2008年の春に初めてヘブライ語の聖書の学びに出会い、
初めて過越の祭りを体験し、それから”人の作り出した教え”から純粋な神のオリジナルの言葉=教えを生きる事へ移行しました。
これは一度に移行した訳ではありません。なぜなら自分の中で
正しく神の教えを理解し消化し生きると言う事に移行するには
それなりに大分時間がかかったからです。一旦分かれば、完全に聖書ではない教えはやめる、神の言う事を生きる!と言う事が出来ますが、1つ1つ聖書ではない!と言う事実を掴みながら、
その掴んだ事実に基づき軌道修正して生きる事をすると言う
何段階ものステップがあったからです。
初めは全然気がつかないまま、ただただヘブライ語聖書の中に
書かれた本来の意味、本来の言葉の意味、神の教えの麗しさ
素晴らしさに、ただただ感動していました。
私が知りたかったのは、翻訳の裏にある本当の意味、内容、
何を語っているのか、神の真理の中に入り、潜望鏡から細部を
覗くと言うことをしたかった、知りたかったのです。
日本語でもそうですが、その言語で語る意味を深く学ぶと
今まで見えなかった景色が見えてくると言う体験をします。
元の言葉で語られている意味と翻訳から見えるものとは大分
違いがあるからです。
そして、日々神の言葉の本来の意味を学ぶ事に取り憑かれて行く中で、今まで見聞きしていた西洋宗教の中で語られる教えや
記念日、生きる上での実践と、実際に聖書に書かれている内容が異なる!!!と言う事実、矛盾に直面し続けて行ったのです。
これはオリジナル聖書、神の言葉だけに戻る!と言う事をする
場合には、誰もが直面する現象、誰でも辿る道のりなのです。
半分混ぜ物、半分神の教えを考えている場合には、中途半端に
しか真実が見えず、中途半端に聖書に書かれていない人の創作
した偽の教えが混じっているので、それらの教えが神の言葉で
あると、神の言葉を歪めて理解して、真相が見えない事が起きるのです。
ユダヤ人とてある人達は聖書とは外れた教えをしています。
異邦人の教えと共通するある点は、イスラエルではない異邦人は
蚊帳の外=これこれだけを生きていれば良い、ノアの法則などと言う教えをする人達がいますが、それも神のオリジナルの言葉に戻れば、神が伝える事実とは異なる事が分かります。
イスラエルが神に選び出された理由は、全世界の国民の中でただ唯一地上で神の国、神の似姿の人間の生き方を生きて世界へ表す国民として彼らを神が選び出した、それが理由です。優れているから、特別に愛されているからではないのです。そしてその民族人種でも同等にイスラエルの神に連なる人は同じ神の教え、記念日、神の家族の生き方をする事が聖書には書かれているのです。
地の塩、世の光とは、世界へ神の教え=トラー=モーセの五書に
書かれた生き方に戻る、命を生み出す場所=神の命の源はここ!と契約の箱を指しているチェラビム、エデンに戻るシグナル、
エデンの入り口に立つチェラビムの役割をする事なのです。
灯台の役割です。
申命記4:6 あなたがたは、これを守って行わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。
4:7 われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。
4:8 また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべてのトラー=神の教え、インストラクション=モーセの五書のような正しい定めと、おきてとがあるで
あろうか。
イスラエルは世界の中心であり、アジア、ヨーロッパ、アフリカ
諸国がイスラエルの商業道路を通る時、イスラエルの神の教えに気が付くきっかけを与えたのです。なぜなら、イスラエルに入りシャバットに止まり商売をしない。どうしてこの国はこの日に止まるの?休むの?他の国には止まるの?と言う会話、質問を誘発する事になるからです。異邦人の世界では止まる、休むと言う
概念さえなく休まずあくせく働き続けると言う事をしていたからです。
前回の記事にシャバットに関して記されている箇所を載せましたが、聖書の最初から最後までずっと”安息日”とは第七日目を
指して語っている事実があるのです。
もし、神が神の教えや記念日を変更する、人それぞれで勝手に
やって良いなどと神が言ったと言うなら、そんな記述は聖書の
どこにありますか?書いてある意味を曲解し神の記念日はいつでも良いなどと解説しているだけなのです。異邦人クリスチャンの世界では、モーセの五書をオリジナルから学ぶ事が皆無であり、聖書が1つの書であると言う事実など教えられず、2つ分断した聖書であると聖書の事実、記述に反した教えを聖書を曲げて解説して伝え続けられているのです。
異邦人クリスチャンがモーセの五書から離れた本当の理由、神の創造された永遠不変の神のオリジナルの教え、聖別された記念日を祝う事をやめた理由を何度も繰り返して書いています。
聖書の中の記述にも2世紀以前の信者の実践にも、日曜日礼拝を
した人達、記録は1つも無いのです。
ローマ帝国では日曜日は太陽神の日であり、皇帝=主の日である
のです。聖書で、主の日とはレビ記23章の記念日であり、
又は神が特別な業をされる期間を主の日と言っているのであり
聖書では、日曜日=主の日でもなければ、安息日=日曜日に変更
されたのでも無いのです。聖書に無い記述を基にクリスチャンの
世界は人が創作した教えを教え続け、語り続けていると言う事実にまず気が付いたら良いのです。
異邦人がモーセの五書を生きる事、神の記念日、シャバットや
祭りを祝う事をやめた理由は、ローマ帝国の迫害、重税、処刑
から逃げる!それが一番の理由だったのです。ユダヤ人と同じ
