1ヨハネ モーセの五書を生きる人がイエシュアの中に留まる実態にある | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人の世界で語られる、2000年以降は神の言葉は廃れた

古い、無用、不要、異邦人クリスチャンとユダヤ人とでは神が違う教えを伝えている、違う記念日を祝い生きる様に変更になったと言い続けています。それらの教えは聖書ではありません。

 

昇天以降は異邦人が契約<なんの契約?>を受け取る代表にすげ替えられた<置換神学>とか、怒りの神、恵の神、時代ごとに

変化する神の教え、罪、聖別、義の基準、異邦人とユダヤ人とは別の教え、記念日を生きて、それぞれのグループは永遠に天と地と別の場所で永遠に生きる、異邦人は神の言葉=イエシュアが

語られた、父の教え=言葉=モーセの五書も生きる必要がないと説いた1世紀後半のマルキオンの思想と同じ事を述べたダービー<デイスペンセーション神学>、これらが、聖書に書かれた神の言葉、教えではないのにも関わらず、最大音量で異邦人クリスチャンの間では、変化する聖書=神の言葉と言う概念を常に教えられ続け、流通し続けているのです。

 

聖書に書かれた神の言葉にマッチしない教えは、どんな教えでも

例えどんなに著名な学者、教師、リーダーが語れども、それらは神の言葉が語る真実ではないので、自分の中から完全拒絶、排除しないとならないの教えなのです。

なぜ?それらは聖書で書かれているパン種=毒麦の種のたとえをイエシュアがされた、神の言葉ではない偽物の種=教えであり、

警戒すべき教えであり、イスラエルの神の教えではないからです。別の教え=神の伝える本来の命に繋がり生きる事を妨げるものであり、不真実な教えを教えられる事は、真実な生き方に繋がる事が出来ない教え、無駄、無用、無意味な生き方を、神が語る永遠不変の教え=真実を知らないまま、繋がれないまま、偽物を生きてしまうからです。

パン種は必ず粉のかたまりに影響を与え、偽の教えを膨らませ

続けてしまうのです。

嘘に浸る事程、害、無駄、不要な事はないのです。嘘の教えに基づき考えても、その中には神の真実は無い、神が伝える真実、

神の顔に出会えないままになります。半分嘘、半分本当=混ぜ物の教えが得に危ない!危険!と神が警告しているのです。熱い=本物か、冷たい=異物、ぬるい=混ぜ物は吐き出すと書いてある通りです。2種類別のタネを畑に蒔いてはならない、別種の毛で衣を編んではならない、別種の動物をかけ合わせてはならない=皆全て同じ教えです。神が伝える本物が現れ出ず混ざった偽物が現れ出てしまうからです。

 

福音書〜黙示録を読んでも、その中に書いてあるのは、

モーセの五書を生きている人達、神のオリジナルの記念日を

祝い、ユダヤ人の祭りであるプリム、ハヌカをイエシュアも

祝っていた記録であり、モーセの五書に書かれた神の教えや記念日祭りは1つも変わらないまま皆が生きている事しか聖書には

書かれていない。

はじめの愛=婚姻契約=シナイ山で与えられた契約書=モーセの五書から離れた人達への警告が聖書には書かれているのです。

それが預言書、歴史書の中で記されている神が警告する罪、

ズレです。

聖書に書いてある通り、神の言葉が意図する通りに聖書に書かれている内容を捉えて理解しないとならないのです。基本中の基本。人が創作した教えに聞き入っている事に気が付かないとならないのです。前回書いた聖書を異邦人思想に曲げたら辻褄合わないどころか、神の言葉を直に曲げている冒涜的事実に気が付く

はずです。

聖書のどの箇所も100%モーセの五書を語り、教え、解説していると言う永遠の真実だけに立って聖書を読めば、神が伝える

教え、真実、人の生き方が見えてきます。

 

ヨハネの手紙の中に書かれている内容も、モーセの五書に関して

人がどの様に生きているかを照らし合わせている内容です。

 

1ヨハネ 2:2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、

全世界の罪のためである。

2:3 もし、わたしたちが彼の戒め=トラー=モーセの五書を守る=ガードして生きるならば、それによって彼=イエシュアを

知っている神が提示する婚姻関係にある実態をを生きている

ことを悟るのである。

2:4 「彼を知っている」と言いながら、その戒め=モーセの五書に書かれた神の教えを守らない者は、偽り者であって、真理は

その人のうちにない。

2:5 しかし、彼の御言=モーセの五書守る者があれば、

その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。

それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。

2:6 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、

その人自身も歩くべきである。

 

聖書に書かれている内容、意味、著者が語る真実を見る必要が

あります。自分の想像、憶測、反モーセの五書と言う偏見を通して聖書を読むなら神が伝えている事実は見えません。聖書=その著者は神であり、神に著作権がある事を忘れず、勝手な解説

