マタイ12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか
読んだことがないのか。
12:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も
供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
マタイ12章でのイエシュアとイエシュアの弟子達がシャバットを破っていると言う一部のパリサイ派の批判に対して答えています。破るとは、違反している=シャバットにしてはならないと
彼らパリサイ派が考える事を、イエシュアの弟子達はやっている
と言う批判です。誰一人として、シャバットが有効か無効かなど
議論していない。シャバットをどう祝うか、どう実践するのか?
と言う事だけに関して常に議論されているだけです。
そしてイエシュアはシャバットをモーセの五書に書かれた通りに敬意を払い生きていると言う意図はこの箇所でも明らかに記されています。
もし異邦人クリスチャンのコメンテーターが提案する様に
もしイエシュアが来られた事でシャバットが停止になったと言う
ならば、イエシュアの答えは全く意味不明なものとなってしまいます。マタイが書いている意味通りを読者はちゃんと読み取らないとならないのです。
イエシュアの答えが解読不明であるとしても、イエシュアは
はっきりと、イエシュアとイエシュアの弟子はシャバット=
第七日目の止まる日を違反して破ってなどいない!と言って
いる大前提を崩してはならないのです。
ここでイエシュアとパリサイ派が議論している論点は、
シャバットを祝うか祝わないかなどの議論ではないのです。
当時1世紀の人達、ユダヤ人達誰一人として神の創造された記念日を捨てる、ないがしろにする、破棄する終了するなどと言う
発想さえしていないのです。イエシュアがシャバットを破棄せよなどと言う問いかけを人々にした事も無いしする訳がないのです。異邦人クリスチャンの世界では、全くズレた論点で考えています。全て神の古い教えが終わったと言う誤解、憶測で聖書を
読み続けてしまっているので、聖書に書いてある内容の真意に
さえ辿り着けてもいないのです。
どの様にシャバットを祝い、実践するのか?と言う事に付いて
だけ、イエシュア側も、一部のパリサイ派も、その点に付いて
議論しているだけなのです。
異邦人クリスチャンの世界の教えは、シャバットを捨てるか
破棄するか、それとも継続するのかと言う全く違う議題、論点
にすり替えてしまっているのです。この様な間違った思考回路で考えている問題にまず気が付いて下さい。聖書で議論されていない事を勝手にでっち上げしてしまっているからです。
そして、ここで議論しているパリサイ派の意図は何ですか?
人に対しての憐れみ〜食べ物も無く気の毒なんて気持ちなど
微塵もないのです。それどころか心の中は”意地悪”です。
トラーに書かれていない、当時のユダヤ人の中にも彼らの中の
口頭トラーにもまだ確立されていない教えを、トラーの生き方の
解釈であるのだと持ち出して、これこれをしない人達は不届き者だ!と批判しているだけなのです。
どうして一部のユダヤ人達はこうもイエシュアに吹っかけて来た
のでしょうか?新参者のトラー教師が、彼の解説するトラーの
教え、解説で多くの大衆を魅了している!それがある一部の
ユダヤ人=書写学者やトラー学者には気に食わないのです。
しかも、彼らの伝統の中にある口頭トラーの解釈とは違う意味
合いの解説をしているので、それも気に食わない、面白くない、認めたくない。自分達の教えが否定されてしまうからです。
自分達の伝統の教えが認められない、人々がイエシュアの解説
するトラーのコメンタリー、神の言葉の真髄の方が命溢れるものであると惹きつけられていたからです。気に入らない!だから
イエシュアが何か失敗しないか、間違った行動をしないか
常に見張って、何かヘマをしないか伺っていたのです。
そして、タナックを読んでいるくせに、書かれている内容と自分達の教えのズレ、矛盾にも気が付いていないのです。詰まり最初から聖書に登場するどのユダヤ人もトラーに書かれた神の教えを破るなどと言う発想はないのですが、でも時と場合では、それらが一時停止し最優先させるものがあると言う場合があるのです。
それが1サムエル21章に書かれた祭司アヒメレク、この名前でも神の意図が伝わります。アヒ=兄弟 メレク=王。
兄弟の王として仕える祭司アヒメレクはダビデが困っていた時に
は、助けたことが書かれているのです。
この様な箇所を読みながら、どうしてシャバットで空腹な人達
同胞のユダヤ人の行動を批難しているのか?と言うのが
イエシュアの問いなのです。
移動式神殿の中にある”聖なるパン=レヘン ハ パニムを食せるのですが、台から下ろされた使用済みのパンは、聖なるパンではなくなり、そしてそのパンは神殿の中、移動式神殿の中で食されるもの、<レビ記24:9>そしてそれを食せる状態=女に近づいていないか?と祭司アヒメレクは聞いた事が書かれています。
基本使用済みの臨在のパンでもレビ族の祭司が神殿で食するものですが、それらの条件があれば、飢えた兄弟=ユダ族出身の王であるダビデに与えるのは優先すべき事だと、アヒメレクは判断し行動したのです。
イエシュアが伝えているのは、当時の人達、人間の教えで神の
教え=トラーの本質や意図を変えてしまう教えに対して警告していると言う事に注目すれば理解出来ます。
人が作り出した様々な教えで、異邦人の世界では、神の言葉の
真意が様々に曲げられて解説されている事と同じです。
そして、何よりここに登場する数人のパリサイ派の心根が
全く冷たい、ずれている、愛、憐れみから遠く離れている。
最初から非を見つけよう、イエシュアの弟子達の空腹状態など
何も気に留めない、人の事を考えてない、イエシュアに対する
批判対象を見つけましょうと言うそのズレた意識、状態が問題であると、イエシュアは後に語る言葉でも表されています。
その様な神の教えを曲げる解説をしていたら、神の言葉の意図など見えなくなると言うのは、当時のユダヤ人の中にも、そして
現代の異邦人クリスチャンの中にも同等にあるのです。
12:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を
聖書を読みながら、書いてある意図、意味、真意が見えない!
