マタイ12:7−8 慈しみ 憐れみ 神への愛の表現とは婚姻契約=トラーの実態に忠実に生きる事 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人クリスチャンの世界で誤解され、聖書の原文に書いてある意味とは全く違う逸脱した聖書解説、解釈をされている箇所を

取り上げて書いています。

マタイの12章のイエシュアの言葉も異邦人クリスチャンの世界の解説で、勝手気ままに思う存分に違う、聖書とは違う思想から語られています。

思想=イエシュアが反モーセの五書推進者、モーセの五書=

古い教えとは違う最強パワーの新しい教えを説いているのである!と言う、”ウルトラマンタロウ、ウルトラの父に反抗し撃退するの巻”と言う聖書版をやってしまっているのです。

 

聖書はある箇所を取り出して、自分の意見で塗り替えて何とでも曲解し解説する事は出来ますが、その解説は聖書の事実ではないのです。その様な解説が山ほど存在するのです。

どうしてそんな事が起きたのでしょう?

それは、異邦人の世界では1世紀後半から出現した反モーセの

五書と言う異邦人が編み出した思想と、実際にモーセの五書に

書かれたイエシュアや預言者、そして使徒や1世紀当時の人達が生きていた教えとは違う教え=異邦人、ローマ帝国が作り出した教え=宗教の教えに移行する事をしてしまったからです。

それが定着し、伝統で語られ実践されて今日に至るからです。

その様な、ヘレニズム思想で神の言葉を曲げる、否定する、

聖書を曲げる=永遠不変であると神が説明している神の言葉を

真っ向から否定する思想、教え、又ある部分=最初の70%は

無用、異邦人には無用などと言う人間が作り出した思想=神学を土台に考え解釈したらそれはどこまでも逸脱した解説を創作する事は可能なのです聖書に語らせるのではなく、異邦人が聖書を利用して自分の思想を解説し、語っていては何を神が人に伝えているのか、イエシュアが話しているのかが見えなくなってしまいます。

下の箇所も、異邦人の世界では、簡単な憶測の浅い読み込みで

こう解説しているのが殆どだと思います。

”生贄は無用だ〜”廃止になった。安息日も終わりだ〜救い主が

来たからです。”などなど。

でも、イエシュアはここで何をある一部のパリサイ派に説明しているのかをマタイが書いています。

 

マタイ12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは

罪のない者をとがめなかったであろう。

12:8 人の子は安息日の主=第七日目、シャバットの主である

 

よくよく事実だけを考えて下さい。福音書〜黙示録は、

4世紀以降になり、やっと聖書として認識された箇所です。

その聖書の最後の30%は、ほんの短いトラー、預言書、諸書の

使徒たちにより書かれた短い短い解説、コメンタリーに過ぎないのです。その箇所は価値がない、意味がないなどと言う話ではな又モーセの五書とは違う新しい教えなど1つも書かれてなどいない、聖書は全て、”モーセの五書”を土台とし、そこに書かれている神の永遠不変の教えを指して、ヨシュア記〜マラキ、福音書〜黙示録が書かれているのです。

聖書は、モーセの五書が土台であり、モーセの五書以外の全ての箇所は全てモーセの五書に基づき、モーセの五書に書かれた教えの解説!であると言う事実が見えれば聖書全体が見えてきます。

イエシュアの教えは100%モーセの五書を土台としています。

人が神との関係=イエシュアに繋がる家族とされている事実は

契約=モーセの五書に基づくものなのです。だからモーセの五書を捨てると言う意味は、婚姻契約を捨てた違う生き方をします!と言う事を聖書では言っているのです。

それが預言書に書かれている人々への警告なのです。

預言書、諸書は、モーセの五書に基づく教えを解説しています。

特に預言書は、イザヤ書を多く引用してイエシュアが話していますが、それに繋がる箇所もたくさんあります。そして諸書を

”詩篇”と書いていますが、詩篇はモーセの五書の知恵の宝庫

そして、ユダヤ人の賛美の書は詩篇だからです。

 

イエシュアが7節で引用している箇所は、イザヤ書、ホセア書

ミカ書に書かれている内容です。

”わたしが好むのは、哀れみであって、いけにえではない”と

イエシュアが語られている真意が見えれば理解出来る箇所です。

”捧げ物無用!〜モーセの五書は終わり、神殿無用、イエシュアが来られて神殿も無用、破棄!などと言う思考回路でいる限り

聖書に書かれている真相が見えないままになります。

神殿は神に取り重要であり、天にある神殿をそっくりそのまま

地上で反映させるレプリカを神が人に造らせたのです。

この内容は深く解説しないと見えてこないので今は省きますが

神が重要である事を伝えているのに、人が理解しようとしない

聞く耳持たず先入観で神の言葉を否定し、考えもしない事が

重大な問題であると言う事にまず気が付かないとならない点

なのです。

12章の全般で語られている、あるパリサイ派の学者達の心の

中は、愛、憐れみではなく、彼らが推奨する教えを表向きにやる

事が重要であると考えているのです。もちろん、彼らなりに、

そう言う事を通して神に忠実に生きていると考えているのですが

神の教えの本質、醍醐味からずれて本末転倒な思考回路、行動を

しているのです。

捧げ物とは、神殿で神の前に出る近づく時に手ぶらではなく、

捧げ物を持って行く様にトラーでは教えられています。

普通に考えて下さい。誰か自分に取りとても大事な人と会見する時に、自分が丹念に準備し選び出した贈り物を携えて行く時の気持ちを考えたら分かります。その贈り物には自分の精一杯の気持ち、愛が詰まっているのです。贈り物を通して相手に愛を表現したいからです。そして、それを相手が受け取って喜んでくれた時の気持ちは誰でも理解出来るでしょう?