アイズジェシスをやめて、聖書に忠実に読む必要があります。

2節でイエシュアがされた業を話しています。

イエシュアの業で贖われた人、救い出された人は何を生きるのか

伝えています。

3節ではイエシュアを愛する、イエシュアを通してイスラエルの神の家族に加えられた人達は、モーセの五書をガードし、神が

伝える人間本来の生き方、神の子らの性質を生きると書いてあります。トラー=神の伝える教え=言葉=モーセの五書に書かれた

人間本来の生き方、性質を生きる事でイエシュアを知っている=

知る=ヤダ=夫婦関係にある深い知り方、関係の世界に留まり

生きている事はその人の生き方=神のトラーを生きているかで

証明されるものであると書いてあります。

4節は、イエシュアを知っています、愛していますと言いながら

神の教え、インストラクション=トラー=モーセの五書に書かれた神が伝える生き方をガードして生きないなら、その人は

偽り者であり、神の真理=真実は、トラーに反する生き方をする

人の中には無いと書いてあります。

イエシュアがマタイ7章で言われた事とぴったり同じです。

”不法=トラー無し=モーセの五書とは違う生き方をして

勝手に主の名を使い、あれこれ奇跡、不思議をしても、あなたはわたしは知らない=関係の世界には無い!出て行け!”と言う

厳しい言葉で表されているそれとぴったり同じ内容が4節に

書かれています。

5節では、モーセの五書=神の言葉をガードして生きているなら

その人のうちに神の愛=契約の愛=トラーに書かれた婚姻契約の

生き方=アハヴァが全うされると書いてあります。

そして、神の教えを生きる事こそ、その人の内側にある事実=

イエシュアの中に留まり生きている事を周りの人が知る、認知

する条件であると書いてあります。デイスペンセーション神学や

西洋教父たちは、神の言葉を生きる必要などないと教えますが

それは神が伝える真実とは全く違う事は聖書により証明されます。

6節では、イエシュアにある者は、イエシュアが歩かれた様に

その人自身も歩くべきであると書いてあります。

クリスチャンの世界では、WWJD ジーザスはどう生きる?行動する?と言いながら、イエシュアのされた、生きた父の教え=

モーセの五書を否定すると言う大矛盾を語って実践している事に気が付かないのです。イエシュアがモーセの五書を教え生きた

事実を聖書から読み取ってなどいないからです。モーセの五書を憎むように、神の言葉があたかも悪い事の様にまで教えている。

モーセの五書を生きる=恵を無駄にする生き方=律法主義!などと言うのです。律法主義の聖書の定義は、神の教えを生きる事と言う意味ではありません。神の前に行いにより義とされる、神に認められ報酬を貰うために努力する、ずれた行動をする事を律法主義と言うのです。異邦人の教えは、イエシュアはモーセの五書を破棄しに来て、別の新しい教えを唱えたなどと言う異邦人の

思想を語り、聖書を語っていないからです。

イエシュアがいつ、モーセの五書=父の教えに書かれた生き方を破棄し、別の教えを生きよと教えましたか?イエシュアがいつ

神の記念日シャバット、新月、春と秋の祭りを捨てて、ローマ、

西洋人が聖書が閉じた後2世紀以降作り出した別の教えや、

日曜日礼拝、イースター、クリスマスを祝う事に切り替えよと教えましたか?誰かがその文字に書かれた別の聖書=証拠を神から受け取ったのですか?

1世紀のイエシュア、使徒、パウロ、イスラエルと諸外国に居た

ユダヤ人、そしてユダヤ人、異邦人イエシュア信者は何を生きて

何の記念日を祝っていましたか?

モーセの五書です。1世紀当時の異邦人は、モーセの五書を理解していないので、信じた後もユダヤ人に教えられながら、神の

教えを学びシャバット、新月、春と秋の祭りを祝っていた記録が書かれているのです。パウロはシャバット=第七日目ごとにユダヤ人の会堂でトラーを教えていた記録だけが書かれています。

パウロが春の時期に祝ったのはイースターと言う祭りではなく、過越、種無しパンの7日間、初穂、穂を数える7週とシャブオートです。聖書に書いてある事実を無視、又は曲げてパウロが

1コリント5、11章で語る内容が過越の祭の晩餐、

そして種無しパンを食べる、その教えを教えているのに、

クリスチャンの世界ではパウロが月一度の日曜日に行われる

種ありパンの聖餐式の話をしていると読み違いをしているのです。1つ1つ異邦人の世界で教えられて来た聖書の読み込み、

不真実な教えを、聖書に書いてある事実通りに戻して、人の創作した思想=教えを全て破棄して、神が伝える永遠の真実から聖書を読まないと書いてある内容を曲げてしまうのです。そして他者へ、偽のイスラエルの神=偽のイエシュア像=神が変化し、教えも変えた!と言う聖書とは異なる宗教の教えを世界へ伝えて続けてしまう事はやめないとならないのです。

ここまで1ヨハネ2:2−6は、明らかに贖われた人は神の教え=トラー=モーセの五書に書かれた神が創造された神の似姿通りを生きると説明しているのです。そして7節の箇所を異邦人

クリスチャンの世界の教えでは、書いてある内容、事実を曲げて解説していると思います。

1ヨハネ 2:7 愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた

古い戒めである。

その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。

 

ここで著者は、はっきり新しい戒めではなく、最初から聞いて

いる戒め=神の教え=モーセの五書である事を書いています。

”切り抜き”と言う言葉がありますが、話の前後の文脈を無視して

”切り抜き”をして神の教えを解説すると、神が伝えている意図とは違う事を考え始めてしまいます。

そして、異邦人クリスチャンの頭脳の中には、モーセの五書=

古い、悪い、廃れた、無用と言う教えが最初からガッチリ支配していますから、その歪んだ教えからしか、聖書を眺める事が出来ない状態になっているのです。それらがイエシュアが語る、

いばら、おどろ、乾いた地、毒麦に妨害された地=頭脳として

イエシュアが警告しているのです。聖書を正しく書いてある意味通り、神の意図を汲み取るには、異邦人の世界で語る神の言葉をどの度合いでもどの箇所でも否定する教えのパン種を一掃しないとならないのです。

 

 

 

続く