マタイ13章 毒麦の種を蒔くものと天に属するイエシュアの教え良い麦の種を蒔くもの | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ13章は御国=神の国=神の性質を生きる神の子らで

構成されるものである事、神のトラーをたとえ話を通してイエシュアが解説しているものです。

 

そして畑に蒔かれた種は収穫を迎える、それは終末に関して語られているものでもあります。イエシュアはモーセの五書に書かれた教えを全てたとえ話を用いて説明しているものです。

 

イエシュアが教えられた事、福音書以降に書いてある事は

全て100%モーセの五書を語っているものであり、別物の今迄聞いた事もない新種の教えなどではないと言う事実があります。

もし異邦人クリスチャンの世界で語られる教えの様に、イエシュアや使徒達がモーセの五書=父の教えを否定した教え、又は

モーセの五書に反する教えをしたとするなら、それらは全て、

偽預言者、偽教師、偽救い主であると聖書には記されています。

その聖書に書かれた事実を無視しているので、異邦人の世界は

創作の教えのオンパレードになってしまっているのです。

繁栄成功、高揚奇跡不思議体験、預言者養成、etc etc etc

イエシュアの名前を利用したほぼカルト的な宗教に変身してしまっている教え=宗教が出現している事でも見えるでしょう。

 

そして、今や神の教えを否定し、自分が誰か不明=性別混乱した人達がパスターになり群れを教えるなどしている、そして人々も

それを正さないし当然のごとく受け入れている、本当に毒麦の種が堂々と蒔かれる事態に突入してしまったのです。神の教えに

反する生き方を悔い改めないで継続し続ける人達が群れのリーダーとなってはならないと聖書にははっきり書かれています。

羊の中に狼を入れる事と同じだから、純粋無垢な羊を破壊し汚染してしまうからです。

神の言葉を否定すると言う行為が聖書ではどんな大罪に値するものなのか?今一度聖書から考え直してみないとならないのです。

毒麦の種を蒔く=神の言葉が植えられた地から、その種=神の言葉を引き抜く作業をする、その様な作業はサタンがするものだと聖書には書かれています。しかも神の言葉を否定する事こそが

恵の時代の正義なる生き方だととんでもない嘘=毒麦の種を信じ

頭脳で温め続け、そして他者に伝え続けているのです。

そして、福音とは、モーセの五書、預言書に書かれているのです。神が永遠から用意した救済策、神の似姿に造られた人が

神の中=エデンから飛び出てしまった。別離の場所に入ってしまった状態を、イエシュアがその遠く離れた場所まで来て下さり、贖い出して下さった。藪の中に引っかかった羊を羊飼いが来て

救出して下さった絵画的教えでも分かります。

イエシュアが地上で見せられた業は、永遠から完了された業で

あり、2000年前に初めて有効になったのだと考えているなら、神の言葉、教え、イエシュアが解説しているモーセの五書の内容はぼんやりとしか見えない、いや神の言葉、真理を修正、

装飾、変形した教えに変身させてしまいます。

 

西洋神学の教えでは、この点がはっきり見えていないので、

2000年前に新しい教えが出現、新しい完全な救いが出現、

新しいグループ=教会と言う今までになかった異邦人が中心で

構成される神の家族が出現したと神の言葉を完全に勘違いして

いるのです。

古代の人は全てタナックからイエシュアを知っていた事実があります。イエシュアもそう伝えています。

ルカ24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、

説きあかされた。

24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて

24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを

受けて、三日目に死人の中からよみがえる。

24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。

聖書に聖書と書いてあったらそれらは100%、モーセの五書

預言書、諸書のみを指して話していると言う事実だけに立てば

イエシュアは100%タナックを指してご自身の全てが書いて

あるからそこを読めば分かるであろうと伝えている意味が

見えます。タナック以外の聖書をイエシュアは語っていません。

 

4世紀以降は、完全に異邦人単独のグループ=カトリックが出現し、ユダヤ人とそしてユダヤ人のトラー教師と、そしてはじめの愛=婚姻契約=トラー=神の教え=モーセの五書から異邦人は

完全決別し、西洋人が編み出した様々な教えを取り込んだ西洋

カトリック宗教に移行しました。それを教会と呼ぶならその

異邦人グループの名としてはふさわしいものだと思います。

でも聖書には、最初から1つの家族=カハール、エクレシアしか存在していな事が書かれています。

教会と言う造語と、その造語が伝統的に使われ続けて定着しているので、昇天以降は新しいグループが出現したと誤解、勘違いしているだけです。

翻訳トリックと言うものに覆われて、聖書に書かれた事実が見えていないだけです。車を枕と言い換えたら同じものとは思えない

別物であると認識する、それと同じ事です。

 

救いの方法は神の言葉によればたった1つしかなく、エデンの園から今までどの時代もどの人種も同じ方法でしか救いがないからです。それは”わたしが道であり真理であり命である”とイエシュアが言われました。道=人の生きる性質です。真理=神が伝える

人の性質です。命=神が造られた神の性質に似せられた命を

生きる事です。それらは全てモーセの五書に書かれた神の教えを生きる事です。モーセの五書=神の言葉=道、真理、命です。

”わたし=イエシュアを通してでなければ、誰も父の元に来る事が出来ない。”信仰によりそれを受け取り義とされ聖霊を受けて

新しく生まれ変わると言う状態を通してだけ可能である。

他の方法、他の贖い、救いや修復=許しなど無いからです。

途半端な一時的な人への救済策なども、神の中には存在などしていないのです。どの時代もどの人種にも同じ救いが用意されて

いる事が聖書には書かれているのです。

救いとはヘブライ語でイエシュアです。

異邦人クリスチャンの世界では、タナックに書かれたイエシュア=救いを詳しく学びません。読まないし、原書に書いてある

神の教え、言葉を満遍なく丁寧に教えられ学び続けると言う事は皆無に等しい状態です。もちろん、あれこれつまみだして切り抜きを学びますが、それでは何が書いてあるのか見えないのです。

