そして神の言葉を捨てることは自分に死=神との別離、
隔たり、そして災いをもたらすもの!と神は教えているのです。
神の言葉を疑わせたもの、神は本当にそう言ったの?と言うあの
地を這う透き通る動物の声と全く同じ、神の言葉を忘れよ!と
言うのはイスラエルの神ではない別の霊の声です。
神の家の中で教えられているでしょう。神の臨在がある場所、
契約の箱の中の神の言葉!チェラビムがガードする命の源、喜びの源泉。神の言葉をガードして生きよ!目で見える形で何を
ガードして生きたら人は命、エデン=喜びに留まる状態になるのか神が教えているのです。
それらの古い教え=モーセの五書に書かれた教えを生きることは神の恵を無駄にした生き方であると異邦人クリスチャンは教えられそう本気で信じています。
異邦人は、福音書以降、イエシュアや使徒、パウロが教えて生きた生き方が100%モーセの五書のみであると言う事実に全く
盲目状態であり、その事実にさえ聖書の中に書かれていても全く気が付いてもいない、読み取ってもいないからです。
ではクリスチャンは救われたら一体何を生きるのでしょうか?
人の生きる詳細の完全版はどこに書かれていますか?
福音書以降に書かれた教えは完全版ではなく抜粋のみなのです。
神が人に伝えた神の似姿に創造された人間の生き方=イエシュアの示された生き方の全貌詳細の完全版はモーセの五書の中に書かれているのです。
福音書以降の教えがより優れている?キリストの律法を生きるのだと教える人もいますが、キリストの律法とは、父の教え=トラー=婚姻契約書=モーセの五書に書かれた教え以外に神の教えなどこの世には存在しない!と言う事実にも全然気が付いていないのだと思います。
イエシュアが教えた教えはモーセの五書であり、使徒やパウロが
世界へ運んだ福音=教えは100%モーセの五書のみである!
と言う事実を聖書から全く読み取っていないだと思います。
なぜ聖書に記された事実を読み取っていないと思いますか?
福音書以降には別の新しい教えが書かれている、古い律法は廃れたと教えられ、聖書の最初の70%に書いてある内容を原典に
書かれている意味通りに正しく教えられる事がない、満遍なく
繰り返し繰り返し神の言葉を学び続けると言う伝統が異邦人
クリスチャンの世界の教えの中には無い、しないからです。
聖書箇所のある箇所を抜粋してある数箇所を取り出して、誰かの思想や考え、創作したメッセージを聞くと言う聖書の学び方しかしないので、聖書の最初の部分の70%に何が書かれているのか本当の意味を聞いた事がないからです。最初の部分を知っていれば、福音書以降に書かれている事は100%モーセの五書の内容を話している!と必ず気が付けますし、理解出来るからです。
本物の教科書=神の言葉を学ばないで、人が書いた非聖書的思想の”あんちょこ”の内容だけを聞く、読むから本体=大元の聖書=神の言葉の本物の中身が見えないのです。
1世紀の使徒たち、ユダヤ人、異邦人達には、モーセの五書
預言書、諸書しか存在していない!それ以外を知らない!と言う
事実に気が付けば永遠不変の神の言葉の真実が見えると思います。福音書以降はタナック=モーセの五書、預言書、諸書の
ほんの短い抜粋、解説でしかないのです。その中にはモーセの
五書に敵対する違う教えなど一つも書かれてなどいません。
だからタナックは聖書の最初の部分の70%も占めているのです。罪の定義の詳細、義の定義の詳細、聖別の意味の詳細、
そして人の生きる全貌、詳細は福音書以降には詳しく重複して
書かれていないのです。最初の70%を読めば分かるからです。
福音書以降は全て預言者達が書いた、タナックの使徒達の短い
コメントが書簡として記されているだけなのです。だから福音書以降の聖書の最後の部分は聖書全体のたったの30%しか占めていないのです。
最初の部分に全てが完全版として書いてあるからです。
イエシュアを愛すると言いながらイエシュアの実態、要素である
神の言葉を憎む!要らないものだと言う意識、又はもっと酷いのは神の実態=言葉に対する敵対心を生む教えです。聖書だけに
基づき自分でよく考え続ければ真実が見えます。永遠不変!と
神が言うのに人が横から神と神の言葉は途中で変わる、廃れる、
終わる、不完全、呪いの律法と神の言葉を遮る教えを言い続けているのです。
律法に戻るのか〜!!と言う教えをクリスチャンは必ず聞かされます。神の言葉は絶対であり永遠不変であり、神と神の言葉は
同じ性質メムラ=言葉の神は変身したり、変化したり、途中で
中止、終了になるなどの異邦人創作思想は聖書が語るイスラエルの神の性質とは全く異なるものです。
神が言われた事とは違う教えをする!それは西洋人がユダヤ人とモーセの五書と1世紀後半に決別して創作した別の教えを異邦人は信じているからです。
イエシュアがパウロが使徒たちが1世紀の信者がいつモーセの
五書を捨て、シャバットや新月、祭りを捨てて、日曜日礼拝
クリスマス、イースターを代わりに祝っていたと言う記録が一体聖書のどこに書いてありますか??
