21世紀の異邦人の世界の思想からマタイ9章を読んでも真相が見えない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書は、モーセの五書、預言書、諸書の中に書かれている事を

学ばないままでは何が福音書以降に書かれているのかもよくは

見えません。

 

イエシュアのされた業、神が創造された神の似姿の人間、

神の家族が個人、夫婦、家族、コミュニテイ、国全体で機能し

生きるのか。天の国に住まうと言うその詳細は、神の家=

天にある神の神殿の中身、その中で教えられている生き方、

神への近づき方、そして祭司職、司制度、大祭司の意味、祭司の役割、神の家が何なのか分からないと見えないのです。

モーセの五書に全てを知るに必要な手がかりが書かれていて、

聖書の全ての書は、モーセの五書を指して書かれているのです。

 

神の言葉の最初の部分は2000年以降は無用、不要、又は

ある提案、お勧め程度、参考程度に神の言葉を読むのだと言う

異邦人思想で語られる教えで、神の永遠不変の教えに対して誤解をしていれば、聖書を読むスタート地点からしてずれている事にさえ気が付かないままになります。

 

諸悪の根源である思想、神の言葉、教えに対する異邦人が編み

出し続けた歪んだ思想、神の言葉に対しての否定の全て、

神の言葉を否定して語る解説の全てを全部根こそぎ破棄して、

聖書に書いてある意味通りを知って初めて、聖書には本当に

何が書いてあるのか見えてくる。

神の言葉の永遠不変の真実が見えてくるのです。

誤解された箇所を、再び実際に福音書〜黙示録の中から本当に

神が伝えている事実を発見しましょう。

 

パウロの書簡もさることながら、福音書に書かれている

イエシュアの言動や教えさえも、数々誤解された解説が異邦人の世界では解説されています。空想、憶測、推測で書いてある内容を読み、解説、解釈してしまうからです。

 

イエシュアは、モーセの五書を破棄した、イエシュアはシャバットを破っても良いと言った、イエシュアはレビ記11章に書かれた食物規定を変更したetc etc etc.これら全ては聖書ではない

聖書にはそんな事書かれていません。神の言葉は永遠不変であり

異邦人の語る様な神の言葉が歴史の途中変更、人種により神の教えは異なるなどと言う様な変化球は存在しないからです。

 

どうしてそんな解説が次から次へと異邦人の教えの中から出現し続けているのか?

それは古代ヘブライ思想の、ヘブライの書、古代のユダヤ人なら

皆理解していた常識的な数々の事柄に対する知識、情報が

異邦人の世界には欠落しているので、異邦人の世界の思想、

概念、文化、風習から聖書に書かれた内容を読んでいるので

真相が覆い隠されてしまっているのです。

プラス、バイアス、偏見、先入観がある思想=神学を通して、

翻訳聖書だけを読んでいるからです。ヘブライ思想で、オリジナルのヘブライ聖書を読まない学ばないからです。

 

マタイの9章に書かれている内容を見てみたいと思います。

最初の部分も、その中に書かれている事の基本情報を把握して

みる必要があります。1世紀当時のユダヤ人の世界、ユダヤ人の

宗教的な教え、仕来り。簡単に言うとそのグループ、派の中に

あった教えであり、神の仰せではない、モーセの五書に書かれていないけれど、グループの仕来りです。

 

異邦人クリスチャンのグループでも聖書の教えではないけれど

そのグループの中に参加するには、そのグループの決まり、

規則、やり方に沿う、それらのルールを破るなどと言うのは

交わりをする上でご法度的な事があります。

アメリカでもありました。ダンスは罪、飲酒も罪。

そんな事聖書に書いてないですけれど、誰かが信じる教えを

そのグループに入ればやってはダメ!と言う事が山ほどあります。

マタイ 9:10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。

9:11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、

「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共に

するのか」。

9:12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者は

いらない。いるのは病人である。

9:13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」

 

イエシュアが食事をしたと言うその場所は何処でしょう?

ルカはそれがマタイの家である事を記しています。ルカ5:29

マタイはイエシュアのために大きな宴会を開いた事が書かれています。パリサイ派がなぜ取税人の家で何をしているのだろうと

考える箇所です。ある人はイエシュアの家で行われた宴会と

言いますが、それは考えにくい事です。人の子は枕する場所も

無いとあるからです。8:20

 

ルカがこの場面はマタイの家で食事をしている事をはっきり

させていますし、そして同時にこの場所は取税人が居合わせて

いる場所でもあります。

スキャンダルは、イエシュアの弟子であるマタイの様な元取税人であると言う事が物議をかもす議論に発展するのです。

そしてそれ以上にイエシュアとイエシュアの弟子達が”取税人と

罪人達”と一緒に食事をしている事です。

1世紀のユダヤ人の世界では、共に食事をすると言うのは

一般的なカジュアルな事以上の深い意味があるものでした。

使徒15章にもある、交わりをする、食事を共にする、

テーブルを囲んで食事をしフェローシップをすると言う事は、

הָבוּרַח ハヴラと言う、本当に親しい関係で、その関係の中に

あるハラハ=様々な流儀や作法や決まり事や生き方を共通していると言う前提があるのです。

 

それ以上にパリサイ派、テーブルを囲んで交わりをする事の意味は、儀式に関してのきよめの問題、そして食べ物に関しての

ハラハ的課題が前提として含まれているのです。

 

