マタイ13章の中で、麦の中に毒麦の種を蒔くたとえ話を
イエシュアがされました。同じ畑に蒔く2種類の種、毒麦と
良い麦と表現しています。これはモーセの五書にぴったり
繋がる教えでもあります。どの箇所に繋がりますか?
同じ畑に別種の種を蒔いてはならないと言う教えをしています。その教えに繋がるものです。イエシュアは100%モーセの五書に書かれた父の教えから全てを話していると言う事実を念頭から常に離さないで、そしてイエシュアは勝手な教えを作り出して
語っているのではなく、モーセの五書の中にある何かの教えを、たとえ話の教訓として語っていると言う事も知らないとならない事実なのです。
レビ記19:19 あなたがたはわたしの定めを守らなければならない。あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。あなたの畑に二種の種をまいてはならない。二種の糸の混ぜ織りの衣服を
これら全て、神の創造されたそれぞれの性質とは異なるものを
混ぜ合わせない事、そして、それぞれの種にはそれぞれの目的があるので両者を掛け合わせてはならない事を教えています。
神の教えと異邦人が勝手に創作した非聖書的教えを神の言葉と
してはならない。
これは物理的にも肉体的にもそして霊的にも全くぴったり合った
教えです。そして、レビ記11章にもある食べ物の教えの教えも
全く同じです。神がデザインされた人間が食する食べ物を食べることが最も最適理にかなう事。神が人の食べ物として創造されたものではないものを食べる事は物理的肉体的にも反する事で
不具合が生じる。それは即座には見えないけれど、必ず弊害が
あるのです。命の木と知識の木の実と同じです。すぐには死なない。これは別の時に解説しますが、人が神言われた食べ物ではない動物と交わると、自然界に無いウイルスが発生する事が知られています。動物と人間の間に行き来するウイルスなど、その様な
行為をしなければ、出現しないからです。動物と交わる事も同じだそうです。レビ記18:23危ない。神が言われる事、教えている事には意味があります。人間がそれを無視しているので、
神が教えている意味を理解していないだけなのです。
毒麦のたとえは、毒麦=神の言葉が頭脳に根付く事を妨害する
神の教えとは別物の教えの事です。
以下がイエシュアが語られている内容であり、神の国とそして
終末に関して語られているものです。
種を蒔く人、畑の所有者=人の子=救い主、イエシュア
畑=この世=神の国、私達の既存の世界
良い種=神の国の性質を神の言葉通に純粋に生きる人達
毒麦=”悪に属するもの、悪を働く者”
敵=悪魔
収穫=終末、最後の時の審判
このたとえ話は、イエシュアの信者だけに留まらず、
”地”とは、良い種と悪い種両方蒔かれる地です。
予測しなくてはならないのは、ある時まで、ある人々は純粋な
信仰を持っている様に見えるのですが、最後には実は中身の無い
見せかけ、偽物を生きていたと明らかになる人がいると書かれています。その基準となる尺度は、御霊の実であると書かれています。マタイの7:22ー23で書かれている事に繋がります。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって
『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したでは
ありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法=トラー=父の教え=モーセの五書に書かれた神の言葉、教え、インストラクションを無視して、
働く者どもよ、行ってしまえ』。
知らない=神の提示した婚姻関係を生きないなら、婚姻関係の中にある関係ではない=知らないと書いてあるのです。
そしてこれは黙示録の警告と全く同じです。
黙示録2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。
あなたは初めの愛=トラー=婚姻契約=モーセの五書から離れて
しまった。<離れた=不法=トラー無しになった>
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざ=モーセの五書に書かれた神の教え通りを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
ここで書かれているのは、神の教えをやっていると自負する
人達へ、それらは神の教えに反する事をやっている、
神の御名を利用して、自分勝手な教えをやっている、
生きている宗教のコミュニテイの事が書かれています。
それらの人々は驚くのです。そんな事言われるなんて〜!と。
でも、”トラー無し”神の教えインストラクション=モーセの五書に書かれた意図とは違う事を信じ、教え、やっている!と
イエシュアに言われてしまうからです。
ショッキングなイエシュアからの通達です。自分達はイエシュアのためにあれこれそれこれ様々に全てあなたの名を語りやって
来ましたと言っているのに、なんでイエシュアにあなたは私と
何の関係の中にも居ない!と言われてしまったからです。
でも、このたとえ話の主旨、最も重要なメッセージは、
たくさんの未解決の疑問を残すものです。
誰が毒麦の種なのか?毒麦はどこまで黙認されてその状態を保ち
続けるのか?もし、毒麦がはびこるならその限界はいつまでか?
純粋に神の教えを生きるコミュニティに対してどの様な影響をもたらす事が出来るのか?間違ったことを生きる人=毒麦は純粋な神の家族にどれほど悪影響をもたらすのか?
この地上で生きて、それらのコミュニテイは、この世のコミュニテイが存在する事とは、どう折り合うのか、どこでそれらと
離れると神は教えているのか?
