神の言葉は時代ごとに変わる、変化する、以前の神の教えは厳しい呪いの律法であり、歴史の途中で神の古い律法=教えは
変化したと言う、異邦人創作の教えを信じ込んでいる思想。
まず考えてみれば分かりますが、福音書〜黙示録の使徒達が書いた書簡は1世紀の後半には未だ書かれている途中であり、一般に流通し普通の人々が満遍なく読んでいるものではなかったものです。今はネットの世界で、この様に今投稿した記事を即座にある人が読むかもしれませんが、それでも満遍なく多くの人に読まれ知られる訳ではありません。
それならば尚更、16世紀印刷技術が発明されるまで、すべての書物は手書きのみであり、書写学者に依頼して書き写すのは高価なものなのです。本当に数少ない使徒が書いた書簡、福音書以降の写本、コピーは一般には多く存在せず、多くの人にも知られておらず、流通して多くの人々の手に渡っていたものではないのです。
ユダヤ人の世界ではヘブライ語のタナック=モーセの五書、
諸書、預言書はエルサレムの神殿や各地方の地域の会堂で所有して、ずっと古代からシャバットでそれらが朗読され学ばれていたのです。
古い教え=神の言葉は廃れ、新しい教えが出たなど、1世紀当時の人は誰一人として考えてもいないと言う事実をまず知らないとなりません。しかも福音書〜黙示録にはモーセの五書とは異なる新しい教えや神の言葉や教えを部分的に分解、削除、又は付け足し自由選択で生きる!などの教えなども書かれてもいないのです。
1世紀当時書かれた使徒達が書いた書簡で、聖書と書いてあれば
それは100%モーセの五書、諸書、預言書のみを指して聖書と
書いているのです。しかも、聖書記者達は100%タナック=
モーセの五書、諸書、預言書のみを指して書いていると言う事実に立たないと真実が見えません。
聖書記者達、預言者、使徒達は誰一人として神の言葉の一点一画も変形などしない、神の言葉に人間が手を加えてはならない、
神の言葉が変化すると言う教えなどするわけがないし、
してもいない事を前提で聖書を書いているのです。
何度も書いていますが、神が警告した通り、エデンの園の動物の
声は、”神の言葉を疑わせ、違う事を人に伝え、人に命に関わる外れた行動をさせた!”と言う警告を常に頭に置いておかなくてはならないのです。”神は本当にそう言ったの?”と言うささやき
教えがそれです。
そして、あれだけ神の仰せを言われた通りに生きます!と宣言したイスラエルと少数の異邦人も、神が預言し警告した通り、約束の地に入ったら異教の神々の教えや慣わしに交わり、神の婚姻契約を生きる事を忘れた!と言う同じ事が、異邦人の上にも1世紀後半に起きた!と言う事なのです。
1世紀後半から異邦人が、モーセの五書に書かれた教えを生きる事をやめ、シャバットや祭りを祝わなくなった理由は複数あります。神がそうしろと教えたからではありません。一番大きな要因は70ADに起きたローマ帝国による神殿崩壊です。多くのユダヤ人はエルサレムから追い出されたのです。神殿崩壊後、ローマ帝国は神殿を通して吸い上げていた様々な資金を得る事が出来なくなり、その結果ユダヤ人がモーセの五書に書かれた教えを生き
イスラエルの神に属する婚姻の印である記念日、祭りを祝うことを禁じたのです。もしモーセの五書に書かれたイスラエルの神の教えを生きたければ、1家族に付き、年間約4000ドル相当の純金をローマ帝国に支払う事、それが払えなければ、投獄され、餓死させられたのです。
ユダヤ人ではない異邦人もユダヤ人と同じ様にモーセの五書を
実践し生きていたら、同じくユダヤ人とローマ帝国から見なされ、ユダヤ人税=フィスカス ジュダイカスを課せられたのです。
でも異邦人は、イスラエルの神の教えを捨てて、ローマに迎合して行ったのです。そして異邦人西洋教父=モーセの五書などよく知らない人達が、聖書とは違う教えを編み出して行ったのです。その教えがずっと2000年の間膨れ上がり今日まで継承しているのです。それが置換神学であり、デイスペンセーション神学、神の言葉は異邦人は生きる必要がないなどと説いた教えの土台です。
