トラーには福音の詳細が書いてある | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

モーセの五書は無用と言う教えを言う場合には、その中身が

イエシュアが語った=トラー、預言書、諸書はわたしが書いて

あると言う意味、そしてモーセの五書が人の生きる上での神の

教えの完全版が書かれている事、そして福音書にはタナック=

トラー預言書、諸書の短い解説を使徒達が書いたもの、福音書以降にはトラーとは違う教えなど1つも書かれていない事実がある

と言う事に全く気が付いていないまま、異邦人が語る思想を唱えていると言う事なのです。

詰まりモーセの五書をどの箇所でも否定するなら聖書に書かれた

教えは吹き飛び、神の言葉は成り立たないと言う事になるからです。

創世記はナレーション形式で、その中に神が選び出した人達の

人生、足跡、名前、場所、出来事を通してエデンの園を飛び出した人間がどんな風に本来の姿から離れて生きてしまい、どんな

問題を持つ様になり、本来の関係がどの様に壊れたかが書かれているのです。そして、どの様に神の声を聞き、神に出会い新生体験し、聖霊を内側に受けて、どの様に神の似姿を生きる事に修復するのかが書かれています。聖書の最初から福音が書かれているのです。イエシュアがアダムとエバがエデンの園を出てからも人々にずっと共に付いて来て、人と共に生きている記録がモーセの五書に記されています。

福音書以降に新しい深い教えが書かれているとクリスチャンの

世界では誤解されていますが、聖書の最初に全てが書かれていてその内容が神の教えの完全版であり、深いものであり、福音書以降はタナックの短い解説なので、その部分だけを読んでも、最初の部分に書いてある意味、内容や詳細は見えないのです。

トラーには様々な事柄で神の教えが表されています。イエシュア=木、岩、雲、火の柱神の移動式神殿、契約の板、至聖所にある神ご自身の臨在etc

アヴラハムもイエシュアに出会った。ヤコブも同じです。

イサクも同じ。ヨセフもモーセもダビデも同じです。どの箇所も福音=イエシュアにより新しい人とされ生きる内容が書かれています。

出エジプトは福音の書です。エデンの園を出た人が神の声を聞く

神に気が付く、そして神の声を受け取り義とされる=それらの人

が子羊の血を鴨居に塗り、死が過越したのです。どの時代のどの人種でもイエシュアの贖いの血=代価を受け取り信じる、その

実態は全く同じである!と言う事実が聖書には書いてあるのです。救い=イエシュアは1つであり、イエシュアが人が神と修復する道、命、真理だからです。イエシュア=トラー=言葉であると書かれているのです。

イエシュアの死=地上で表された事実と同じ実態なのです。

まだ見ぬもの、永遠の中にある神の完了の業をどの時代の人も

信じて受け取る人は生きたからです。

トラー=モーセの五書に書いてある内容は蜜で深いのです。

出エジプトの中には福音の詳細が盛りだくさんに書かれていて、

贖われた人の辿る全てが書かれています。福音を語る中心でも

あります。荒野での旅路は義とされた人の旅路と全く同じ内容が書かれているのです。

 

レビ記は”神の声を聞く” ヴァイクラ=神は呼ばわる。詰まり贖われた人が神の教えを聞いて生きる訓練がその中には書かれているのです。民数記も同じです。”バミッドヴァル”=荒野にてと言うヘブライ語のタイトルで民数記は呼ばれています。荒野で神の声を聞いて新しくされた人の旅路を過ごす、これは一人一人贖われて神の者とされた人の人生と重なる事が書いてあるのです。

出エジプトと重なる事が書かれいます。

イスラエルの旅路、荒野は5箇所のミドヴァルを旅するのです。

シュル、シン、シナイ、パラン、ジン、バスでその路線を旅しても地形の違いが見えます。平地、水の湧き出す場所、丘の様に高い場所、などなど。それぞれの地形、状態が違うのです。

荒野では、数キロ先の音が聞こえる場所です。神の知恵は深く

神は地形や土地の性質を通しても様々な事を教えているのです。

神の教えは絵画的言語であり、神の創造されたもの、地形や、

土地、創造物を通して神が教えているのです。家の鉢植えの植物に水をやるのをちょっと忘れて日照りの日中に見たらその葉は

うなだれて萎れた感じでした。慌てて水をやると途端にシャキンと上を向いて元気になりました。その様な姿を見て、水=生ける水で表される、植物も人も神のエッセンス=水=神の言葉が欠けた状態では生きられない、枯れる。人間の肉体も70%水で

出来ている。水と言う物質はとてもとても不思議なもので、

その研究を見ると神が居ると言う事を否定出来なくなるほどのものです。

ミドヴァルとは、荒野と訳されていますが、ミダベル〜神が話す

ダヴァル=言葉と言う意味で全部繋がっています。

人は奴隷=偽の神々、本来居るべき状態では無い所から贖い出されて、神の声=言葉を聞ける場所に連れ出されたのです。

その旅路はひどい旅路ではない。な〜にも分からない奴隷状態から出てきた人達は1から神の伝える神に造られた神の似姿の人=聖別された人の生き方を神から直接=神の言葉で教えられる必要があったからです。

荒野とは砂漠とは違います。砂漠は命を生み出さない、水も無いそこに留まれば死ぬしか無い場所ですが、荒野には命がふんだんに眠っています。湧き水もあります。雨が降る秋から春には