書いてあるわけなどありません。そんな事実は無いからです。
それらは聖書が閉じたずっと後、ローマ教としてトラーの教えを塗り替える新しい新興宗教を作るため正式に会議を通して神の
言葉を様々に変更する決議案を通したのはニカイア会議325年の出来事なのです。その中にはユダヤ人は一人も居ません!
ローマ皇帝にYesと言う忠誠を誓う人だけを集めた会議が行われたからです。聖書と全く関係のない教えの数々を作り出し、
神の創造した記念日とは違う別の記念日を創作し、そしてそれらを実践する様にローマ帝国全域に広めた!と言う事実があるのです。ローマ帝国を拡大し治めるため、政治的理由からです。
神が神の教えや記念日を昇天以降に変更した!と言う嘘はもう
言い続けるのはやめないとならないのです。神の教えに反している、神の前に不真実な冒涜だからです。ローマの教え=反モーセの五書をスローガンに別の教えを編み出した西洋教父たちの教えを神の言葉を捨てて信奉する事にした古代の人達の教えに、異邦人達は習い、伝統的にその教えや記念日を継承し、実践し続けている、それが異邦人信者の教えの世界なのです。だからプロテスタントもカトリックと同じ教理、イエシュアや使徒やパウロとは違う教え=反モーセの五書を唱えそして聖書とは違う別の記念日を伝統的に祝っているのです。
ローマ・カトリックの教えと同じ思想や記念日を土台として
共有しているのは、ローマと同じ反モーセの五書思想教理の上に信仰を置いているからと言う事は、明らかな歴史の事実であり、単純な事実があるのです。
それらの信条を唱える場合、全て何を言っているのか分からないまま言っているだけなのです。神がこうしなさいと言う教えは
それが神に造られた人の性質だからそれを生きる!と言う単純な
事実なのです。これこれはしないのですよとは、それらは神に
造られた神の性質通りの人の生き方ではないから、あなたはそれらをしないのですよ!と教えられている、実に単純な事実なのです。そして神の教えは変わらない、人間も歴史の途中で進化変化しないからです。
1970年代以降西洋、特にアメリカでは体験主義、主観主義
不思議、奇跡、奇抜な印、現象、個人体験ばかりを追い求めて
聖書=神の言葉を学び、神の言葉=性質に根付いて生きると言う
教育が本当にごっそり置き去りにされ忘れ去られて来ました。
感情的にハイになりたい、常に高揚体験をしたい。特別な体験をしたい。これってドラッグの世界と共通するものがあります。
人の精神状態、感情はずっとハイ状態には留まる様に体の構造も出来ていません。必ず普通に戻ります。落ち着いた生活、内側にいつもある変わらないエデン=喜び、これは外側の現象に影響されないものです。でもステージで見る奇抜なハイ状態体験ばかり求める意識は、本当にズレた思想、願望です。危険です。
人は、揺るがないエデン=喜び=命の源泉、神の言葉=教えに
繋がって神の言葉の真実と向き合い、落ち着いて生きる様に造られているからです。人は神の口から出る一つ一つの言葉により
生きる!と書いてあるからです。言葉=メムラ=神だからです。
神の言葉を理解する、神の思索、神の考えを深く理解する、神の
実態とぴったり繋がる、周波数ぴったり、ぴったり神の思索、
考え、神の御旨と一致する事です。
只の人間を神の器であると言い、同じ人間なのに神のごとくに
崇拝し、まつり上げたりする様に教え、人を拝んで、次から次へと様々な現象ムーブメントを作り出し、ある事柄やある教えだけが強調されたりする、その様な事を追い求める様な現象が
ずっと続いて来ました。
でも聖書を読むと、神が伝えている事はシンプルです。
互いが同じ人間、神の前に平等。人は人であるから互いに愛し合い、尊敬する、それがある特定の人物を神の様に崇めたり、
特別に愛したり、奴隷の様に人に服従する、そんな事をする様には聖書では教えられていないのです。逸脱するとカルトと全く
同じ思想になります。神の言葉は奥は深いけれど、シンプルな
事実です。神に贖われた人は神の性質に根付いて生きる、それが命の源に繋がる秘訣、原則であり周りを潤し、周りにイエシュアの実態を生きて伝える地の塩世の光としての役割を自分の居る
場所で生きる、イエシュアの性質を生きる事を通して、自分の中からイエシュアの香り、性質が環境に現れ出る、それが神の宮の実態であると書かれています。
続く