1つの曲の途中だけ、切れ切れに取り出して聞いても全体としての曲は聞いた事にならないし、どんな曲なのかも分からないのと同じ事です。ジグゾーパズルのピースをところどころ繋げても

全体の図柄は見えないのです。

ノアも神のトラーを理解していたその時代の唯一の人であり

神のトラーに書かれた義を生きていたと書いてあります。

どうしてノアは神の教え=トラーを知っていたのですか?神が

エデンの園から口頭で伝えて来た同じ福音=同じ神のトラー=

教え、インストラクションが伝えられ続けて来たからです。

だから、太古は預言者を通して、同じトラーが語られ、そして

最後の時にイエシュア=肉体を取って地上に来られたトラーを

通して、伝えられたと書いてあります。

 

ヘブル1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時にいろいろな方法で、先祖たちに語られたが、

1:2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。

 

神は口頭で色々な方法で、預言者を通して同じ教え=福音を伝え

続けて来たのです。それを聞いた個人個人がどれ位理解していたか、それは差があるのです。聞く耳があるもの、見る目があるもの=神の言葉を理解する頭脳=良い地に種=神の言葉が蒔かれ

神の言葉がその人の内に根付いて生きた人=残りの民、聖徒たちがどの時代にも存在するのです。その人達をクリスチャンと言う1世紀時代に作られたあだ名で呼んでいないだけです。

聖書ではそれらの人を、残りの民、聖徒と呼んでいるのです。

メシアに付くもの=信仰により神の業を受け取り、神が伝える

イエシュア ハ マシアを理解していた人達が、他の人々に同じ

イエシュアを伝え続けて今に至るのです。

アヴラハムもイエシュアを知っていた事、そして神のトラーを

理解していた記述が書かれているのです。

アヴハムはその福音=神の教えを自分だけに留めておいたと

思いますか?周りの人達へ神の教えを伝え続け、神の子らの

生き方を生きて伝え、神の記念日を祝っていたのです。

 

ヨハネ8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を

見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

8:57 そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ

五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。

8:58 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。

 

アヴラハムは神に教えられイエシュアの実態を信仰により受け

取り義とされたのです。救いの方法は1つしかないからです。

現代の人と全く同じ、どの時代も同じ。

そして、アヴラハムがイエシュアを知る=ヤダ=体験的に知る

婚姻契約の中に居る知り方で知っていたと書かれています。

そして、イエシュアは、アヴラハムが生まれる前から、”居た”とは言わず、居ると言う言葉で書かれています。

ヘブライ語では、神の最も親しい名=יהוה‎ 4文字で表される

エホヴァ、ヤーウエなどと言われていますが、今現在実際太古にはどの様に発音していたか不明<一部のラビ達は裏で継承しているそうですが>の言葉なのです。

 

イエシュアの永遠の中に完了している業が未来の人へも知らされる、地上で実際にイエシュアを通して表される、その事実を見て喜んだとあります。そしてアヴラハムは不思議な大祭司に出会っている下りでもイエシュアを示唆している事が分かります。

そしてヘブル書に祭司制度の解説で、イエシュアは地上の神殿に

仕えるレビ族の祭司ではなく、天の神殿に属する大祭司である

事も明らかです。イエシュアはユダ族なので、地上の神殿に属さない、天の祭司である事が教えられているものでもあります。

地上=レビ族=天の神の家のレプリカに地上で仕え、目には

見えない、天に属する家族の生き方を教える役割を与えられた

部族です。イエシュアはその総括、大元、完全なる手本=

天の神の家の大祭司。

天で行われている現実を地上で正確に映し出す、それがエルサレムの神の神殿の役割、教育ツールとしてあるものなのです。

 

創世記14:18 その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。

 

ヘブル7:2 それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、

次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。

7:3 彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも

祭司なのである。

そして、救われた人達は何を生きると神が伝えていますか?

父の教え=神の口から出た一つ一つの言葉=トラー=モーセの

五書に書かれた神の口から出た一つ一つの言葉により生きると

神は言っているのです。その神の口から出た言葉を捨てよ!と

言う教え=毒麦の種を蒔く裏に居るのはサタンとイエシュアが

マタイ13章でも伝えているのです。

聖書を読めば様々に書かれていますが、テーマ、本質はシンプルです。エデンの園の敵の声=神の言葉、神が伝える教えから人の

意識をはぐらかす事をした。それには、毒麦=偽の教えの種と

本物の麦=本物の神の言葉教えの種を同時にエバとアダムの頭脳に放り込んだ。そして、その1つの出来事により人類に死が

入ったのです。

種とは、ヘブライ語では複合的であり1つの言葉で表される言葉です。これは説明が必要ですが、このヘブライ語の種と言う言葉から、そして神が一人の人アダムから、全ての人類を出現させた

事実から、人は1つとして繋がっている事実が表されています。その種は複合的に1つの集合体なのです。1つに繋がっている

人類だから、一人の人の違反=ズレ=パン種が全人類の中に入り込み、影響を受け、そして偽の姿=神の似姿からズレた生き方に

膨れ上がってしまったのです。シンプルな事実。だから、

神の言葉に毒麦=神の言われた教え、言葉では無い種の混ぜ物をしたら、人の中に別物、毒の種が植えられてしまうのです。

 

続く