マタイ12:9〜 イエシュアが教えられ実行されていた事は100%モーセの五書のみ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ12:8 人の子は安息日の主である」。

12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。

 

聖書の記述を絶対に曲げないで書いてある通りに考えてみます。

伝統により語り継がれた異邦人創作の教えを通して聖書を読む事をやめれば、書いてある通りに素直に受け取る事が出来ます。

 

イエシュア、弟子たち、パウロ、1世紀の信者達、ユダヤ人

極少数の異邦人は、何を生きていましたか?

彼らの教科書=聖書は何ですか?モーセの五書です。

モーセの五書、預言書、諸書のみしか存在していない、モーセの五書以外の新しい教えをイエシュアが教えているなどと言う

とんでも無い誤解した飛躍の発想をする人など聖書には誰一人として存在しなかった!と言う事実から聖書を読み直して下さい。

 

この箇所、説明が長くなるので省きますが、ルカの中に書かれている同じ箇所には、たった1度だけ福音書の中で使われている

ギリシャ語が入っています。デユウテロ=第二のそしてプロトス=最初 。シャバットが2つ続くと言う事はこの時期は春の過越の祭りからの7日間、種無しパンを食べる週である可能性があります。そして祭りの時期は家には親族、訪問客が多く居るので、食べ物が十分ではない場合、外の畑に行って穂を積んで食べて

いた他の人達も居たと言う事とも繋がります。

 

それはさておき、聖書には、シャバット=第七日目、そして

過越の祭りを祝う週には、初穂を祝う日=復活の命を表す日が

あります。聖書では、イースターや日曜日礼拝をしていません。

彼らが祝って居たのは、福音書やパウロの書簡、1コリント5章や11章で書いてある過越を祝った記述でも分かる様に、

レビ記23章に書かれた神の創造された記念日なのです。

伝統の教え、伝統で実践されている記念日イコール神が作った

新しい教え、記念日と言う非聖書的な教えの誤解を解いて下さい。そして聖書だけの基づき考えてみれば良いのです。

 

いつどこで、誰の考えにより、シャバットや祭りが変更され、

日曜日礼拝とイースター、クリスマスが代わりに祝われる様に

なったのか?と本当に考えないとなりません。

神がそれらの祭りを復活以降造りましたか?

神はそんな別の記念日など作っていません。もし神が神の記念日を創り変えたら、創造の初めからやり直し、聖書を全部書き換えないとならなくなる事実に気が付いていますか?

神の伝えている創造の事実、6日の間で業を終え、7日目を

聖別したと言うことが変更になる訳ないからです。

神が時を造られ、神の暦を造られた、月星太陽、空にある光は

神の記念日=モアデイムを司るために作られたと書いてあるのです。

神が創造された時、定めの時=記念日、祭りは永遠に祝われる

ものと神が人に紹介しているのに、異邦人が1世紀後半以降〜

4世紀の間に、違う教えや、聖書にない違う記念日を創作したと言う事が本当の事実なのです。何を信じて、何をやるのもそれぞれ個人の選択であり自由ですが、神が言ってない事、やってもいない事を神が言った、やったと言う嘘、偽証は絶対にしてはならないのです。

異邦人はオリジナルの神の言葉=モーセの五書=トラー=

婚姻契約=はじめの愛を離れた異邦人達が、神の教えや、

記念日とは違う事を実践をしていると言うのが本当の事実です。

 

WWJDと言うスローガンで考えてれば良いのです。イエシュアはこの箇所で何をしていますか?一部のパリサイ派の学者達との

議論の後、その畑を離れて、シャバットなので、会堂に入られた

と書いてあります。日曜日に教会の建物に入られたのではないです。以前も書いた通り、教会と言う言葉は聖書に無い造語です。

会堂とは、エルサレムの中心以外の場所で、エルサレムの神殿の様に、トラーを学んだり、祈ったり、交わる場所が欲しいと

ラビ達が作ったものです。そして、当時は個人は大金持ちでない限り、手書きの羊皮紙に書かれたトラーの巻物、預言書などの巻物は所有していない。それらはその様な会堂で所有し、そこで

町囲みの中に住む人達はトラーを学ぶ事、シャバット=第七日目に朗読を聞く事が出来たのです。

イエシュアは、シャバット=第七日目に会堂に入れられたと

書いてあるのです。WWJD、シャバットが週一度神が聖別された

特別な記念日である事は神の前に永遠不変の真実であり、

人が勝手に曜日を日曜日に変更して聖日としても、それは神の

聖別された日では無いのです。異邦人が勝手に決めただけ。

 

畑での議論の後に書かれた二番目の出来事がここに書かれて

います。

12:10 すると、そのとき、片手のなえた人がいた。

人々はイエスを訴えようと思って、「安息日=第七日目=

シャバットに人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。

12:11 イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、

一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に

落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。

12:12 人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。

だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。

 

当然の事が人の教えに覆われて当然だと考えられないほど、

本末転倒な思考回路になっている事は明らかです。

彼らの間でも、シャバットには動物が穴に落ちたら助け出す事

はしていたのです。なのに、人を癒す、トーヴな状態でない人を病から救い出す事がどうして、シャバットを破る事だと

考えているのか?と言う事をイエシュアが言っています。

人の命は羊の命よりはるかに優れていると言いました。

 

この様な箇所を、異邦人クリスチャンの解説は、シャバットが

終了、破棄された、ジーザスがシャバットを終わりにしたなどと言うこじ付け、理屈付けをしていますが、その様な誤解した解釈で読み込みしている理由は、全てがモーセの五書が終わり!

