マタイ12:22〜32 悪霊同士が分裂しない様に神が神の言葉教えに敵対など出来ない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音書に書かれているのは、トラーが肉体を取って地上に来られた、神の創造されたオリジナルの人間の性質=トラー=モーセの五書に書かれた神の性質通りの人間の生き方を地上で生きた

イエシュアの記録が書かれているものです。

 

その中に書かれているイエシュアが語られた教えは100%

父の言葉=教え=トラー=モーセの五書のみです。

この点を多くの異邦人クリスチャンは完全に誤解しています。

以下の非聖書的教えを、異邦人クリスチャンの世界では教えられ

ていると思います。下矢印

 

1 イエシュアが地上に来られた後、神がモーセの五書を破棄し    そして今迄に存在しない教えを初めて伝えた。

2 新しい神の家族=教会と言うものを初めて作った。

3 聖霊が初めて人の中に下った。

4 人が初めて救いを受けた。

5 置換進学では、異邦人が新しい契約=モーセの五書=

シナイ山で与えられた婚姻契約以外の新しい契約=存在なども

していないものを受け取ったと言う。聖書のどこにモーセの五書以外の契約書を渡されたなどと言う、そんな記事が書かれて

いますか?そんな事などどこにも書いてないです

異邦人が新しい契約を受け取る代表者となりこれを教会時代

<デイスペンセーション神学>であると主張している。

 

簡単に言うとこの様な思想を土台に異邦人クリスチャンは福音書以降を読んでいると思うのです。これら上記した全て、聖書に

基づけば事実とは全く異なる異邦人創作の思想、空想、教理、

神学でしかないのです。

この様な人間の思想を土台に聖書を読んでしまったら神の語る

永遠不変の真理、神の言葉の真実を見る妨害をされてしまっている事に気が付く事さえ出来ないのです。

 

以下の箇所を読み続けても理解出来ると思います。

 

マタイ12:22 そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを

連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、

また目が見えるようにされた。

12:23 すると群衆はみな驚いて言った、

「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。

 

イエシュアが悪霊に憑かれた盲人でありおしである人を

癒された時の人々のリアクションが書かれています。

 

そしてある人達は、イエシュアがされた業は聖霊によるものである、イエシュアが約束の救い主=ダビデの家系から出るイスラエルの王であり救い主ではないか!?と気が付き始めたくだりが

書かれています。

そして一方の人達は、イエシュアがタナックに書かれった救い主である事実に気が付かない盲目状態の人達=ある一部のパリサイ派の言動が書かれています。

 

マタイ12:24 しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。

 12:25 イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、

「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や

家は立ち行かない。

 

イエシュアは、神であられるお方だったので、パリサイ派の人達が言った言葉に対して、彼らの内側を見抜いて事実を述べています。

ある人々は、イエシュアが悪霊により悪霊を追い出された!と

言っていますね。

12:26 もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。

 

内部で分かれ争う国は自滅し、争う家は立ち行かないと

イエシュアは言われました。

異邦人の世界の教え=神が神のご自分で発した言葉=

モーセの五書に敵対する教えをし、モーセの五書を廃止した!

そんな神の国は立ち行かない。

そんな矛盾した教えを聖書であると語るのが異邦人の神の言葉を曲げた教えの数々である事と全く同質の事をイエシュアが

ここで語っているのです。あれと同じです。ウルトラマン太郎、

ウルトラの父を撃退する。いやその逆で、バルタン星人、

ネロンガ、ベムラーと言うウルトラマンの敵である怪獣同士が

内部分裂、内部紛争、仲間割れ、仲間内で攻撃する事と同じで

ある事を言っているのです。

 

12:27 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。

だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。

 

内部紛争の矛盾をそのままイエシュアが言っています。

神が神に対して、神の永遠不変の言葉に対して否定し、

撃退し破棄する!?そんなことなどあり得ないのと同じ。

悪霊が悪霊を追い出す?そんな事などあり得ない!

悪霊が悪霊を追い出すわけないだろう!神が神の永遠不変の

言葉、神の性質を変化させるわけなど到底あり得ない事なのに

そんな嘘、まやかしをどうして本気で言い続け、信じ続けるのでしょうか?と言う事に繋がります。

 

 12:28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

 

神の霊=聖霊=言葉全部1つで同じ性質なのです。

神の言葉は聖霊により書かれているのです。

神イコール言葉と聖書には書いてあるのです。

神の言葉で世界の全てが創造され出現したのです。

神=言葉=神の実態は1つだからです。

よくよく聖書の事実=神の語る神の性質、言葉、実態にだけ

基づき考えれば、イエシュアが父の言葉=トラー=モーセの五書を否定して別の新しい教えなどするなど10000%あり得ない!と言う聖書の事実だけに基づき考えないとならないのです。

 

