人の子は安息日=シャバット=第七日目の主である マタイ12:8 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イエシュアはパリサイ派の学者達へのイエシュアの最終的な直な答え述べています。

 

マタイ12:8 人の子は安息日の主である」。マルコには、

マタイとルカには無い追加の供述が書かれています。

マルコ2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のために

あるもので、人が安息日のためにあるのではない。

2:28 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。

シャバットの本質、本来の目的がある事を述べています。

神の教えや、神の記念日を祝う事を、するしない掟リストを生きる様に考えていては、全く見えない世界があるのです。

 

シャバットは人の子のために造られたものであり、

シャバットのために人が造られたのではないとありますが、この供述の真髄、主旨は、当時のユダヤ人ラビ達の文献の中にも同じ意味の事が書かれています。

 

命を助けるために、シャバットではしないと言う教えを

一時停止する事に関してが議論の中心点です。

何が大事か、神の教えの真髄を見逃してはならない、

本末転倒するなかれです。

 

”240人の人達の割礼をシャバットにするのなら、

命全体救う事をシャバットでするのは当然である。

R. Eleaza  In b.Yoma 85b”

”これは、シャバットがあなたに与えられているのであり

あなたがシャバットに降伏するのが目的ではない。”

 

モーセの五書に関するラビ達の解釈=口頭トラーの教えにも

シャバットでも優先されるべき行動がある!それは人の命や

その他を中心に考えれば分かる内容です。

シャバットでも勤務に当たる予定の祭司は神殿で任務がある

出産する人がいたら助産婦は産婦を助けに行く、穴に落ちた

動物は助ける、割礼をする8日目がシャバットに当たるなら

割礼を授けるetc etc etc

この様に同じエッセンス、主旨をモーセの五書からラビ達が

理解しているなら、同じ様に考えなくてはならないだろうと

イエシュアが言われているのです。

 

これらの事実を踏まえて、イエシュアが”人の子”と言われている

意味は、イエシュア自身、救い主のタイトルを指して

ここで話しています。そして、これと同じ意味で、

”人の子”=救い主は、神殿に優って偉大であると言って

います。モーセの五書が廃れた、モーセの五書より優れた

教えがあるなどとイエシュアは1度も語ってなどいない

事実から逸れないで聖書に書いてある内容の真実を汲み取る

必要があるのです。

 

神殿の中でレビ族の祭司達はシャバットに任務をするなら、

それなら、イエシュアは油注ぎして聖別された神殿、

イエシュアのされている行動、イエシュアのトラーの解釈も

ラビ達の中にある口頭トラーよりも優れたものだから、

彼らラビ達の発想を停止する必要があるでしょうと説明して

いるのです。

ダビデ王が神殿の中にあったレビ族だけが食せる聖別された

臨在のパン”を食べると言う事をして、尚も神の前に潔白である

とされているなら、本物の救い主が、彼らパリサイ派のラビ達の

教え=口頭トラーにそぐわない事をしたからと言ってどうして

責め立てられる必要があるのか?と言う結論をイエシュアが

言っているのです。

 

人の作った教え=口頭トラー=ラビ達のモーセの五書の解釈よ

り、イエシュアの教え=父の言葉=モーセの五書の解釈が上を

行っている!と言っているのです。モーセの五書が廃れたなど

と言うとんでもなくズレた異邦人の聖書解釈で聖書のどの箇所

も読み続ける事をやめるなら、今日今現在、オンタイムで神が

自分に直接神の言葉から語っている教え、言葉、真理が初めて

見えて来るのです。

神の言葉=廃れた!と言う発想に立つ限り、その場所に留まる

なら、神の言葉=真理は自分の頭脳には届かないのです。

神の教え=言葉が頭の上を通り過ぎて行くだけです。

悪い地に落ちた種は根を生やさず、御霊の実など実らないままに

なるのです。

 

ある一部の人達は、イエシュア=トラー、預言書に書かれた

救い主である事実に盲目なままです。そして突如として現れた

新参者のトラー教師=イエシュアが、自分達の解釈とは

違うモーセの五書の解釈、生き方を人に教えて生きている!

そして、皆を魅了している、人気を博している。大衆を扇動

している!憎たらしいやつ、殺したい!と思ったと書かれて

いるのは、その様な教師を潰してやろう!と思っていたから

なのです。

どれほどズレた意識なのでしょう?モーセの五書廃止!

