過越の祭り=その日から7日間を種無しパンを食べる週、聖書では過越、除酵祭と訳されています。除酵祭も過越と言う言葉で
相互的に使われています。ペサフ=過越から始まる7日間は、
種ありパンを食べない週だからです。過越の最初の日は、セダーオーダー、順序と言う名が付いた儀式を通して、出エジプトで神がされた事、生きたの業と同じ内容を回想して祝う晩餐をするのです。イエシュアが渡される前の夜に祝ったのがこの過越の晩餐、セダーの晩餐です。そしてイエシュアは、過越を祝うたびに
イエシュアがされた業を皆で回想し、思い出してと遺言されました。その遺言を聞いて今日も生きるのです。そして神の記念日は
イスラエルの神、イエシュアに属するどんな人種、どの国に住んでいても永遠に祝われるべき神の記念日であると神は伝えています。人の作った別の教え、記念日を生きよ!と神は神の子らには
伝えていません。
7日間、イースト菌が入るものは食さない週です。何も知らない人が聞いたら、はてな?の教えですが、神の教えは深い意味、
真理、知恵に満ちているレッスンプランなのです。水を汲んで
かめに入れよ!と言う、聞いたら変と思うイエシュアの仰せを
その通りに実行した人達は、水がワインに変わった奇跡=しかも
極上のワインに変わった奇跡を目の当たりに体験しました。
神の言葉で、創造の体験、出現すると言う体験をしたのです。
神が伝える真理に耳を傾け聞き、その通りを生きる事をする事
それが神の似姿に似せて造られた人間の本来の生き方なのです。
そして種無しパン=マッツアを食べる事を通して、実際に新しい人を生きると言う事を深く教えている、神の知恵の集大成でもカスタムメードのレッスンなのです。毎日あなたはマッツアを言われ続け、それを考え続ける神がデザインした強化週間なのです。
神の教えを聞くのか?それとも拒絶し聞かないのか?それは個人の選択によります。でも神は今の時代は勝手になんでも生きて
良い自由を与えたなどとは1度も言ってません。太古、現在、未来と神が教えを変えると言う人間創作の教えを捨てて、神が提示する教え=トラー=モーセの五書は、変更不可である聖書の事実を認める=神に聞くと言う事をする事を選ぶのです。
人はなんでも勝手に生きてはだめ!神の言う通りを生きてと
神は初めから人に教えています。
命と死をあなたの前に置いた。命の木、善悪の知識の木を置いた
神が命を選びなさい!命の木からだけ食べなさい!神の言葉を
選択するのか、拒否するのか、その選択権だけが人に与えられているのです。そして神が言われる事とは違う事を選択して生きる
結末も神がちゃんと人に伝えているのです。神が何でも好きに
生きよなど人に言っている、それが恵の時代の生き方なのだと
言う人の教えと混同した考えを捨てないとならないのです。神は私達に、神の教えを取るか、拒絶するのか、その選択権だけを与えている!と言う事実だけに立つのです。今日神は一人一人に、”あなたは命を選びなさい=神の言う通りを生きなさい、
それが命であるから”と言う神の勧めを受け取り生きるのか、
それとも神の教えを拒絶して別物を生きるのか?その問いが
ずっと自分の前に毎秒置かれているのです。
神の教えは完全であり、人を命に、神に繋げるものであり、神の教えは人を厳しく見張り、罰するためにあるものではないのです。神の性質に造られた人の生き方を教えて下さっている道、
真理、命を教えられているだけです。
人は心に密かな反抗心があります。神の言われた通りになどしたくない、だから神の教えは無用、要らない、廃れたと言い続けて
いるのです。どうして、神の言葉を拒否する事が神の正義である
などと言うまやかしの教えを本気で信じているのか?どうして
異邦人=ローマが作った教えが正当であるなどと尊重する、考えて実行し、神の永遠不変の教えや記念日を恒久的に退けているのか?単純な疑問、不思議に気が付けば良いのです。自分は何を
生きて実行しているのか?その根拠を聖書から考え直したら、
真実に気が付けます。それはすべてプロパガンダに洗脳されているだけ!と気が付いたら、暗い部屋に明かりがつく様に、その
部屋はゴミだらけ=神に属さない人の創作した要らない物ばかりと気が付きます。
聖書だけに戻る。神の言葉は永遠不変と神が伝える通りに聞く。
出エジプト12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が
臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。<アイズジェシス=人の創作した教えは、代々、永久を
一時的、今は無用、異邦人には関係ないと勝手な解釈をする
神の言葉を否定したら神の伝える真理を知る事から遠のき、
離れる、別物の教えに導かれる>
12:15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみな
イスラエルから断たれるであろう。
12:16 かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。
12:17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。<イエシュアに贖われた人達は
もれなく出エジプトを経験している>それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。
12:18 正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。
12:19 七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、
すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。
神の教えを、馬鹿馬鹿しい教え、今は自分には無用と考える頭脳は、岩、おどろ、道端で表される悪い地=頭脳、その頭脳には、神の言葉=種は植らず、根ははらず、よって実、収穫が望めないとマタイ13章でイエシュアが語っている通りの結末になります。神の言葉を拒否、それがその人の神への態度であると言う
危険に気が付かないとなりません。又は別物の教えに浸り、それが神への忠誠、愛だと誤解している。神を愛する人は、神の言葉を愛して、神の言葉を生きる人!と聖書では教えています。
神の言葉に対する態度、それがその個人の神との関係のバロメーターになってしまいます。知らない間に神を退けている危険に気が付けば良いのです。神の言葉を退けるとは、神ご自身を退ける行為である!!!と言う聖書の事実に戻れば良いのです。
はじめの愛=モーセの五書から離れたとある通り、それは神の
祝福を失う行為だからです。申命記に書かれた刈り取るべき結末です。イスラエルへ言われた教えは、同時に異邦人=イスラエルの神、イエシュアに属する接ぎ木された人達=異邦人の生き方でもあるからです。イザヤ56章。
申命記30:19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命=神の言葉、教えを選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。
30:20 すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主に
つき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、
かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、
ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。
31:27 わたしはあなたのそむくことと、かたくななこととを
知っている。きょう、わたしが生きながらえて、あなたがたと
一緒にいる間ですら、あなたがたは主にそむいた。
ましてわたしが死んだあとはどんなであろう。
31:29 わたしは知っている。わたしが死んだのち、あなたがたは必ず悪い事をして、わたしが命じた道を離れる。そして後の日に災があなたがたに臨むであろう。これは主の悪と見られることを行い、あなたがたのすることをもって主を怒らせるからである」。
この7日間、イースト菌が入るものを食さないと神が教えています。パウロもコリントの人達に同じ事を教えています。
マッツア=要らないものがそぎ落とされた=新しい人=復活の命
に移行した事実から生きることを教えています。
異邦人クリスチャンの教えは、古い人=イエシュアと共に死んだ以前の自分=ズレた人=偽物の自己像を生きた人を強調して教えをする場合があります。でも神が人に伝えている事は、以前の自分=修正不可能なので、イエシュアと共に死に付したと伝えているのです。大事な事は以前の自分がどんなにズレているかと言う事実を神の前で知る事、でもそれは本当のあなたではない!と言う事実を同時に認識する事なのです。
主と共に死んだ=死んだ〜完全に消えた。でも記憶が頭脳に
残っているのです。だから新しい人の歩みを神が伝える本物の
自己像=マッツア=要らないものがそぎ落とされた人=主と共に復活した実態を得ているその事実から日々歩む、それをしなさいと神は教えているのです。
罪=ズレが何か、モーセの五書から罪の全貌、詳細を知れば、
ズレに敏感に気が付けます。神が伝える聖別を汚す事も神が
もっとも忌み嫌う罪である行為である事に気が付けます。
それらは、神の記念日を通して、人の生き方を通して、
食べる事、飲む事を通して教えているのです。
コロサイ 2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。パウロはレビ記を考えて話しています。
場所における聖別=レビ記1〜22章。その中に聖別を人が生きる事についての実際が書かれています。食べ物=11章に書かれています。そして、新月、祭り、シャバット=23章に書かれています。時を聖別して、イエシュアに属する人達は、神が聖別された時を祝い、生きると書かれているのです。パウロはコロサイでその事を話しているのです。パウロは100%モーセの五書を
話しているのです。その事に気が付かないのは、モーセの五書を
書いてある通りに学ばないからです。
そして、神の記念日、春の祭りに関して、過越の祭りをどう
祝うのか?パウロがコリントの人達へ教えています。
昇天以降1世紀に祝っていたのは、日曜日礼拝ではない、
イースター、クリスマスではない。
レビ記23章に書いてある神のオリジナルの記念日、シャバット
新月、春と秋の祭なのです。その事実が福音書、使徒行伝、
パウロの書簡など他の書簡にも書かれているのです。聖書の記述
事実を無視した人の創作解釈は聖書ではありません。
コリントに居たユダヤ人そして少数の異邦人へパウロはモーセの五書を通して教えているのです。
1コリント 5:6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。
あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者=マッツアなのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭=過越の祭り、種無しパンの祭りをしようではないか。
続く