ある人達が考えていた空想=悪霊が悪霊を追い出す。

神が神の言葉を否定し、追い出し、破棄する!と言う異邦人発想

そんな馬鹿げた教えに変身させてしまうからです。

 

12:29 まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、

どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。

 

悪霊が悪霊を縛るわけないだろう。神が神を縛り逮捕し、

投獄するわけないだろう。逆も然りです。

 

12:30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。

 

わたしの味方=わたしに反対するとは、まさに神の言葉に

真っ向から否定し、反対する行為である!と言う事です。

神の言葉を行動に移して生きるそれが神の教えだからです。

神を愛すると言いながら、神に敵対し妨害する事をしてしまう事は可能です。神の言葉のどの箇所をも否定する人の教えを

神の教えだと信じてしまえばそれをしてしまうのです。

そして、その様な教えをする人は、神の国=神の性質を生きる

家族を集めるのではなく、散らすものと書いてあります。

神の教え=性質を生きるな!と言う発言、思想は、神の子らを

散らし別物の教えを生きる事=なんでも好きに生きて良い。

今は神の教えは終わったから、その様な教えは神から出た教えなどであるわけがないのです。逆を神がずっと伝えて続けています。寝ても、冷めても、常に神の教え=トラーを考え生きて

神の言葉から離れるな!と。

 

マタイ12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、

その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。

しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。

12:32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるで

あろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、

きたるべき世でも、ゆるされることはない。

 

この場面では、聖霊=神の性質が実際に目に見える形、

癒しの業で表われ出ました。イエシュアが癒されたのに、

それが悪霊から出たものであると言ったのです。

神の性質=業の事実を否定したのです。

 

罪=ズレは許される、神を汚す言葉も許されるとあります。

寛容に神は人を許される事実を述べているからです。

でも神の言葉を見下す、蔑ろにする、軽蔑するそれらの行為に

対して厳しい処分があると神は伝えています。

 

民数記15:30 しかし、国に生れた者でも、他国の人でも、故意に罪を犯す者は主を汚すもので、その人は民のうちから断たれなければならない。

15:31 彼は主の言葉を侮り、その戒めを破ったのであるから、

必ず断たれ、その罪を負わなければならない』」。

 

侮り=バザ 嫌悪、不賛成、軽蔑、蔑ろにする、見下す

これらは、許されない。エデンの園に居た地を這う動物が

した事は許されない事に繋がります。

 

神の言葉を、曲げた、混ぜた、蔑ろにする様に人に伝えた!

聖霊=言葉だからです。神の業=聖霊=言葉、一体なのです。

この神の警告を蔑ろにすることは危険な事なのです。

 

どうして人間が神の言葉を終了と宣言し、人に神の言葉に注意を払う事から意識をはぐらかせ、神の言葉は終わりなので無用!

などと言うことが神に対する敬意、尊敬、愛であると考えること

がどうして出来るのでしょう?神の言うことに敬意、注意を

払わず、侮る、軽蔑、蔑ろ、無視すること、これほど酷い事は

ないからです。自分を損なってしまう事に繋がるからです。

 

聖書のどの箇所も、神の永遠不変の神の言葉=教えであると言う

認識が無い思想を土台に学べば、ここに書かれている通り、

神の言葉、教えを侮り、軽視し、注意も払わず、伝統で語り継がれる宗教=人の編み出した教えに聞き入り、別物の性質を

生きてしまうと言う危険が潜んでいる事への注意勧告でもあるのです。

そしてここに登場する、イエシュアに対して挑戦していたある

1部のパリサイ派は、学者クラスであり、そして彼らの伝統の

教え、彼ら流のモーセの五書の解説で様々なルール、教えを編み出し、それを人に生きる様に教えていた人達です。

詰まり、頭が固い=12弟子達の様に、一般庶民では無い

学者では無い人達は、その様な宗教グループの教えに染まって

いないので、イエシュアが語る真理に素直に心開いて聞こう、

知ろうとしてイエシュアの周りに集まったのです。

 

でも学者教師と呼ばれる立場の人達は、常日頃その様な教えを

言い続け、教え続け、その教えだけを考え続けている、だから

それらが真実では無い、神の教えの実態からずれていても考え

直すと言うことを出来ない、しない人達なのです。

教師だから、正しいことを教えている!と言う自負がある。

しかも、この聖書に登場するパリサイ派の人々はトラー学者で

あり現代の異邦人クリスチャンの様に、モーセの五書=神の教えを否定などしない人達ではあるのです。彼らが囚われていたのは、自分達の間に流通して教えられた伝統のモーセの五書の

解釈、生き方、流儀や儀式をやらないとならない!と思っていたのです。

現代の異邦人クリスチャンは、モーセの五書を生きる事は

古い教え=律法に戻る!恵のない生き方に戻る!それらを神が

生きない様に教えてるなどと考えているのです。

 

神の教えを否定する教えこそが危険な教え!と本当に気が付かないと、聖書に書いてあることが見えません。

 

 

続く