聖書には無い思想で聖書を読み続けると聖書に書いてない事を
解説されても、それが聖書の事実だと思い込んでしまいます。
だから聖書にある記述と実際に信じる事、実践している事が異なっても、人の解説でそれが今の時代の義の生き方である、恵の
生き方であるなどと解説されれば、そうなのかと思ってしまうのです。問題は聖書に書いてある事実を知らないと言う事につきます。聖書ではなく、人の思想を学び、人の思想=神学を解説する
教えを聴き続けているからです。聖書を教える人も聖書ではなく
人の創作した神学を学び語り続けているので、何が人の創作した教えで、何が聖書の事実なのかの見分けさえも付いていない場合が多々あります。
聖書に書いてある事と、実際に信じる事、生きる事、実践される事が異なる場合には、聖書に書かれた事実の方を取る、人の教えで神の言葉が再定義され、塗り替えられた教え、伝統で語り継がれる教えは、歴史の途中で神の言葉とすりかえられた創作の教理
人造神学であるので、それらの非聖書的、聖書に根拠が書かれていない教えを全て完全除去する、悔い改め=軌道修正、本物の
神の言葉の真実に戻る!と言う事をしないとならないのです。
悔い改めとは、神の前にズレを認めて、そして神の伝える真理=
神の言葉=教え、インストラクション=トラー=モーセの五書に
書かれた人間本来の神が伝える性質の生き方に戻る事を悔い改め=シュヴァと言うのです。ごめなさい〜あなたを愛しますと口先
で言うのは、何も意味がない事です。実態が無いなら無意味。
愛するとは、神の契約の愛の実態を生きると言う意味であると
神が人に伝えているからです。
ヨハネ 14:15 もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめ=モーセの五書に書かれた教えを守るべきである。
”わたしを愛するとは、神の教え=トラーを生きる!父の言葉を
生きる人!それが神の本物の家族の一員!”とイエシュアが
言った言葉を、嘘である、使徒2章以降意味がないと言う教えは
聖書の真実でもなんでもなく、神の教えに敵対する、人を神の
教えから遠ざける、人に神の真実を伝える妨害をする、人を神の言葉、教えに注意を払わない様に促す危険な教えなのです。
1世紀後半から、今に至るまで異邦人の編み出した非聖書的思想
反モーセの五書、神の言葉に注意を払わず、自分の選択で選び
好きな様に生きる恵の時代の教えのオンパレードの講義の内容を
聞き学んだら、それらが神への冒涜、神が伝える言葉の真実を
否定し続ける教えである事実に絶句してしまうと思います。
神は神の言葉を固くガードして生きる様に最初から最後まで
伝えているのです。はじめの愛=モーセの五書を離れた人達へ
どうしてヨハネが黙示録で警告を書いているのでしょうか?
聖書には無い思想、置換神学=イスラエルは却下され、異邦人が
契約を受け取る代表になったと唱えています。契約=モーセの五書以外にありません。契約を受け取る代表者にすげ替えられたと言う異邦人はその契約=モーセの五書を破棄して生きると言う
全く矛盾した教えをしていても、全くその事実に気が付いていないのです。
地の塩、世の光とは、トラー=モーセの五書を生きて世界へ神の
伝える人間の本来の生き方を表すことを話しているのです。
デイスペンセーション神学=時代ごとに神の義、聖別、罪の定義人が生きるための教え、基準が変化すると言う思想です。
これらは聖書=神の教え、言葉ではありません。
これら全て、聖書には無い思想であり、神の伝える教えと真逆な非聖書的教えであり、只の人=異邦人=ダービーが創り出した
思想教理であるので、それは完全に思想哲学異端的教えであり、その思想の土台根本を一掃しない限り、どんなにその思想に手を加え続けてリフォームしてもそれは聖書の教えには永遠になり
得ないのです。ただ一つだけ、半分真実が混じる定義は、契約はイスラエルに与えられている事、これは無効にならないと言う
点です。
でもトラーはイスラエルだけ生きれば良い、イスラエルは恵の時代据え置きになり、異邦人クリスチャンが中心であるなどと言う
のは聖書の教えなどではありません。嘘と誠が混同する。
デイスペンセーション神学は、この様に教えます。
恵の時代、新約時代=使徒2章以降に別の時代に入った。