神の教えている教えがそのまま伝わらず、誤解している、曲解している!それらはどの時代でも同じ問題なのです。
シャバットの祝い方、過ごし方、実践の仕方に反する事に
付いて話しているのです。
でも、祭司達はシャバットでも神殿の中で任務しているのです。
それらは、シャバットを破る事にはならないのです。
毎日任務するのではなく、チームで交代制です。だからいつも
同じ人がシャバットで神殿に任務しているなどと言うのでは
ないのです。
シャバットで任務する祭司達が、トラーを違反しているのでしょうか?神の仰せです。神が伝える任務が祭司達にはあるのです。
モーセの五書には、祭司達がシャバットにする任務、
捧げ物を祭壇にするなどの任務が書かれています。
民数記28:9-10
そしてそれらの任務を祭司がすることで祭司がシャバットを
破っている、破っていて、なおかつイノセントであるなどと書かれていません。でもラビ達の文献にも、シャバットで捧げ物を
祭壇にする任務はシャバットでの神の教えを超えているとあります。b.Shabbat 132b
男の子誕生の8日目にあたるのがシャバットであれば、割礼も
施します。8日目以外の日には、あえてシャバットに割礼など
しないのです。
過越の祭りの羊を捧げることもシャバットでされる事なのです。
優先される順位があると言う事を知れば見えます。
イエシュアがパリサイ派と議論しているのは、どの時も彼らの中にある口頭トラーの教えに関して議論しているのです。モーセの五書が終わりであるなどと1度も話してなどいないのに、異邦人クリスチャンの世界では全て!100%モーセの五書が廃れた
終わりであるとこじつけられて解説されてしまっているのです。
あり得ない!そんな教えは聖書ではありません。
賢人達の教え、ルールは、物を持ち上げる、燃やす、切る、
削ぎ落としなどのシャバットではやらない行動=口頭トラーに
あるものは、ある場合にはそれらの教えは停止される。
詰まり、割礼、神殿での捧げ物を祭司がシャバットにする、
動物が穴にはまっていたら助ける作業をする、etc etc
それらは優先されるべきものであり、シャバットで妨げられるものではないとイエシュアは言っているのです。
祭司達のシャバットに於ける神殿の中での任務、8日目に行われる割礼がシャバットに来るならそれを優先させると言う事です。
詰まり、神の教えはするするなかれリストではなく、神が伝えている教え=物事の本質を捉えなくては見えないことなのです。
しかも、掟をガードする事で行動が本末転倒になれば何も
意味がないからです。
普通の人は、止まる!シャバットでも特別な任務のある祭司は
彼らの任務を全うする。祭司は交代制で任務をするのですから
毎週のシャバットで任務にあたるのではないのです。
何週間に一度、2ヶ月に1度など、任務が来たらそれをする。
普通の庶民はシャバットで止まるのです。
もしパリサイ派が彼らの付け足した教えのルールをシャバットで
する事を一時停止するなら、長く待望したメシアの存在が
今目の前にあるのに、同じ事をしないのか?と言う問いを
イエシュアがしているのです。
イエシュアは”神殿より優れたものがここにある”と言っていて
”モーセの五書=トラーより優れた教えがある”などと言ってなどいません。詰まり神殿=イエシュアが本物のオリジナル、天から
下った天の国に属する、メルキゼデクの位に属する天の大祭司
です。そして地上の神殿は天の神殿のシャドーコピーだからです。そこに天での神の家の中の生き方を天直伝の教えをしている
地上での祭司が出来ない事=贖い救いの実態の全て実際に人に与える事が出来る、神の語る人間の本質的な生き方を教える事が
できる本物の大祭司が目の前に居るのに、そこで議論吹きかけた人達にはその現実が見えていないからイエシュアは敢えてその事を言ったのでしょう。
トラーの教えを停止せよ!などとイエシュアは一度も言ってなど
いません。イエシュアを責める人達へ、彼ら独自の人に課する
ルール、決め事=口頭トラー、それらの土台は、憐れみが土台
となって考えるのでないなら、ただの厳しいくびきです。
人に対しての憐れみが土台となっていなくてはならないものなのです。空腹の人がシャバットで断食?断食などシャバットにはしないものです。
時には、人の命を救うため、又は助けを与えるため、それらの
教えが一時停止し、人を助ける事を最優先するそれが神の伝える
神の教えの本質です。だからと言って神が伝える教えが終わりに
なったのではないのです。本末転倒するなかれ!です。
祭司アヒメレクが彼の判断で、憐れみからダビデを助けるために
臨在のパンを与えた様に、時として優先するべきことがある事
をイエシュアが教えているのです。
そして、愛、憐れみが中心となった思考回路をイエシュアが
次の節で伝えています。
12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主である」。
続く