だからイエシュアとイエシュアの弟子達が”取税人と罪人”と食事をしていると言う事は、イエシュア達がパリサイ派が考えている通りに、神の教え=トラーに従順に生きているのか?と言う

問題が持ち上がる、はらんでいるものなのです。

 

マタイは、”リクライニング式テーブル”寝そべる形のテーブルと

書いています。これは、普通の食事の普通に座る姿勢ではない

ものです。この記述からある人達は、この宴会は、神の記念日に

まつわる交わり、宴会ではないだろうかと考えるのです。

 

マタイはイエシュアが一般の人の中で受け入れられ人気を博し

愛されていた事を書いています。パリサイ派は、イエシュアの

弟子達に質問していますが、これらは、質問と言うより、批判

です。”なぜ、あなたの先生は取税人や罪人と一緒に食事を

しているのですか?”と。

 

この言葉、”取税人と罪人”と訳されている言葉は、イエシュアに対する批判でもあります。マタイ11:19 ルカ7:34

これは、”大食いの大酒飲み、取税人と罪人の友”と言う表現で

表されています。”罪人”と言う用語は、一般に”地に住む人”

に関して話している内容ではありません。

"アム ハ アレツ”又は”その地の人”と言う表現は、軽蔑的で

見下した意味を持つ言葉です。

無学で、神の教え、又はユダヤ人の中にある”ハラハ”=律法の

行いと呼ばれている口頭トラー、彼ら流のトラーの解釈、神の教えをどう生きるのかに関して、全く注意を払わない人々の事。

特に、きよめについて、神が与えた食物規定、そして捧げ物に関して全く無頓着である人を、アム ハ アレツと呼んでいたのです。

ここでは、”罪人”とは”取税人”とリンクされている理由は、

これらの人々は人が知る様々な教え、色々な決まり、

神の教えに対して全く無頓着で、神の契約に関して否定した行動をする人達であるからです。彼らは、レシャリム=悪を働く人達

と考えられ、ヘブライ語のラシャ=悪を働く人という言葉を

ギリシャ語で”ハマルトロス”と訳されているものです。

 

それなので、イエシュアと彼の弟子達がその様な種類の人達と

食事を共にしているとは、イエシュア達は、神の教えを変えて

罪人達との交わりで、神の教えを妥協しているのではないだろうか?と言う疑いがかけられていたのです。

特に食物規定と、捧げ物に関しての神の教えに対して、ないがしろにし、適当に破っているのかと言う嫌疑をかけられていたのです。

イエシュアと弟子達が取税人と罪人と一緒になって食事をして

いると言う事は、イエシュアと弟子達が同時に神の教え=トラーをないがしろにしていると言う事ではないのです。

イエシュアが父の教え=トラーを否定したり、ないがしろにしたり、無視する事などは決してありえない事だからです。

 

パリサイ派が気にしているのは、パリサイ派の流儀を侵しているのではないか?と言う事なのです。パリサイ派の決め事に従わない人達、手洗いの儀式の件でも同じでしたが、イエシュアに向かって、”あなたの弟子は食事の前に手洗いの儀式をしない”と

パリサイ派が咎めてイエシュアに苦言を呈しています。

それと同じ種類の苦言です。手洗いの儀式などモーセの五書に

書かれた教えではなく、パリサイ派が決めた彼らの流儀であり

彼らの教えの伝統にのっとり、彼らの間で実践されていたもの、それらをイエシュアの弟子達がしない事で咎めていたのです。

 

これを止まって考えると分かります。聖書の教えではないのに

伝統により語りがれ、教えられ、実践されて来ている事をしない人は、神の教えを破っていると言う錯覚を起こすのです。

異邦人の世界ではその前に何が人の創作した伝統の教えなのか

分からないので、自分達の流儀でやっている数々のことが実は

聖書ではないのに、聖書の教えと本当に思い込んでいるのです。

それをしない人は、不信仰?みたいな目で見る事があるでしょう。

例えば祈る時に目を閉じて、両手を胸の前で組みなどと考える

人はそれらは聖書の教えではないけれど、そのグループが伝統的にやっている、だからそれらをしない人は不遜とか、違和感ある

そう言う事がここで書かれている内容の性質と一致するのです。

 

1世紀当時、パリサイ派の中で実践されていた内容は以下の

ものです。これは聖書、トラーに書かれた教えではありません。

 

賢人達が考える相応しくない6つの事。

市場に行くのに香水を付けてはならない。

男性は夜一人で出歩いてはならない。

男性はつぎ当てサンダルを履いてはならない。

男性は公共の場で女性と話してはならない。

男性は一般人が集う公共のクラブ、パブでリクライニング式の

テーブルで食事などしてはならない。

男性は学校に登校する場合に、最後に来てはならない。

<b. Berachot 43b>

仲間である人は、アム ハ アレツと宴会を提供してはならない

又は、捧げ物をしてそのグループを管理、監督しないなら、

たった1杯のワインでもダメである。<t.Demai 3;6>

 

誹謗中傷する人に対してのイエシュアの答えは、私達が予想する様なものではなかったのです。イエシュアは彼らの語る伝統の

教えに関して、トラーにある様に、彼らをこき下ろしたり、攻撃

しませんでした。

 

続く