昨晩過越の祭の初日と、そして週一度のシャバットが重なる日を
祝いました。春の祭りも秋の祭も準備期間中にイエシュアがされた業を巡り皆で回想し語り合い、考える強化週間でもあります。
聖書だけに戻ると、聖書に登場する人達が教えられている事は
モーセの五書であり、そして彼らが神に祝う様に教えられている
実践している記念日はレビ記23章だけです。これは預言的福音的要素を網羅する神がオリジナルに創造された記念日です。
そしてエステル記=プリム、ヨハネ5章と11章にある様に
イエシュアもユダヤ人の歴史で神がされた業を記念して祝った
記録があります。それらはプリムとハヌカの祭りです。
この二つの祭りはレビ記23章とは異なる性質の記念日です。
異邦人クリスチャンの世界では、昇天以降に神の教え=モーセの五書が廃止になり、レビ記23章に書かれている記念日を祝う事が終了したと教えられていますが、それらの教えは、アイズジェシスです。アイズジェシス=自分自身の前提、思想、偏見を通してオリジナルに書かれた聖書=神の言葉を内容を本来の意味とは違う事に変えて解釈する事を言います。異邦人クリスチャンの
世界では、1世紀後半から、異邦人西洋教父達により神の言葉を変形される思想、解釈、教えを伝授され浸透させて来ました。
でもそれは、実際には聖書の事実とは異なる事を人に伝えている事なのです。福音書以降には、モーセの五書とは異なる教えが出現し、書いてあると勘違いしている、この幻想を解くのは容易な事ではありません。なぜなら、進化論と同じ、嘘のなのに聖書にはそんな事など書いてもないのに、それが真実と思い込み、長い歴史何世紀にも渡り学者がそう語り、その仮説が浸透してしまえば嘘でも本当だと思い込む、そのカラクリと同じだからです。
聖書だけに戻れば、イエシュアが祝っていたのは、使徒達、パウロ、1世紀のユダヤ人、ユダヤ人イエシュア信者、少数の異邦人イエシュア信者が生きていたのは100%モーセの五書のみであり、祝っていた神の記念日はレビ記23章、シャバット、新月、春と秋の祭りなのです。
使徒行伝以降を読んでも、そこに書いてあるのは、第七日目の
シャバットを祝っている記録しかありません。日曜日礼拝などに変更されたなどとどこにも書かれてなどいない。そんな事をするなら、神は聖書の全てを書き換えなくてはならないと言う事実に気が付いて下さい。特にパウロはシャバットごとにユダヤ人の会堂でトラーを教えていたと書かれています。
1世紀当時はパリサイ派が主流であり、パウロも一生涯パリサイ派の流儀を生きていたのです。イエシュアもパリサイ派の流儀で
たとえ話を通してモーセの五書を教え、そして渡される前の晩の
過越の晩餐もパリサイ派の流儀で”セダー”の儀式をしていた
記録が書かれているのです。
1コリントでパウロが解説しているのは、過越の祭りをどの様に
どんな意識で祝うのかを教えているのです。1コリント11章を引用して、異邦人クリスチャンの世界は、月一度、種ありパンの聖餐式をしますが、パウロがしていたのは、過越の祭り、そして
種無しパンを食べる7日間を祝っているのです。違うのです。
パウロがいつ神の記念日=シャバットを祝うことを止める様に
教え、別の記念日を生きていた記録が聖書のどこに書いてあるのでしょう?そんな事一つも書かれていません。
そして過越の晩から3日目、種無しパンを食べる週の真ん中に
”初穂”=復活の命=新しくされた人である日を祝う日が創造の最初から神が設けて人に伝えているのです。
異邦人がはじめの愛=モーセの五書=神のオリジナルの教えから離れたのは、1世紀後半です。それまでは、誰一人異邦人=人間が神のオリジナル創作の記念日を変えて、後から創作した教えや、記念日などを生きる事に切り替えるなどと誰も考えもしなかったのです。その事実に気が付いて聖書に書いてある通りだけ
聖書に書かれた神の言葉の真実を知る事を始めないとならないのです。遺伝子組み換えの種を世の中に蒔いてはダメだからです。それは神のオリジナルとは異なるものであり、遺伝子組み換えは危険です。神は神の言葉が改造された教えや、別物の教えが混ざったものを人に伝える事を厳重に禁止警告をしています。人を
迷わせる、真実を知る事を妨げる間違った方向=人が創作した
