神の言葉をどこの箇所でも曲げれば全部崩れて行ってしまう | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

関係を深める秘訣、方法は相手の考え、思いを知る事です。

神は人間を関係の世界に生きる様に造られました。

人は神と、そして人との関係の世界で生きる様に造られています。相手との対話無しに、相手の考えている事、思いを交換するコミュニケーション無しに関係を築く事は不可能です。

 

神の言葉=教えをどうして学ぶ必要があるのか?

神との関係の中に生きてイエシュアの似姿通りに成長するため、神が何を人に伝えているのか、何を神が願っているのか、

神はどんなお方で人は神にどの様に造られ、どの様に生きるのか神が人に伝える考えを知るためです。

私達の思索、行動が神の性質とぴったり一致して生きるためです。照らし合わせる鏡=神の言葉なしにこれをしようとするなら

自分勝手な生き方、又は神の言葉を大部分捨てるなら、神の伝える教えの全貌を殆ど捨てているから何を教えられているのか

分からないまま行きます。

”聖書なんて難しいから面倒”と考えるなら、又は”神の言葉は終了”と考えるならば、神の深い思索、考え、人に伝え様としている、人が知るべき神の思いを自分では知る事は出来なくなってしまいます。

聖霊に導かれればなんでも分かる、神の思いが分かるなどと考える場合、それは何も学ばなくても、本を読まなくても、聖霊に

全て教えられるのさと言う的外れな空想を信じる事になります

それならば、聖霊に教えられるから、試験勉強無しに何でも理解し、解ける様になると言うのと同じ事です。

分かる通り、学習=学ぶ事なしに習得する事はないのです。

実践しないで、上達もしない。当然の事が分からなくなる、

神の教えではなく、人の思想を信じ込む、それが人が編み出した宗教の教えなのです。

神と繋がる一番の源は神の言葉です。神=メムラ=言葉=

神ご自身の実態だからです。

イエシュア=トラーと1世紀の人達は理解していたのです。

神ご自身が人に、神の言葉を熱心に求めよ!神の御顔を求めよ

とずっと伝え続けているのです。神を求めよとは、顔=神の性質=神の思索=実態=神の言葉を求めよ!神の考えを知って自分の思索が神の思索とぴったりになる、それが祈りと言う行為の基本的な要素なのです。

神の言葉を知る、神の言葉=教えの意味を知る、その上で初めて

自分の日々の歩みの中で実際にどの様に神が伝えている教えを

適用するのかと言う事が出来るのです。だから神の言葉を学ばないまま、神の意図する実態を実際の生活に適用する事など出来ないのです。

そして、神の言葉は”絶対的完璧な永遠不変の教え”であり、

神の言葉は歴史の途中で変わらない、そして人が中心になり

神の言葉や教えを、意見や好みとして選択、選別する性質のものではないのです。神の言葉は丸ごとで1つ。分解出来るものでは

ないからです。

異邦人クリスチャンの世界では神の教えを民事、道徳、儀式宗教的教えとして3つに分類していますが、それは不可能な事です。

神の言葉の性質=エハッド=1つ以上で全く一つの性質に反した

分解、分断、分裂させる行為をしているからです。

なぜなら、読めば分かりますが、神の言葉は全部で1つの完全なるもので、どの部分も削除付け足し変化無しだからです。

人の体は丸ごと全部で機能するのに、一部分を外す、削る、

取り外すなど出来ないでしょう?

その様な不可能な行為を神の言葉にしているのです。

 

神のシャバット=記念日を”汚すなかれ”と書いてあります。

道徳的教えにも当てはまります。神の聖別を汚す行為=神の国の道徳に反する行為だからです。

そしてシャバットを汚す行為は死に値する=民事になります。

でもシャバットは儀式、婚姻契約の印として与えられているのです。だから全ての要素の繋がるのであり、こんな風に神の教えを

カテゴリー別に仕分けするのは異邦人の世界の慣わしであり、

ヘブライの世界の思索とは全く異なるものなのです。

 

神の言葉=何を言っているのか?どう言う意味なのか?

実際生活にどう適用するのか?神の教えを自分に適用する時に

神の言葉が何を言っているのかまず知らないとなりません。

そして次にその言葉は何を意味しているのかを知らなければ

ならないのです。

書かれている事を理解するには、歴史的背景、言葉の意味、

もっと知識があればオリジナル言語の意味、どんどん深掘りしないとならないのです。現代の西洋思想で、西洋宗教神学の色眼鏡で、神の言葉を歪めていたら、聖書に本当は何が書かれているのかが分からないままになります。

 

しかも異邦人の世界で教えられている教えは聖書ではなく、人が創作した思想=神学を土台に聖書に書かれている意味通りを学ばない、人の思想で神の言葉を勝手に人間が終了させたり、

イスラエルだけの教えであるとしたり、異邦人には関係の無い

教えだと言い続けて2000年近くも経つのです。

その理由は前回の記事で書いた通りです。

 

進化論を唱える世界的に著名な学者の言うその仮説は神の前には

不真実なのです。同じ事が異邦人の世界の聖書学者の中でも

されているのです。聖書版進化論を語っているのです。

 

聖書に書いてある意味を全く取り違えているのです。

聖書は最初から最後まで同じ事しか書かれていない、別の教えなど書かれていない、どの箇所の神の言葉も互いに敵対し合わない

一貫して同じ教えが書かれているのに、最初70%と最後の30%は別物の教えであると教えているのです。そして、最初の70%の教えを”律法”と言い、そこに書かれている教えを生きる事を律法主義と異邦人クリスチャンは呼びますが、福音書以降にはモーセの五書の教えしか書かれていない事に全く気が付いていないのです。しかも福音書以降はモーセの五書の内容を100%は書いてない、モーセの五書のほんの少しの抜粋しか書かれていないので、別の教えが書かれていると勘違いしているだけなのです。