このイエシュアのたとえ話から、個人として、コミュニテイとして、どの様な事をこのたとえ話から教えられているのでしょう。
それは明らかに書かれています。
種=神の言葉、教えを人々に蒔いた後、毒麦=神の言葉、
教えではないものを蒔く存在が居ることは明らかなのです。
この事実から、敵は信仰のコミュニテイの中で、人々が支持している存在、その役割である人から純粋な神の言葉を奪おうと
しているのです。そうすればコミュニテイ全体に悪影響を及ぼせるからです。
収穫の時=終わりの時が来るまで、個人の中にある”実”は見極められない、評価されないままになります。
イエシュアは、毒麦を例えるとこうなると言われました。
収穫が来るまで、ある毒麦=偽物の信者は、麦の様=本物の信者の様で見分けが付かないほど似ていると言う事を弟子たちに
考えさせている、思い出させているのです。
これらを、忍耐深く待つ、イエシュアがイスカリオテユダに対しても忍耐深くあった様に、ユダは麦の中に存在した毒麦だった
からです。でもこの忍耐は自己満足であってはならないのです。
このたとえ話のポイントは、麦によく似た毒麦は実り、収穫を
迎えるまで麦と全く見分けが付かないと言うものなのです。
毒麦は、いばらやおどろの様に早くからはっきりと見分けがつくものではないから、毒麦を引き抜こうとして麦まで誤って抜いて
しまうかもしれないのです。
だからイエシュアはこう教えられました。もし毒麦がこれらを
聞く事を拒否するかもしれないので、イエシュアは弟子たちだけに、後に奥義、事実をはっきりと伝えたのです。
マタイ18:17 もし彼らの言うことを聞かないなら、エクレシア=カハール、神の群れに申し出なさい。もし神の群れ=エクレシアの言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。
ここで語られている事は、神の教え=言葉を拒否する事、
そして神の教えを勘違いして違う事を教え、生きている事への
警告なのです。神に仕えている、神を礼拝していると自負している人達へ、イエシュアは”あなたを知らない!”と言われたのは
どうしてか?不法を行う。不=無し 法=ノモス=神の言葉
トラー=モーセの五書とは違う事をやっている人達は私のものではないし、関係ない!とイエシュアにはっきりと言われて
その人達はショックを受けたのです。なぜなら自負=自分達は
神の教えをやっていると考えていたからです。
1コリント5:11 しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と
呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、
人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。
5:12 外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。
外の人たちは、神がさばくのである。
テトス3:10 異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。
3:11 たしかに、こういう人たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである。
どうして異邦人クリスチャンの世界はこんなにも多様な教えや
宗派、グループになってしまったのかのヒントがここに書かれて
います。混ぜ物の教えは、神の言葉や教えではない教えを
創作する温床になるからです。
聖書を引用しながら、多くの著名スピーカー、聖書教師が
神の言葉に混ぜ物=毒麦のタネ=人の教えの調味料を加えながら、様々な流行の教えを編み出し続けて来ました。
他の宗教=異教の神々に仕える意識と何ら変わらない、
偶像に供え物すれば、偶像は喜び、言う事を聞いてくれるかも。
神々を自分達が転がして、神々をコントロールする事、
それは、クリスチャンの世界では、自分の祈りで神が願いを叶えてくれるまで執拗に祈る、たくさんお捧げすれば10倍返し?
その様な神の教えでもなんでも無いものに変形する事も出来るでしょう。
神の伝える、神が教える人間の生き方を捨てる、それは神の教えは今は無効と言う教えです。神の教えを捨てたら、
福音書〜黙示録だけ読んでいても、実際に日常生活の中で人は
どの様に、何をどんな性質を生きるのかの詳細は見えません。
なぜなら、礼拝や、祈りや、神への近づき方や、罪の詳細や
神が定義する聖別の姿、意味は、タナックに詳しく書かれているからです。それを知らないなら見えない数々があるのです。
混ぜ物の種の教えの通り、神がどんなものを忌み嫌うのか、
モーセの五書に書かれた教えを捨てたら、神が最も忌み嫌うと
言うことを平気でしてしまう事が出来ますし、神が忌み嫌う
汚れが何かに全く気が付かないまま行くのは当然です。
神のインストラクションを捨てたら分からなくなる!と書いてあ
り、普通に理解出来る事だからです。
皆が1900年近くやっているから、それが神の教える教えや
真理になるのではないのです。神の言葉に書かれた純粋な神の
教え=神の口から出た1つ1つの言葉により生きるのが
神の造られた人間の性質であるのに、それらを捨てよ!とは
一体その教えの出所は何?と考えたら良いのです。
でも四六時中その教えを刷り込まれ、伝統により継承され実践されて来た事柄は、あたかも神の教えであると錯覚してしまうものです。トラー、歴史書、預言書などを読めば、どんな事を神が
警告しているのかはっきりと理解出来るはずです。
続く