と言う意識も全くそれと同じである事を聖書から読みと

ならないとならないのです。なぜならイエシュアが語る教え、

聖書に書かれているどの箇所も100%モーセの五書のみを

語っていて、それ以外の別物の新しい今までに無い聞いた事も

ない教えなど、イエシュアやパウロや使徒誰も語っていない事実

に目覚めれば良いのです。人の教え=人が作った教え

異邦人が作った反モーセの五書思想の教え、教理、神学こそが

イエシュアが語る真理=モーセの五書の正しい解釈をかき消す

邪魔な教えなのです。当時のラビは反モーセの五書などと言う

発想など決して無いのです。彼ら流のトラーの解釈、彼ら流の

流儀とは違う教え、やり方に猛反対していたのです。

現代の異邦人クリスチャンは、モーセの五書に書かれた教え

イエシュアや使徒達、1世紀当時の信者、古代からでは

エデンの園から出て、神に口頭でトラーを教えられていた

その生き方そのものに反対していると言う大きな矛盾、

ズレがあるのです。

 

イエシュアは、父の教え=モーセの五書を破る様になど

誰にも教えていないのです。もし1世紀当時そんな事を

教える人がユダヤ人の世界にいたら、いやいませんでしたが、

それらは、偽教師と見なされて、相手にもされなどしない

かったのです。そもそもモーセの五書を否定する教えを説く

聖書教師など、聖書には存在などしないのです。そこを誤解

してしまうと、イエシュアが語っている真理、真相など

見えないのです。本末転倒をするなかれ!人の作った決め事を

生きることは意味がないと言う事!その二つに付いて議論して

いるのです。

そして、どんな行動も神の教え=真理の本質から絶対ズレず

そして、相手の命を保護する、憐れみ、愛=契約の愛の命を

生きると言う本質からずれない事、この事が何より大事なの

です。だから、イエシュアに他の場所で質問したトラーの中で

何が一番優れていますか?と言う問いに対するイエシュアの

答えと同じなのです。

”神を愛する、そして自分を愛する様に隣人を愛する”

この2つの前提の下に、それ以下の全ての教え=モーセの

五書=トラーの教えは網羅されているからです。

これ以外、神の教えは無用などと考える場合には、

神の教え契約の愛を生きる詳細はモーセの五書に書かれたもの

ですから、その契約書=トラーに書かれたどの箇所の教えでも

捨てるなら、神の提示する契約の中にある愛の生き方など

実現し行動に移す生き方など出来なくなると言う事を知らない

見えません。自分定義の空想、発想の愛は、ズレます。

必ずズレます。神の言葉を捨てたら、自分の発想、思想、

解釈が全ての基準になってしまうからです。神が提示する

神の教え、真実を映し出す完全版の鏡は、モーセの五書だけ

だからです。そして、最後の結論としてイエシュアは

こう言われました。”人の子はシャバットの主である”と。

ここで事実だけに繋がって下さい。シャバット=第七日目

が週の中で唯一聖別された日であり、第一日〜第六日=

月曜日から金曜日は神が聖別された日ではない、

普通の日、労働日であると聖書には書いてあるのです。

クリスチャンの暦では日曜日が聖日ですが、聖書=神の暦では

第七日目が聖別された日なのです。

第七日目だけが、週の中唯一聖別された日、神の目的のために

取り分けられた記念日です。

日曜日が安息日=シャバットであると主張する場合、それは

人が作った教え=異邦人、ローマ帝国が主張し、神の言葉を

変更して作った聖書の事実を変更した日が安息日であると

完全に誤解しているだけなのです。聖書を読めば分かるはず

です。日曜日にシャバットが変更された記録もない、

ある訳ない、なぜなら、神が永遠不変に祝われる神の記念日

として、レビ記23章にそれらの特別な日を人に紹介して

います。そして、聖書の最初に第七日目を聖別し神が止まった!

とはっきりと書いてあり、シャバットをガードして祝いなさいと

聖書には何度もなんども書かれています。

少なくとも聖書の中にはシャバットに関して140回以上の

記載がされているのです。

気が付かないとならないのは、異邦人クリスチャンの世界で

伝統的に語られている教えは、このマタイ12章に書かれた

ラビ達の考え=教え、彼らの解釈と同じ性質、もちろん

ラビ達は聖書に書かれていることなど変更していませんが

ラビ達は神の教えをどう生きるか?と言う点でずれていたの

です。

異邦人クリスチャンの世界は、聖書に書かれていない事

神の言葉を否定した教え、聖書を変更した教えが神の教えで

あると本当に誤解した教えを伝統で信じ実践しているのです。

直に言うには憚れますが聖書だけに戻れば、聖書に書いてある

記述=その事実は、小学1年生でも理解出来ます。

ひらがなでふりがなしてあげれば、聖書を読めます。

シャバットは第七日目と数字を見ただけでも分かるレベルの

クリアーさで書かれているのに、伝統の教えに洗脳され

実践し続けている場合には聖書に書かれていて、目の前に

書いてある事実でも、見えない=書いてある事を完全に曲げて

解釈しているのです。単純なミステーク間違いに気が付いて読む

7が1に変更されたのだと書いてもない読み込みをしている

のです。人の教えを本気で信じてそれが神の教えだ〜!と

実践し続けているだけなのです。これは信仰の進化論版と

呼ぶべきものだと思います。事実ではない事を伝統で信じる事。

 

でも世界には今多くの人が神の本当の言葉、真実に戻る事を

しているのです。そして、多くのユダヤ人もイエシュア=

救い主である事実を、トラー、預言書から発見しているのです。

偽物の教えが語られるほど、人が神が語る真実に気がつく

妨害をする厄介な障害物はないのです。

だから聖書だけに戻らないとならないのです。

 

続く