これは聖書の事実ではありません。神の贖い、救い、修復の業は
最初から一貫して同じであり最初から今まで、そして未来へ
ずっと同じく継続している進行形だからです。
そして、新約時代、教会時代などと言う思想も聖書にはありません。
モーセの五書とは異なる新しい契約、別の教えも存在しません。教会と言う言葉、新し今までに無いグループ=神の家族と言う
教えも聖書では存在しません。
教会は、ヘブライ語でカハール<ケヒラ>、ギリシャ語でエクレシア=神の声に呼び出された応答した人の群れと言う意味の言葉であり、、1つのグループ=1つの神の家族しか存在しないのです。最初から存在するイスラエルの神の唯一の家族なのです。
継続的に信じる人達が同じ1つの家族に加え続けられるだけ。
その違いだけです。人種ごとに分裂した別の家族と言う思想は、人間の作った思想なのです。福音書以降に書かれている教会と
言う聖書に無い造語を作り、あたかも福音書以降には別物の家族が出現したと思わせているだけなのです。
デイペンセーション思想を信奉する人が翻訳すればその人の思想
信条に沿った聖書に無い言葉を編み出し翻訳するのです。
だから翻訳ではなくて、元の言葉の意味を確認する必要がある事
を理解出来ると思います。翻訳に神の言葉の真実が覆われて、
元の言語の意味が現れ出ない、聖書に無い思想を真実だと
信じ込まされないためにもその作業は必要不可欠なのです。
そして、デイスペンセーション神学は、今は教会時代、新約時代
恵の時代なので、古い教え=律法は生きる必要がないと教えています。この思想は1世紀後半に出てきた時の異端者マルキオン
旧約、新約聖書と言うタイトルはマルキオンの思想です。彼の
思想で唯一取り入れられ挿入されたものがこのタイトルであり、神の伝える永遠に真理であり1つである神の言葉と言う性質を
隠す要らない、神の言葉の性質を塗り替える妨害的思想、ページです。そしてその思想のおかげで、新約時代は神のトラー=律法を生きる必要は無くなったのだと教えているのです。
聖書にそんな事書いてありますか?ありません。聖書を書いて
ある通りに読めば分かると思いますが、イエシュアが使徒が
パウロが教えて生きていたのはモーセの五書以外に無い!と言う事実さえ見えていない、気が付けない、知らないまま、人の思想=デイスペンセーション神学を唱えたダービーの思想を神の言葉の上に権威として持ってきてしまう大罪、大失態を犯しているのです。そして、イスラエルは棚に据え置かれて、異邦人クリスチャンが今の時代の主役であり、モーセの五書を生きる必要もない今は恵の時代ですと言うのです。パウロが言う今は恵の時代とは信じた人が神の命に繋がり義とされた事、その人に取って上から生まれ本物の神につながる人生を始めた事、それが恵の時に
入ったと言っているのです。
神が使徒2章まで神は恵を人に与えなかったと言う思想は、
イスラエルの神を多大に誤解している思想です。
タナックに書かれたイエシュアを知らないからです。
神は最初から恵、愛、許しに富んだ神と紹介しているでしょう。
神は移りゆく影も、変化も無い。昨日も今日も永遠に同じ!と言う神が紹介する神の性質を伝える言葉をどうして信じないのでしょうか?恵の神、怒りの神などイスラエルの神に対して本当に歪んだ思想を持つ人の教えを信じ込んでいるだけです。
どうして、そこまで神の言う言葉を否定して無感覚になれるのか?それは聖書に書いてある神の言葉に注意を払わなくて良いと教えるデイスペンセーション神学の様な思想に聞き入っている
その弊害があるから、神のみ言葉を聞けない飢饉状態に陥っているからです。
そして、恵の時代は、どの日に礼拝でも良い、神の記念日を汚しても、無視しても良い、何を食べても良いサンデークリスチャンポークeating クリスチャン、イースターにはポークハムをアメリカで食べる伝統がありますが、デイスペンセーション神学の教えで、今はなんでも許される、免罪符があるから、神が教えている人間の生き方を生きるのは無用、または自由であると教えています。でも神はそんな教えなど一度もしていません。
いつでも記念日、礼拝日、なんでも食べて良いと言う教えは、
神が伝える聖別の定義を根本からなし崩しにしている教え
そのものなのです。