そしてイエシュアが今迄に無い新しい教えをしているのだなどと言う空想の教理、神学、異邦人の教え、偏見、先入観から常に

聖書を読み込みしているので、聖書に書いてある記述、事実を

曲げて解釈してしまうのです。

 

人の思想=神の言葉を曲げる教えを通して聖書を読むなら

書いてある事実が見えないのは当然なのです。

 

12:13 そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」

と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように

良くなった。

 12:14 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを

殺そうと相談した。

 

ここで、もう一度覚えておく必要があります。パリサイ派や

その当時の人達の中も、モーセの五書とは違う教えが存在する

などとは考えていない。何を彼らが問題視していたのか知らないとならないのです。彼らの伝統で教え続けた、モーセの五書の

解説=口頭トラーの教え、彼らの流儀ににそぐわない事を

イエシュアが語っている事に対して腹立たしく思っているのです。

 

今の異邦人クリスチャンの世界と重なるものがあります。

クリスチャンの世界は、モーセの五書を否定する教えが前提で

そして、モーセの五書は永遠不変であり、福音書以降には

モーセの五書以外の別の新しい教えなどないと言う聖書の事実

を語っているのに、その様な教えには猛反発を感じるのです。

それと同じです。自分達の慣れ親しんだ教え、神学、生き方や

やり方と異なる事を言う人、やる人達が異物に見えるでしょう。

 

彼らはパリサイ派の人達の口頭トラーとは違う解釈をした

イエシュアの解説や行動を批難しているのです。

クリスチャンの世界は、反モーセの五書を語っています。

イエシュアが、又は福音書〜黙示録がモーセの五書を話しているなどと言う発想は異邦人クリスチャンの教えの中にはゼロであり、又は道徳的教え以外は廃れたなどと考えているのですから、モーセの五書は永遠不変などと言う教えに猛反撃をかまして来るのです。

自分で聖書を読んでみて、一体福音書以降のどの箇所に、神が

神の教えを破棄した、廃れさせた、新しい教えをして、新しい

別の記念日を創作し、祝ったなどと言う記事が書いてあるので

しょう?そんな事など聖書にはどこにも書いてないので、その書いてない事をぜひ自分の目で確認する事をお勧め致します。

 

イエシュアが人々を癒した後に、以下の記事が書かれています。

 

マタイ12:22 そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。

12:23 すると群衆はみな驚いて言った、

「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。

 

イエシュアのされた業により、ある人々は、イエシュアが

トラー、預言書に預言されている救い主ではないかと気が付き

始めた事が書かれています。

ダビデの子=ダビデの系図からイスラエルの王、救い主が出ると

彼らは知っていたからです。だから、祭のたびに、救い主が

エルサレムに現れると彼らはいつも救い主を待望していたし、

今も同じ様に救い主を待っているのです。

 

ここで今一度考える必要があります。クリスチャンと言うアダ名

で、イエシュアに付く人達の事が1世紀当時呼ばれました。

クリスチアヌス=キリストに付くものと言う意味です。

前にも書きましたが、1世紀当時は、イエシュアに付く人は

ほぼユダヤ人のみで、ごく少数の異邦人しかいませんでした。

だから、メシアを信じた人達でも、同じくパリサイ派の中に

加わっていて、パリサイ派と同じ会堂でシャバットでトラー、

預言書を朗読し、交わりをしていたのです。

教会と言う新しいグループなど出現していない!と言う聖書の

事実だけに立って考えて下さい。

使徒15章にもある様に、ある少数の異邦人グループをパリサイ派の中に受け入れたのです。

イエシュアに付くユダヤ人を、その道の者又はナザレ派などと

呼んでもいましたが、同じパリサイ派の一部として交わりをしていたのです。

パウロも同じく死ぬまでパリサイ派です。イエシュアがされた

過越の祭の晩餐や、そしてたとえ話を通して、トラーを教える

教え方も、すべてパリサイ派の流儀です。

 

聖書の事実が見えない1つの理由は、2000年前までは

2000年以前の人達は誰もメシアを知らない!救いもなければ、聖霊も内側に住まない、同じ贖い救いの実態がなかったと

考えている事だと思います。

 

クリスチャンと言うあだ名で呼ばれていないだけで、太古から

エデンから、エデンから飛び出てからもイエシュアを信仰により

受け取り、義とされていた残りの民=聖徒達は存在しているのです。それらの人達をクリスチャンと言うあだ名で呼んでいないだけです。救いの方法は1つしかない!と聖書には書いてあるからです。イエシュアを通して以外に誰も父の元には来れない、

救いはない!全人類どの時代にもどの人種でも同じ実態を受けて生きていた残りの民は存在している事実を聖書から知らないとならないのです。

彼らは、トラー、預言書に書かれたイエシュアを信仰により内側に受け取り、知り、生きていたのです。何も変わらない。

ダビデも同じです。ダビデはモーセの五書しか教科書がないのに

詩篇で、救い、贖い、新しくされた人の実態を深く深く理解して

語っています。

だから、2000年前に人類は突如として、救いを受けたとか、

新しいグループ=教会と言う別物が出現して、教会時代が

始まったと言う異邦人思想で聖書を眺めていたら、聖書に書かれている真実は見えません。教会=本当の言葉は、カハール、

ケヒラ、エクレシアで、聖書の最初から最後までカハールは

同じカハールであり、翻訳では、群、集会と訳しているのです。

福音書以降、翻訳トリックで、同じカハール、エクレシアを

群、集会とは訳さず、翻訳の意味を何も反映しない”教会”と言う

創作用語をあてがっているから誤解してしまうのです。

だから、モーセの五書を、預言書を、歴史書を学ぶ必要があるのです。そこに書かれているのは、イエシュアの業=永遠の中に

ある救い、贖いの業で新しくされた人の実態がずっと書かれて

いるからです。

 

続く