マタイ 13:23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
これは、”種が蒔かれる地”のたとえ話で一番重要なレッスンが
書かれています。言うならば、神の言葉、教え=トラー=モーセの五書に書かれた教えを正しく聞き、捉え生きると言う1つの
根拠に基づく、大事な教訓をイエシュアが教えています。
ここで何度も何度も確認し続けないとならない事があります。
異邦人クリスチャンは、イエシュアや弟子やパウロがモーセの
五書とは別の教え、全く違う新しい教えをしているのだと教えられています。なぜなら呪いの律法=複雑で人の生きる事が出来ない教えから私達を解放するためにイエシュア来たと言う、聖書版
”ウルトラマン ウルトラの父を撃退するの巻”を教えられているからです。ここに書かれている”み言葉”とは100%モーセの
五書を指してイエシュアが話している事実を知れば聖書=
イエシュアが語る事、神の言葉の意味が見えてきます。何も複雑な教えなどではないのです。父の言葉を意味通り、天国バージョンの解説でイエシュアが語っているのです。人の解釈や解説や
考えではない、父の考えその通りを人々に伝えている。
はっきり聖書だけに基づき考えたら分かるはずです。イエシュアが地上に居られる時には福音書以降書かれてなどいません。
そして、イエシュアは100%モーセの五書=父の言葉を正しく教え伝えお手本を持って神の子の性質を生きる事を見せるために来たと言っています。2テモテ3:16で聖書の全ては聖霊に
より書かれたとあるその書は、モーセの五書、預言書、諸書のみを指して話しているのです。
もちろん福音書〜黙示録も霊感により書かれたものです。
そして、イエシュア=肉体を取って来られたトラーなのです。
ヨハネも、福音書に、トラー=神の教え、インストラクション=モーセの五書に書かれたものが肉体を取って来られたと冒頭に
書いてあるのは、ユダヤ人にはその意味が分かるからです。
父の言葉=シナイ山で与えられた文字で書かれたトラー=
婚姻契約=モーセの五書=イエシュアであると言う事。
聖書に登場する誰もモーセの五書以外の教えなどしていない、
別の教えや契約=そんなものはこの世、神の中に存在していない、使徒の書いた書簡も100%モーセの五書を解説し、どの箇所もモーセの五書=父の教えに反する教えなど書いてなどないのです。その事実から決してズレずに聖書を書いてある通りの意味で聖書を正しく読み直さないとならないのです。
神の言葉を正しく捉え、理解し、そしてその実態を実際に生きる事で、新しくされた人は御霊の実を内側に得て行くのです。
マタイ7:20 このように、あなたがたはその実によって彼らを
見わけるのである。とイエシュアが言われました。
良い地に蒔かれた種とは、神の言葉を聞いて、そして理解する人そしてその聞いた事を継続して生きて収穫を得る人の事が書かれています。”良い地”とは神の言葉=種を受け取る準備が出来ている事を意味します。11節に弟子達は、神の語る事実を”見ると
”聞く”と言う事が与えられていると書いてあります。
マタイ13:11 そこでイエスは答えて言われた、
”実”がなる=収穫を迎えるとは、純粋に神の言葉=種を受け取り生きている証拠、証明となります。神の言葉を聞いて生きるとは、どのくらいの実を得るのか、それはある人により違います。
その人がどれだけ神の言葉を知り神の性質に根付いて生きる事に
人生を費やしたかで違って来るからです。
でも、ここで語られる重要な要因は、”実”に付いて話している事は明らかです。
そして、そして”収穫”と言う事も同時に念頭に置く必要があります。他の3つの地に蒔かれた種は、収穫を迎えられない、長期間成長をサポートする事の出来ない状態の地でした。そして、
良い地に落ちた種だけは収穫に至るまで成長をサポート出来た
唯一の地でした。
この様に、実が成ると言うことは、純粋な信仰が存在している
証拠であるだけでなく、収穫を得るまでの不屈の信仰が継続し続けていると言う事でもあります。そして、終わりの時にそれらの実=行い、御霊の実を得ている事は、神により計られるもので
あると書かれています。ここで、救いの最終的段階=終わりの時の絵図が見えてくるのです。
このたとえ話の中では本当に大事な事が書かれています。
実りをもたらさない人造宗教の教えや、伝統で恒久化され語り続けられている非聖書的人造神学を保つと言う事に固執してはならない、又は人が作った伝統的に語り継がれる教えで満足していてはならないと言う事でもあります。
本当の福音=神がもたらしてくださった、イエシュアを通して
本物の自分=神の似姿にされた人を生きる実態=救われた人が
生きる本物の生き方の全貌、その中身、詳細はモーセの五書に
書かれているのです。それらは神の提示する愛=契約の愛の命に根付く生き方、そしてそれらは確実に”御霊の実”をもたらすものなのです。ヤコブ書に書いてある通りです。