聖なるものと、汚れたものの区別を教えない教えです。
聖別=神の目的通りに分かたれる事、それが聖別であり、聖別の生き方は、”シャバット、新月、食べる事、飲む事”で表されると
書かれている通り、日々神が伝える聖別の生き方を生きる事で
表すものなのです。神が伝える人の生き方をする=聖別された
生き方がイスラエルの神の子らの生き方であるのです。
デイスペンセーション神学の教えは聖書とは異なる無茶苦茶な
教えです。聖書を曲げて解説するからです。
エゼキエル書にもある通り第三神殿は異邦人クリスチャンには
関係無い、ユダヤ人だけ律法に戻り生贄が捧げられるのだと
解説しますが、イエシュアが地上で世界を統治する事を預言書から読み取らない、知らない、読み取り理解しないのでしょうか?エレミヤ書にある通りに未来は全てモーセの五書=神のトラーを生きる世界が来ると書かれているのです。レビ記に書かれている神の神殿の意味、コバーン=捧げ物の意味を全く理解していない証拠でもあります。罪の赦しのために動物の捧げ物がされているのではないからです。
そして軽挙=これもデイスペンセーション神学の思想ですが、
クリスチャンだけ艱難の中パラダイスに引き上げられ、この世を
永遠におさらば、ユダヤ人と他の人達は地上でヤコブの艱難、
試練の時を過ごすと教えます。そんな事聖書には書いてありません。神はなんと伝えているのか、神が伝える言葉は永遠不変と
言う事実を否定する人の頭脳には今神が伝えている真理は全部
頭上を通り過ぎて行きます。神の名=実態は1つであり、最後には世界は1つになり、新しい修復の世界、エデンに戻るのに、分裂した家族の内容など聖書にない教えを信じ込んでいるのです。
以下は未来預言です。
イザヤ書65:4
墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、憎むべき物の、あつものをその器に盛って、
66:3 牛をほふる者は、また人を殺す者、小羊を犠牲とする者は、また犬をくびり殺す者、供え物をささげる者は、
また豚の血をささげる者、乳香を記念としてささげる者は、
また偶像をほめる者である。
これはおのが道を選び、その心は憎むべきものを楽しむ。
66:17
「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな
共に絶えうせる」と主は言われる。
神の聖別の定義は歴史の途中で変わりません。
エゼキエル22:8あなたはわたしの聖なるものを卑しめ、
わたしの安息日を汚した。
22:26その祭司たちはわがトラーを犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは
彼らの間に汚されている。
聖書のどこに、使徒2章以降に、今は恵の時代なので、
神の教えは生きなくて良い事になった、シャバットはそれぞれが考える日に祝えば良いと変更になったなどと書かれていますか?
そんな事どこにも書いてなどありません。書いてない、聖書に
根拠のない教えは全て異邦人創作の空想話です。自ら聖別した
聖別は神の前に何も意味の無い、神の伝える聖別を無視した生き方を世界へ推奨している危険な行為です。
どの日に誰と集おうと自由ですが、神が聖別された日、シャバット、新月、春と秋の祭りは指定された日以外は聖別された日などにはなり得ない聖書の事実を無視している教えです。
神が指定した日以外にこれがシャバット=安息日であるなどと
考えても、それは安息日などではないのです。
日曜日は安息日=止まる日、神が聖別した特別な記念日ではなく聖書では労働の第一日目であると書いてあるでしょう。そして
使徒行伝以降もシャバット=第七日目であり、レビ記23章の
記念日はイスラエルだけ祝え、異邦人は神の記念日を祝わず、
ローマが2世紀以降に作った日曜礼拝やクリスマス、イースターを祝う様に変更になりましたなどと聖書のどこにも書かれなど
いません。神はそれぞれの考えで勝手に生きる時代になりましたなどと一言も言ってなどいません。嘘なのに、神の教えであるがごとくに聖書を曲げて解説することは神の前に大罪なのです。
偽証するなかれ。恵の時代は神の言葉を否定して良い、偽証も
許される様になったと聖書に書かれているとでも言うのでしょうか?
続く