たくさんの植物が芽生えて来るのです。水=生ける水が通る場所には、命が芽生える、絵画的教育ツール、言語でもあります。

出エジプトした、奴隷から贖い出された。私達信じる者も偽の神々、偽の自己像、偽の人生目標、偽の価値基準やこの世の教え

の鎖を切られて神のものとなったと書かれています。

これらは、美しい言葉で書かれているのです。”婚姻”花嫁を娶る

言葉で書かれているのです。神のものとされた。あなた方を

取ってとは翻訳ではな〜にも感情が湧かない言葉ですがヘブライ語では違いが、その言葉で意味合い、感情、親密さが分かるのです。

 

出エジプト 6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、

わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。

19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、

あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。

19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。

全地はわたしの所有だからである。

神が呼ばわる=ヴァイクラと言うタイトルが付いたレビ記=聖別された人の生き方人間の生き方が書かれていて、荒野で神に教えられる数々の事が記されています。

申命記は、約束の地に入る前に再度神が伝える人の生き方、

神への関わり方の詳細が、”契約”の形式で再度繰り返し記されているものです。この契約書、トラーに書かれた言葉が婚姻用語である事から、神の契約書は”婚姻契約”である事が分かるのです。

申命記は中近東に実際に存在している国と国、簡単に言うと保護する立場、される側への約束、条約が書かれているものです。

詰まり神が人へ契約を与える、そして参加する人もその契約に

同意し生きる事を意味します。アヴラハムに与えられた契約は神からの一方的な保証契約です。義とされた事実は神からの無償の保証です。でも、婚姻契約は両者に責任があります。神は人への約束、保証を変えません。でも人はこの婚姻契約を生きる事を

破棄し続けた記録がイスラエルと言う国民を代表して聖書に書かれているのです。聖書にはこの婚姻契約の生き方以外の生き方

神との関係を提示する保証する別の生き方は書かれていません。それを異邦人の教えの世界では多大に誤解して解説しているのです。婚姻契約は人種別時代別の別物は存在しません。婚姻契約の中に示された神の子ら、神の性質に造られた人間の生き方をする、それが神との関係に入り生きる唯一の条件なのです。

これは別の記事にもう少し詳しく書いてみます。

神の人へ伝える人間の生き方の詳細、神への関わり、聖別の定義

義の定義、罪の定義の全てはモーセの五書に書かれているのです。それは変化しないものであると神は最初から伝えています。

異邦人が語る教えに沿って、神の言葉を曲げて実際に読んだら

まやかし不真実な教えペテンの様に聞こえる事に気が付きます。

神が永遠不変、わたしは主であると言い人に強調して教えている神の言葉、教えを、2000年以降無効になったと言うなら

聖書を丸ごと書き換えないとならないと言う事に全く気が付いていないのだと思います。神の創造の7日間もやり直し必要。

試しに異邦人が唱える様に神の言葉を塗り替え、言い換えて見れば”ギョッ”とする程酷い教えである事に気が付くと思います。

神が伝える言葉下矢印

イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。
ヤコブ1:17すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は
上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。
父には移り変わりや、移り行く影はありません。
民数記23:19 神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか。
ヘブル13:8 イエス・キリスト=神は、きのうも、きょうも、
いつまでも変ることがない。
1ヨハネ5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒め=トラーを
守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
出エジプト12:17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。
出エジプト20:8 安息日=第七日目を覚えて、これを聖とせよ。
 
異邦人クリスチャンの世界で唱えている教え下矢印
イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。そして、われわれの神の
言葉も途中で変わる。」。
ヤコブ1:17すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は
上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。
しかし父には移り変わりがあり、移り行く影があります。
民数記23:19 神は人のように偽ることがあり、また人の子のように悔いることもある。言ったことで、行わないことがあり、
語ったことで、しとげないことがある。
ヘブル13:8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、
いつまでも変ることがないと言うのは偽りであり、歴史の途中で怒りの神から恵の神へ変わった、歴史の途中で人種により罪の定義、聖別の定義、義の基準や教え、定義も変えた。

1ヨハネ5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることではなく、破棄する事である。それが恵の時代の生き方だからだ。そして、その戒めはむずかしいもの、呪いの律法であり、

今の時代の人が生きるべきものではない古い廃れた不要なもの

である。

出エジプト12:17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなくても良い。わたしの戒めを破棄しても良い。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したが、そんな事実を忘れてあなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならないと言う教えを却下する。

出エジプト20:8安息日=第七日目を却下して、これを聖=神が言われた通りに聖別せず、人が考えた、それぞれの思う日に

変更せよ。

この様に神の口から語られた教えを塗り替えた教えが神が伝える永遠の真理なのでしょうか?神の言われた言葉を途中で変更されたら、それは神が伝える永遠不変の言葉では無いと言う意味に

なり、神の発言に矛盾が生じます。

人間でも一度断言して、後にコロコロ変更したら、その人の言う

事は信頼出来なくなるのです。偽の神像を信じたら迷い出る。

本物の羊飼いの声を聞き分ける唯一の方法=神の永遠不変の言葉

教え、インストラクション=トラー=モーセの五書に書かれた

教えを深く理解し探求し続ける事以外にありません。

異邦人クリスチャンの世界で私が教えられて来た事、神の言葉を

否定、破棄、無用と言う言葉をそっくりそのまま神の言葉を

塗り替えて置き換えるととんでもない冒涜、著作権侵害、神の

権威を侵害している事がはっきりと見えてきます。

 

マラキ書から、福音書になる時代に、以前のトラーは破棄されましたなどと聖書のどこに書いてあるのでしょう?

全ては同じ教えの継続、それが永遠不変の神の言葉の永遠の真実なのです。

 

続く