すべて反モーセの五書、神の教えは生きる必要がなくなった
シャバットは人の考えで日曜日に変更しても良いのである!と
言う思想を異邦人が次々に言い出したのがきっかけです。
ローマの迫害を逃れるため、元々ユダヤ人に対して抵抗、拒絶感
がある思想があったからです。
ユスティノス 160 AD
アンティオキアのイグナティオス 35-107 AD
ヨハネス・クリソストモス 4-5世紀、16世紀のルターも
反モーセの五書、反ユダヤ人思想を掲げユダヤ人が滅びる事こそ神のみ旨だと言う書、”ユダヤ人と嘘”と言う書を晩年に書いたのです。この様な事は異邦人クリスチャンの世界では教えられない要素でもあります。こんな教えを聖書を手元に持たない1世紀〜中世の人達、ヘブライ語聖書に何が書かれているのか、パウロの様な教師に学ばずヘレニズム思想ローマ教の教えを聞き続けて
来た、その教えの根は今も健在なのです。
2 福音書〜黙示録には古い律法とは違う教えが書いてあると
言う思想
3 福音書以降は、新時代、教会時代、恵時代と言う思想。
怒りの神が消え、恵の神登場時代。
イエシュアが来られた後は、人の意見、選択、人間が神と勝手に交渉する権利があり、神の言葉を生きるのか生きないのかの
自由権が人間の側に与えられたと言う思想。
3 神の教えは古い教え=悪い廃れたと言う思想、古い律法に戻る事は律法主義である恵みを捨てた悪い事であると信じる思想。神の言葉は2種類ある、時代ごとに違う、人種ごとに違うと言う思想。
この様な思想は異邦人、又はヘレニズム哲学思想、ヘブライ思想とは違う思想を持つ人が編み出した教えを土台に聖書の事実を
曲げて考えている思想なのです。
その様な色眼鏡、現代に至るまで2000年近く流通している
異邦人創作の思想を通して、福音書や、パウロの書簡を読めば
そこに書かれている内容を変形して解説するのは当然の事です。
使徒やパウロが書簡を書いている時代は、今の時代とは全く違います。いくつかの違いがあります。
福音書〜黙示録を読んでも分かる通り、その中には、神の言葉を
人間が判定したり、却下したりする様な事など1つも書かれていません。
議論されている内容は、神の言葉、教えが有効か無効かなどの
議論ではなく、人間の編み出した教え=当時のラビ達の創作した伝統の教え=ハラハ=口頭トラーの通りに生きているのかどうか?を議論しているのです。
イエシュアの弟子達がラビ達が編み出した伝統の教え通りに生きない事を、あるラビ達が咎めていることが書かれています。
”手洗いの儀式”をイエシュアの弟子達がしていない事で咎められた箇所です。これはトラーに書かれた神の教えではなく、人が
考えついた教えです。異邦人が共に住む世の中を生きていれば、
異邦人が触れた汚れを触ってしまう、異邦人の市場で売っているものは汚れていると考えている。その手は食事の前にきよめなくてはならないと言う人が考えた教えです。中には異邦人の店からなど買ってはならないと教える人も今現在でも居るのです。
もう一つ言えるのは、福音書〜黙示録の中で、神の教えを生きないくて良いとか、削除、無効とするなどと言う議論は1つも一度もされてなどいない事です。
シャバットを祝うのをやめるとか、食物規定が廃止されたとか
アヴラハムの割礼は意味がないとかするなとか、神の永遠不変に完全なる教えに対して、廃止とか無効になったなどと言う考え、話、議論は誰一人としてしていないのです。パウロの書簡を
完全に読み違えているのです。
神の言葉はAbsolute=絶対であり、Negotiate=人がネゴして
要る要らない、又は、Opnion=人の意見で神の言葉を判定するなどと言う思想は聖書にはないのです。