全ては関係の世界を生きるデザインなのです。

神に受け取られている事実を人が知るためのツール=新しくされている人の実態で神の前に出ると言う事なのです。

でも、新しくされている人の自覚がない、頭脳が全然変わっていない、心の中に他者=兄弟に対する憐れみ、愛がないそんな

虚無、空洞を携えて表向きに捧げ物を持ってきても

そんなもの意味ないし、神が求めているのは、その人自身、

新しくされた人の実態で神の前に相見える。そして、神を愛するとは同時に兄弟を愛していなければそれも虚しいと書いてある

通りだからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎む者は偽り者。そんな虚しい実態で捧げ物だけ持ってきても意味が無い。

憐れみを望み、いけにえは望まない。いけにえ無用になったなどと言う様なことなどこの箇所でも、聖書のどの箇所でも言って

などいないのです。物事の本質をちゃんと捉えて、この様な箇所で語られているのは、人の実態=中身=思考回路=行動が、

捧げ物とぴったり一致したものでないなら意味が無いと言っているのです。

 

そして、神との関係に入った、神の子ら全て同じ家族メンバーに

された事実は、全て神が提示する”婚姻関係”の生き方=トラーに

書かれた生き方に根付き生きることが全ての土台なのです。

その婚姻関係を無用とするなら、それは実態の無い生き方をすると言う事実に気が付かないと見えません。

慈しみと訳されているヘブライ語は、 דֶסֶח  へセッド、

英語では、lovingkindnessなどと訳されていますが、

この”へセッド”と言う言葉は、契約の内容の中で使われる言葉

なのです。契約の中に存在すると言う前提があり使われる言葉

である事に注目しないとならないのです。

不動の愛とは、婚姻契約に明記された生き方に対して、

”忠誠”と”誠実さ”を尽くす事なのです。

婚姻契約=トラーを捨てたら、人は神との関係に生きる詳細が

分からないと言う事に陥るのです。陥っているから、世界には

神の教えでは無い教えを生きる様に無数の非聖書的教えが

流通しているのです。

危険な思考回路を生み出す元は、”神の言葉に注意を払う事から

意識を反らせる教え”なのです。異端に注意と言うなら、聖書に

書かれていない教えに注意!それには、聖書には何が書いてあり

何が書いてないのかはっきり知る事、それには聖書を学ばない

限りそれらを見分ける術はない、真相は分からないと言う事です。文盲時代、いや聖書が自分の手元にない、16世紀に印刷機が発明される以前の人々の様に、誰かが編み出し伝える教えを

聖書だと鵜呑みにして聞いている事を今はもうしなくて良いのです。きちんと自分の目で確かめて、何が聖書に書かれているのかを確認し学ぶ必要があるのです。

 

ホセア6:6 わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。

燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。

 
このホセアに書が主の言葉を書いていますが、
”憐れみは好むがいけにえは好まない”とは、ホセアの預言書
全体を見て理解しないとならないものです。

 

ここでのイスラエルの状況は、イスラエルの神から、神が示す

生き方=トラー=モーセの五書から逸れて、異教の神々との

姦淫を犯しているのです。それなのに尚もその行動から足を

洗わないまま、イスラエルの神の神殿に相変わらず捧げ物を

携えて来れるずれた意識でいるのです。

言い換えれば、イスラエルはイスラエルの神はどれほど妬む神=

異教の神々との姦淫に陥るイスラエルを妬んでいると言うその

意味に気が付いていない状態なのです。

動物の捧げ物など単なる儀式のために必要なもの、表向きの

捧げ物。でもイスラエルの神はイスラエルが100%イスラエルの神に向いている、100%忠誠心を持った意識を捧げている

その状態を望む、願うと言っているのです。

ホセアを通して、イスラエルの神がイスラエルに伝えているのは

イスラエルの神への忠誠に戻る事です。

イスラエルの神が提示する生き方=トラーに書かれた婚姻契約の

生き方だけに戻れ!婚姻契約に書かれた生き方が、

神への愛のフルバージョンの表現=生き方だからです。

イスラエルの神がイスラエルを奴隷状態から、偽の神々から

偽の王、偽の生き方から贖い出したからです。

神は”へセッド”=婚姻契約=トラーに書かれた事に忠実な生き方を望む!と言っているのです

ミカ 6:6 「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。

6:7 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。

わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。

 6:8 人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、

いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。

イザヤ1:11 主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、
肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、
あるいは雄やぎの血を喜ばない。

1:12 あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、

だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。

1:13 あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、

また会衆を呼び集めること――わたしは不義と聖会とに耐えられない。

1:14 あなたがたの新月と定めの祭とは、わが魂の憎むもの、

それはわたしの重荷となり、わたしは、それを負うのに疲れた。

 1:15 あなたがたが手を伸べるとき、わたしは目をおおって、

あなたがたを見ない。たとい多くの祈をささげても、

わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。

1:16 あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、

1:17 善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。