生き方=モーセの五書を生きて、レビ記23章の記念日を生きていれば異邦人とて、ユダヤ人とローマ帝国から見なされて、
重税、処刑をされてしまうから、だからモーセの五書を生きる
のを、異邦人はやめた、あなたは初めの愛=モーセの五書から
離れたと黙示録で警告された事をしたのです。それが異邦人が
モーセの五書から決別し別の教え=ローマ教の教えを生きる事に移行した本当の理由であるのに、神が神の記念日を歴史の途中で変え、ついでに呪いの律法モーセの五書を破棄した!などと言う
聖書のどこにも書いてないことが聖書の真実だと異邦人クリスチャンは言い続けているのです。
こう言う風に考えれば分かると思います。ジーザスを信じて
いるから、ローマに迫害されない方法で自分で信じていれば良いローマが反対するシャバットは祝わず、別の日に礼拝すれば良いだろうと言う認知的不協和をそう言う理由づけで解決すれば
良いからです。
しかし異邦人の中にも残りの民は存在していたのです。ローマ帝国の中でも、2世紀から5世紀の間でも多くの異邦人が、日曜日礼拝〜ローマ帝国の日を祝わず、シャバット=オリジナルの神の週一度の聖別された日=第七日目をガードして祝っていたのです。
ローマ教の影響、圧力が強まる中でも、大勢の異邦人が神の仰せに聞いて生きてシャバットを生きていたのです。その一方
ローマとアレキサンドリアの異邦人達は、シャバットは古いものであると言う西洋教父達の教えを聞き、シャバットを捨てたのです。神の声に聞き、生きることをやめたのです。
ローマでは、異邦人信者達が日曜日礼拝に移行したのは、
ローマ帝国の迫害のための反ユダヤ感情が炸裂したからであり、
そして、太陽神がローマ帝国の主の日であるからです。
異教徒の大衆庶民は日曜日礼拝を広く祝い馴染みがある日であったので、ローマ皇帝はローマ帝国支配を拡大するためにも、新しい宗教=ローマ教の記念日をローマ帝国の太陽神記念日=日曜日を礼拝日として採用する事を決め、321年のニカイア会議で
日曜礼拝を発布した、それが日曜日礼拝が定着し始めた
本当の理由なのです。政治と宗教が一体化し徹底され、ローマ帝国皇帝=コンスタンチヌスが法王として就任し治める様になったのです。ペテロがローマ・カトリックの長としてイエシュアから
命じられたと言う誤解をしていますが、イエシュアは西洋宗教=父の教え=婚姻契約=トラー=モーセの五書を破棄した別の
教えの宗教など作り出してもいないし、誰にも伝えてなどいないのです。
世界には、聖書では無い教え=人の思想を語るアイズジェシス
に満ちています。特に異邦人の語る西洋宗教の教え、教理、神学は、聖書に書かれていない人の創作した教えを根拠に語っていますから、聖書にだけ照らし合わせ、聖書に根拠のない又は聖書の記述を曲げた解説を退け、神の教え=トラー=モーセの五書、
聖書のどの箇所も終わり、無用、不要、破棄と言う教えこそが、神の霊ではないものから出た教えである!と言うシンプルな事実から聖書に書かれている事を土台に、その教えが聖書か否かを
はっきり見分ける必要があるのです。
神の言葉を曲げる、破棄する教えをすれば、どんな教えでも創作可能です。永遠不変、永遠に堅く立つ神の言葉ではなく、
変化する神の言葉なら、どんな教えにでも変化する事が可能に
なるからです。
レゴブロックで作る創作物と同じ。どんな箇所も取り外し可能で
別の物に改造し作り変える事が可能になるのです。神の言葉に
一点一画も差し引き付け足ししてはならない!その様な事が出来ない!と神が人に伝えているのに、異邦人の世界では神の言葉
否定ありき!の教えで全てを語るので、聖書の真実など語って
いない教えに変身してしまっています。
よくよく自分の頭で考えて、神が伝える永遠不変と言う神の言葉なのか、それとも人間が神の言葉に手をつけて神の言葉は今は
無用、異邦人には関係のない教え!と言っているのか、神の言葉だけに向き合い、自分の頭で考えてみれば良いのです。
私も信じた最初の最初からずっと疑問に思い、うまい具合に聖書とは違う教えを解説され教えられ、そして年月が経つうちに、
周りが皆信じて実践している事=神が支持している真理であると言う錯覚に陥って行ったのです。
世間一般で伝えられる教えはこうです。人種、時代ごとに変わる違う神の教え。大体異邦人とユダヤ人人種ごとに、時代ごとに
神の教えや神の記念日が異なると言う教えは、異邦人の思想で
あり、神の教えではないと言う聖書の事実を知らない人たちが
語る思想です。
そしてモーセの五書をイエシュア、使徒、パウロが教えていた事全世界へ福音を述べるとは、イエシュアの業=子羊の血で贖われ信仰により受け取る人は神のものとされる。義とされる。
死から救い出される、修復される、罪を許される。
1ヨハネでもある通り、二段階あるのです。
そして義とされた人達は、神の教え=トラー=モーセの五書に
書かれた神の創造された人間本来に生き方に戻る!と言うこれが
神を愛する、隣人を愛すると言う2つの言葉で網羅されているのです。
安息日が日曜日になった記録など聖書のどこにも無い、神の言葉に根拠の無い異邦人創作の教えです。そして、もし神が神の言葉記念日を変えると言うなら、神は嘘つき、不誠実な神になる。
言っている事=昨日も、今日も永遠に同じ、神の言葉は永遠に
堅く立つと言いながら違う事を言うまやかしの神になる。
創造の最初から全てやり直し、聖書を全部書き換えないとならない事実に気が付いていないのです。聖書に書いても無い事を
付け足すなら、別の聖書=契約書が存在しないとならないから
です。人が神との関係にある事実はモーセの五書=婚姻契約に
書かれた内容以外には根拠が無いからです。
続く