福音書以降には何を議論されて書いてあるかと言うと、
シャバットの実践の仕方に付いて、日常の中で神の教えをどう
生きるか?の議論のみなのです。例えばシャバットを破っている!と言う箇所です。イエシュアの弟子達がシャバットに、
ラビ達の教えでは禁じている、トラー=神の教えでは禁じていない、畑に入り落ち穂を食べる行為をしていた、その議論もそうです。
エルサレム付近に住むパリサイ派とガリラヤ湖周辺に住むパリサイ派とは違う実践をしていたのです。クリスチャンの世界でも
グループにより様々な聖書とは関係のない人が作ったルールが
あるでしょう。それをそのグループに属する人がやらないと
咎められるそれと同じ内容です。どの様にシャバットを実践するのか?と言う議論は存在しても、シャバットを祝うのか祝わないのか、シャバットを日曜日に変更するのか?などと言う議論は誰一人只の一度もされてはいない、日曜日にシャバットを変更して
祝っていた人は聖書に誰一人として登場していない!と言う事実が聖書には書かれているのです。
神の教えをどう生きるか?の議論はされていても、神の言葉を
破棄するのか、実践するのか?の議論などもされていない事を
聖書の記述から読み取らないとならないのです。
聖書には最初から最後まで同じ福音、同じ教えしか書いていないと言う事を知らない人の思想を聞き続けてしまえば、聖書の真実が見えなくなります。異邦人の世界では、非聖書的な教えをし、
創作の教えまでする歪んだ思想を持ったユダヤ人もいるのです。
だから、神の言葉の性質、神の言葉を人間が選び、選択して
自由に生きる様に神が教えているなどと言う聖書に無い教えに
本当に注意しないとならないのです。
5 聖書の最初の70%はイスラエルへだけの教えであると言う
1世紀後半に出現した反モーセの五書を唱える西洋異邦人教父たちの教えが神の教えであると信じ込んでいる思想。
これらは、神は唯一であり、神に造られた人間も同じ土=1人の人アダムから出て、同じ人間のDNA=神の似姿に造られた同じ人間であると言う事を全く理解していない思想です。
古代も現代も、どの時代のどの人種も人は同じ人間!人種により
人の種類が違い別の生物であるとでも言うのでしょうか?
神の教えは全て完全であり、人が生きる全ての詳細が書かれています。もちろんある特定の人への教え、男性や女性、祭司や
夫、妻と役割は違いますが、そこで書かれている教え=真理は
共通しているのです。割礼は女性には肉体的には無い。でもその
割礼=境界線が敷かれている、神の性質を受け継ぐ、命を繋ぐ臓器に付けられた神からの印、その真理は万人に共通であり、
肉で表される印は、頭脳=人の内側=新しくされた人=割礼を受けた状態である事そのことを教えられているものなのです。
ヨハネの福音書から飛びますが、異邦人の世界で神が神の教えを変えた!と勘違いしている箇所を再度検証してみたいと思います。
1割礼 するべからず 2食物規定 要らないもの 3シャバット 安息日、第七日目ではなくどの日でも良い、もしくは日曜日に変更可 4神の祭りも今は祝う必要が無くなった
5 その他神の教えを生きる必要が無くなった
6 古い教え=モーセの五書は学ぶ必要はない 時々参考程度に
見れば良い。だから学ばない。
7 福音書以降に新しい教え、生き方が書いてある
8 異邦人とユダヤ人は別の教えを生きる
9 異邦人とユダヤ人は2つ別々の家族である
10 異邦人とユダヤ人は天と地と別の場所を統治する
11 デイスペンセーション神学で父なる神はユダヤ人に与えられ、ジーザスは異邦人に与えられたと言う思想を唱える。
これら全て聖書とは異なる教えです。
大体こんな教えをされていると思います。
ローマやガラテヤ書などが、神の教えが変更された!と語られてしまう、代表例です。ローマ14章を再度検証してみます。
続く