ヤコブ1:21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。
1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
み言葉=モーセの五書に書かれた神の言葉、教えの事です。
神の言葉を2000年以降は、又は異邦人は、生きる必要がないと言った西洋教父達〜ダービーの様な教えは聖書が出所ではない神の教えではないことは聖書=神の言葉によれば明らかです。
マタイ13:24 また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。
13:25 人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて
立ち去った。
13:26 芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。
13:27 僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。
13:28 主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。
13:29 彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。
13:30 収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。
次のたとえ話、良い麦と毒麦の話は、この前のたとえ話のテーマ
主題とシンボルを引き続き同じ意味で解説しています。
タネを蒔くもの=種まき作業、種、農地、天の国、作物が成長するのを妨害する障害物、そして悪、サタン、敵。
より大事なことは、このたとえ話は、全てが神の王国に入るのでは無いにも関わらず、天の国に根付く勝利がある事を教えて
いるものです。蚊帳の外で過ごす、神の中=神との親しい関係に
無い状態の人が居るからです。
なぜ、神である救い主により神の力をご自身で表されているのに
ある人たちは、イエシュアをタナックに書かれた救い主と気が付かず拒否し、イエシュアが教えていたトラーの真髄を理解していないのでしょうか?
”不信仰”と言う悪に立ち向かわなくてはならないのです。
逆も然りです。イエシュア=トラーであると気が付かない事も
イエシュア=救い主=トラー、預言書に書かれた方であると気が付かない事と同じなのです。イエシュアを愛しますと言いながら
同時に神の教えを憎むなどあり得ないからです。神の教え、
インストラクションはトラーに書かれたものだけだからです。
神=言葉だからです。神の言葉を憎む、ないがしろにする
神を憎む、ないがしろにしている事になるからです。
神の言葉に基づかない自分よがりの信仰は無意味と書いてあるのです。神の伝える通りを生きるそれが神を愛する事だからです。
聖書の全ては100%トラー=モーセの五書を指して語っているのです。
不信仰が神の王国を建設する事を妨げているからです。
種を蒔くたとえ話で、ある人達は不信仰、そして、神の言葉を
受け取っても様々な妨害で種=神の言葉、教えが根付かない状態
です。別物の種を常に自分の頭脳に植え付け続け、その思想を
耕し続けているからです。道端に落ちた、岩地に教えた種、鳥が来て食べ、いばらやおどろに邪魔されて種が根付かず枯れる。
そのたとえ話の様にここでは、麦の育成を邪魔する目的で毒麦の種が敵により蒔かれてしまう事が書かれています。
両方のたとえ話は、”終末”=終わりの時の収穫、神の王国の勝利が実現する事、そしてこの最終的な勝利は、終わりの時の神の
審判まで据え置かれている事を意味しているものです。
イエシュアが地上に来られた。神の国はイエシュアを受け取る人の中にあると書いてある通り、神の国は神の言われた言葉を信じて受け取る人の中に到来している。
でも、まだそれが地上の全部で実現されていない。
ここで天の国と言う内容は、2つのたとえ話の中で使われて
いるものです。<からし種とパン種>
このたとえ話の中核は、”天の国”、種=神の言葉を蒔く。
27節では、人とはこの土地の所有者=神である。37節
人の子=イエシュア=神。
良い種とは、神の純粋な言葉であり、他の種との混ぜ物であってはならない。農夫はもちろん良い種だけを使い畑に蒔くのです。
もし、農夫が注意深く前年に収穫された種を選りすぐらなければ
良い種と悪い種の混合になってしまうのです。
ここで書かれている良い種と、そして敵により準備された悪い種=嘘の教えが蒔かれてしまっているのです。
そしてこの農地の所有者=神と、その農地に悪い種を蒔く敵として書かれています。ここで強く勧告されている教訓は、
福音=神の言葉は神の子らにより神の純粋な言葉通り、他の教えと混ぜ物をしていないものを世界へ生きて教えて伝える必要が
ある事です。そして他の種を蒔いてはならない。それらは”人の
作った教えとの混ぜ物を取り入れて世界へ伝えてはならない!”