宗教の教えに導いてしまうからです。
遺伝子組み換えの種と同じく、神の性質=本質が現れ出ないものは、イスラエルの神に属するものではないからです。
いくら人が神の言葉を変えても、それは本物ではなく偽物です。人が性別を外見を変えて変化を成し遂げようとしても、DNAは
決して変えられません。それと同じです。見かけはそれらしく見えても、本質と見かけがマッチしていないからです。そしてそれは命を生み出す事など決して出来ない。オリジナルの種=本来の種=本来の神の言葉、意味通りを学ぶ、考える、生きると言う事に切り替える、それが本当の悔い改めです。これはパン種の教えに繋がるものです。パン種=ハメッツとは、過越では、本来の
自分に属さない要素を教えているものです。マッツア=種無し
パンとは何で出来ていますか?小麦粉と水だけです。必要最低限のもの。神の性質に造られた人を表しています。そしてパン種=ハメッツは神に造られた本来の人間の性質ではないものを表すものです。それは自分ではない、要らない不要なものです。
本来の性質ではないものを取り入れる=そうすると別物に膨れ上がると言う教えです。
イエシュアに贖われ救い出されたと言う意味は、異邦人であれど
生物学的にユダヤ人の血筋ではなくとも、同じイスラエルの神の1大家族に加えられたと聖書には書かれているのです。イスラエルの神の大家族に加えられた人達は、イスラエルと同じ生き方をすると聖書には書かれています。独自の教えを好き勝手にそれぞれ好むところを生きて良いなど神は教えていないどころか、
神が言う通りを生きると神が伝えているのです。神が言う通り=それは神が人間を創造したから、人がどう生きるのかを詳細の
全てを正確に人に教えることが出来る唯一のお方だからです。
それを嫌だ!と思う場合は、別物=神が伝える聖別=天の祭司の生き方は出来ない事になってしまうのです。
出エジプトの中でそれがはっきりと教えられています。
出エジプトをした時、その夜急いで出る!パン種を置き去りにする。パン種で膨れ上がる時間はない。自分に属さない全てを置き去りにして命を再所有する旅に出る。その旅は、エジプトの偽の
神、主人、偽の自己像、嘘の生き方に完全決別。
そして、水をくぐり、荒野=ミッドヴァで、初めて神だけと向き合い、神の声を聞く訓練の日々を与えられるのです。荒野では
偽の声=サタンの嘘も囁かれる場所であったからです。
わたしの羊はわたしの声=神の言葉を聞き分けるとはそこにも
繋がっている内容なのです。神の言葉を聞く訓練を本当に受けているのか?偽の教えを聞き続けていると言うことは、神の声=本物の羊飼いの声を聞き分ける訓練を受けていない状態であると言う事でもあるのです。羊飼いの声とは、トラー=モーセの五書に
書かれた神の教えの事を指してイエシュアは話しているからです。羊飼いの声=イエシュアの肉声=それでは私たちはイエシュアの肉声など知らないし、顔さえ見たことがないのです。
そんなことを話しているのではない事はトラーを知る人なら
誰でも理解出来ます。失われたイスラエルの羊の元だけに遣わされた。イスラエルは羊ではないでしょう?でも羊飼いで表される
群れを導くお方=神=イエシュア、イエシュアに属するイスラエルの大家族のメンバー、その代表がまずユダヤ人であり、
ユダヤ人がまず代表として神のトラー=婚姻契約=神の教え=
モーセの五書を受け取り、人間がどう生きるのか?神にどう近づくのか?を世界へ教える代表者として選出されたので、神の教え
トラー=モーセの五書を継承して来たイスラエルの失われた
羊の元だけにまず遣わされたと言われたのです。
訳の分からない霊の声を耳元に聞く=羊飼いの声を聞き分けるなどと言う話などしてなどいないのです。
羊飼いの声=父の教え=モーセの五書=神の教えか、人の教えか
聞き分ける事をする=それがわたしの羊達の特徴であると言っているのです。だから神の教え=モーセの五書を捨てたら神の教えか人の創作した教えかの区別が付かなくなってしまう、現に区別が付かなくなり、アイズジェシスに聞き入り、それが昇天以降の新しい教えであるなどと勘違いしているのです。
福音書以降にはモーセの五書以外の新しい教えなど1つも無い!