イエシュアがたとえで話している内容は100%モーセの五書のみです。しかも現代の異邦人神学の色眼鏡で聖書を読むから

益々真理が見えなくなってしまっているのです。

 

律法主義とは、自分の行動、手柄で神の前に義と認められる行為

であり、神の教えを生きる事を律法主義などと聖書では

呼ばないのです。神の言葉をどんな意識で生きるか?で、別物に

変身するだけです。だから律法主義なら異邦人クリスチャンの

世界でも誰でも陥る落とし穴でもあるのです。

神の前に一生懸命頑張らせる、努力させる教えもそれに当たります。大事なものを犠牲にする、又は断食したり、夜通し祈り続けたり?<途中で多分寝ている>そう言う事で他の人より一層

神に熱心、信心深い、自分の方法、努力で神に近づこうと思う

思想も同じく律法主義なのです。

 

1世紀時代のユダヤ人は、行いで義と認められると言う事より、

彼らは、生まれがユダヤ人であるからイコール神の国の席が確保されていると言う意識の方が大きかったのです。

だから、”割礼”=異邦人はユダヤ人に改宗する儀式を経なければ

天の国の座は獲得出来ませんと言う別の福音を伝えるユダヤ人達がいて、パウロが警告していたのです。パウロが語る割礼とは、人が編み出した1世紀当時に存在していた改宗儀式の事を話しているであり、アヴラハムの契約の割礼とは異なるものなのです。

救い、義、神の国に受け取られる事はどんな人種も同じ、信仰により受け取る以外無いと言う事実を知らない、無視した人の教えだからです。

たくさんの誤解をしたままパウロの書いている内容をモーセの

五書が終わりだ!と言う色眼鏡からだけしか解説していないのです。ローマ書やガラテヤ書はパウロがモーセの五書を否定して

新しい教えをしていると大変曲げられた誤解された解説をしている箇所です。モーセの五書終わり!と言う根拠がここにあるとしてローマ書やガラテヤ書に書かれたことを異邦人クリスチャンは

引用し解説しているのです。

 

2つの福音は無い。二つの契約は無い。人種により時代ごとに

神の教えは変化などしない。神は神の言葉は移りゆく影や変化が無い、イエシュアは昨日も今日も永遠に同じ、神の言葉は永遠に堅く立つ!と神が伝えている事実をまるで無視した教えを異邦人は編み出し続け、唱え続けているのです。その事実が聖書の至る所に書かれていても神の教えは変化したなどと聖書のどこにも

書いても無い事を神が言ったのだと、神が言っても書いても無いことを固く信じる理由は人の編み出した教えが浸透し継承され

伝え続けられその思想を刷り込まれているからです。

神の言葉=教えを生きる事を憎む様に、敵対する意識を持たせる教えとは考えたらぞっとするほど神の前におぞましい、恐ろしい教えなのです。

パウロは使徒21章で、モーセの五書を100%支持し、モーセの五書を否定する教えなど一切していない!と言う請願=ナジル人の請願を複数の人と共にエルサレムの神殿で果たしたと書いてある事実からだけ考えて下さい。もしパウロがその請願を果たしながら、裏ではモーセの五書を否定した変形した別の教えを伝えているとするならば、パウロは神から遣わされた使徒ではありません。ただの詐欺師、ペテン師、偽教師、偽預言者となります。

普通の人でも、ある事を宣言し身の潔白を晴らしたのに、裏では

その事実とは異なる言動、行動をしていたならば、その人は

問題のある不真実な人であると理解出来るでしょう。それと同じ事を異邦人クリスチャンの世界では言っていても、その大矛盾に全く気がつかないのです。

どうしてだと思いますか?イエシュアが呪いの律法=神の教え=

完全なる神の言葉=婚姻契約から解放するために来たのに、

その古い悪い律法の教えに戻るのは悪だ!恵みを無駄にする行為だと言い続けている教えを信じているからです。古い律法に戻る事=悪=恵みを捨てる行為、クリスチャンにあるまじき行為などと考え言い続け教え続けているのです。イエシュアや使徒や1世紀の信者が何を生きて何の記念日を祝っていたのか聖書から読み取っていないのです。彼らは西洋人やローマ帝国の教えや記念日など生きてないし祝っても無いし、全く知らない人達です。

 

福音書以降の何処に、日曜日礼拝にするかシャバットにするか

食物規定は変わったのでなんでも食べて良い、神の教えを

生きる人は律法主義だ、神の言葉は廃れた、変化したなどと

言う議論や変更された記述がされているのでしょうか?

そんな事1つも書かれてなどいません。

 

シャバットをどう実践するのかとか、食物規定は撤廃されて

なんでも食べて良くなったなどと誰一人考えない、議論もしていない!のです。シャバットをどう実践するか?異邦人の市場で

売られている肉=偶像に捧げたかもしれない肉は汚れているか?

と1コリントでパウロが解説している通りです。

異邦人の世界とは異なる、誰もが100%神の言葉は絶対

Absolute!永遠に固く立ち変わらないと神が伝えた通りを揺るがさない人達の間で聖書は語られ、書かれているのです。

神の言葉を人の意見で仕分けたり、人の好みや選択で選り分け

生きるか生きないかどうするか人間が判断して良いと言う思想は異教徒背景の西洋教父達、反モーセの五書、反ユダヤ思想の人達が編み出した教えであると言う歴史の事実を知り、認めないと

見えないのです。

 

 

 

続く