多くの場合、人は神の言葉=教えの中に人が作った自分が考えた
自分創作のメッセージを入れて他者へ伝えています。
神の古い箇所の言葉は破棄された!と言う教えも毒麦の種=教えの代表的な例です。そして自分の教えを付け足して拡張し、人を救い主に導くためにより効果的成功をすると考えて色々な混ぜ物の教えを通して救い主を世界へ伝えてしまっているのです。
神が伝えているのはどの時代でも、どの人種でも同じ1つの
救いの方法=イエシュアを通して信仰により救われる事、
そしてそれは神の永遠不変の恵み、憐れみによるものであり
人の努力で獲得するものではないこと。そして神に救われ
贖われ新しくされた人は、神が伝える神の性質通りの人を生きる
その詳細がモーセの五書に書かれているのに、その詳細を捨てたら人はどう生きたら良いのか分からないと言うのは当然の事なのです。罪の定義の全貌、詳細さえ分からない。
神の言葉に人が勝手に創作した教えを付け足したものを世界へ
伝えるとは、このたとえ話にある通りに”異物の悪い種”それこそ
サタンが人に本当の福音=純粋な神の言葉を知る事を妨害している毒麦の種を神の所有の畑=人々の頭脳に蒔く行為に加担して
いるのです。農地の所有者=神が望む通りを神の子らは行わなくてはならないのです。良い種=神の純粋な言葉は神ご自身が蒔いているものです。神は神の言葉は呪いの律法で途中で変化した、廃れたなどと言うわけないし言ってなどいません。そして私達はイエシュアの足跡=神の教えを辿り歩む事を神に教えられているのです。福音を人に伝える時、それは純粋な神の言葉を伝えているのでしょうか?それとも、異邦人が創作した神の言葉を否定したり、削除したり変形させた教えを人に蒔いているのでしょうか?そして、同時に神が神の言葉で人々に伝える神の子らの生き方、トラーに書かれた永遠不変の神の言葉、教え通りの生き方を日々しているのでしょうか?個人個人が聖書から真実を読み取り
何を生きているのか吟味しないとならないのです。
知らない間に毒麦=別の教えのタネを自分の中に蒔いているかもしれないからです。毒麦の種=神の教えではないものです。
敵が来て毒麦の種を麦の中に蒔くのは、農作業をする人達が
眠っている時です。
眠っている状態=神の言葉に注意を払わない状態です。
目覚めていなさいとは、神の語る神の言葉、教えに常に注意を
払って生きていなさいと言う警告なのです。私は信じた初めからずっと異邦人の創作した教え、神の言葉=古い、終わり、無効、無用と言う土台の教えだけを聞き続けて来ました。
それってこのたとえ話と比べたら、神が警告している事なのに、警告しているそのもの=毒麦の種も同時に自分の頭脳に蒔き、神の純粋な言葉=良い種を除外していた行為をしていたのだと気が付きました。だから聖書に書かれている事が見えない、真実の点と点が繋がらない、実際に何を生きたらいいのかごっそり抜けていました。
続く