と言う聖書の事実に気が付かなくては、神の語る真理は覆い隠されてしまいます。
エジプトでは偽、嘘の教えに囲まれて、本当の神の声を聞く事が
出来なかった、いわゆる神との蜜月の日々を送る旅に出発
したのです。出エジプトした今でも、嘘を聞き、嘘を食べ続けて
生きている事をしている事に気がつく、それが神の記念日から
記念日、シャバットからシャバット、そして春と秋の祭りを
生きる命のサイクルを生きる中で、様々に嘘=パン種=ハメッツ
自分の要素では無いものに気がつく、神特注の人生のレッスン
プランでもあるのです。
正に偽の神々、偽物教えetc etcに繋がれていた状態から解放された事実、それらは永遠からあるイエシュアの業により解放された事実を思い出す記念日、祭り、期間であるのです。
主の日とは、神のアポイントメントの季節、日です。
主の日とはレビ記23章に書かれた神が創造された記念日、
そして、神が特別な業をされる期間を指して聖書では主の日と
解説しています。主の日とは聖書では日曜日の事を指して話しているのではない!と言う聖書の定義=事実をまず知って下さい。
日本でも祭を準備する時、祭の随分前から準備し、町内会で皆が
集まり、会談し、色々な決め事をしたり、隣近所と交流を深めて
その楽しい祭の行事を楽しみに、その特別な記念日を待ち望むでしょう。印象深い、思い出に残るものです。
異教の神々の祭りとは違う神が創造された記念日、祭りも
準備と言う中で大事な事を神から教えられるのです。
毎日がシャバット、どの日も記念日で良いと語る異邦人創作の教え、それはパウロが語っている言葉を完全に誤解している
アイズジェシスをしているからです。神の使徒であるパウロが
神の記念日を否定したり、どの日でも自由に記念日などと教える訳などない!と言う聖書の事実に気がついて下さい。パウロが
100%モーセの五書に忠実である事は使徒21章のナジル人の
請願を通して世間へ表明している事実があるのです。
パウロがもし反モーセの五書、モーセの五書を否定した新しい
教えを編み出したら、それは100%偽預言者であり、死に値する罪に匹敵する、プラスパウロは神から遣わされた使徒ではないと言う事になる聖書の事実だけに立って考えてみれば真実が見えます。アイズジェシスを捨てる!異邦人創作の反モーセの五書ありきの教えを捨てたら、初めて神が語る永遠不変の真理が見えて来ます。
過越の祭りを”解放の季節”とユダヤ人は呼んでいます。
過越の祭りとは、私達を縛り付けているもの、それらは私達に属さないものであり、偽物からの解放を表すものが過越の祭りでも
あります。
異邦人が1世紀後半から創作し続けて来た様々な非聖書的な教えのせいで、神が人に伝えている真実が覆い隠されて来ました。
でも終わりの時に神は神の言葉の真実に気が付く事、神のオリジナルの教えが再び聞かれる時が来る事を預言しています。
詩篇78
神の言葉、教えから引き離すこと促す教えとは、人を神の本当の関係顔と顔を合わせる親しい関係から引き離し、神が伝える本来の自分の性質から引き離し、実家に属する事から引き離し、実家の生き方、記念日、祝いの祝福を人から奪う行為である!と言う
事実に気が付かないとならないのです。自分から宝を奪う教え!
神との本来の関係を結ぶことを妨害する障害物の教えです。
本物の羊飼いの声=神の教え、言葉、=トラーを聞いて生きるのか?それとも遺伝子組み換え=人の教え=混ぜ物=ハメッツ、
純粋な神の言葉の中に、別物を混ぜた混合物を生きるのか?
それを見分けるのは、聖書に戻る以外にないのです。
続く