神の言葉が永遠であり、神の教えも永遠で歴史の途中で神の言葉や教えは変更されず、そして神が創造された記念日も歴史の途中で決して変わる事がないと言う聖書の永遠の事実、記述を多くの異邦人は認めない、知らない、気にも留めない、本当にじっくり考えた事もない、そして西洋人が1世紀後半以降に作った聖書の教えを塗り替えた数々の教え、記念日を伝統で今も継承し続けています。
事の発端は、70AD神殿崩壊後ローマ帝国によるユダヤ人への迫害に始まり、同じくユダヤ人同様=モーセの五書=トラーを
生きる異邦人達にもローマ帝国は迫害、重税、処刑を課した事により、ローマ帝国の処刑から身を守るため、反モーセの五書、
トラーに書かれた特徴的な教えを生きる事をやめた!と言う立場を異邦人は取り、モーセの五書と、オリジナルヘブライ聖書、
タナック=トラー、預言書、諸書を教えるユダヤ人ラビ達に決別した。同時に1世紀後半から出現した反モーセの五書思想を唱え聖書から逸脱した独自の教え、ヘブライ思想、ヘブライ聖書ではない、ヘレニズム思想を土台とする西洋教父達の教え。その様な教え、パウロも警告していた別の福音!グノーシス主義の教えはまさにその西洋人達の教えの事であり!純粋な神の言葉ではない混ぜ物の教え=非聖書的な教えをする人達に指導され、洗脳され異邦人はユダヤ人グループの信者達とも2〜3世紀には完全決別し、異邦人のみで形成されるグループが出来た。それらを教会と言う聖書に無い造語で呼ぶならはじめの愛=婚姻契約=モーセの五書=トラーを離れたグループ<黙示録2:4>聖書には無い
教えを生きる事をする異邦人単独グループを作ったと言うのが
歴史の本物の事実です。
4世紀にローマ帝国により正式な宗教として認定され形となった西洋宗教<イエシュアはユダヤ人、イスラエルの神は西洋ではない、神の言葉は宗教ではない!>ローマ・カトリック教の土台となる教え、純粋な神の言葉=モーセの五書の教えを捨て、
西洋思想、異教の神々の教えを取り入れた合成された宗教の教えに異邦人グループは移行したのです。だから、モーセの五書に
書かれた教えや、記念日を祝う事を今もしないのです。
この事実を話しても、異邦人クリスチャンは、聖書に書いても
ない記述=神が神の教えと、神の記念日を昇天以降に変えた!と
本気で信じて、ローマ、西洋人が作った記念日が実践されています。異邦人が神の言葉を塗り替えた教えや人間創作記念日を、
神の言葉であると信じていますが、聖書だけに戻れば、自分の中に疑問が湧くはずなのです。
聖書に書いてある記述と実際に信じている事、やっている事が
どうして違うのか?1世紀当時の信者と現代ではどうしてやっている事、言っている事が違うのか?聖書だけに戻らず、人の教え伝統の教えを神の仰せであると信じているから、聖書に書かれた永遠の真実に気が付かないだけなのです。
神がいつ神の言葉、神のオリジナル創造の記念日、シャバットや
新月、春、秋の祭りが終了し、モーセの五書を捨て、聖書には
無い教え、記念日、日曜日礼拝、クリスマス、イースターを
これからは代わりに祝いなさい!と言いましたか?
イエシュアの遺言で”過越の祭りが来るたびにわたしのした事を
過越の祭の晩餐をして思い出して!”と言う遺言は、過越=神の
創造された記念日=レビ記23章、それを全て祝う=1年に渡りシャバット、新月、神の創造したオリジナルの記念日の全てを
どれも欠けず=シャロームの状態で祝う!と言うワンセットで
祝うと言う大前提があるのです。神の記念日を人が変えたり、
どれか1つだけ取り出して祝うと言う異邦人思想は聖書には
存在しないものなのです。
聖書の事実の点と点だけを繋げて行けば、人の教えと神の教えの違いがはっきり見えて来ます。
神の言葉は永遠と書いてある事が真実である事が分かる。
カトリックが過越の祭りで行う儀式を聖餐式と言う月一度の儀式に改造してしまったのです。聖書の事実を変えた聖餐式は、
本当は過越の祭りを祝う中でする儀式、種無しパン、贖いの杯でするものなのです。そして7日間の種無しパンを食べる週、
除酵祭と翻訳されていますが、昇天以降も皆シャバットと祭りを祝った記述がされています。
聖書のどこに神の教えや記念日が変更したと書いてありますか?聖書の中でその記述を探してみれば、その様な変更や新しい別の西洋人が認定した記念日に変更、祝いなさい!と言う記述など
1つもありません。1世紀昇天以降も聖書に書かれている信者達が生きていた教えは100%モーセの五書にのみであり、
ユダヤ人、異邦人、諸外国に居るイエシュア信者達が祝っていたのは、第七日目のシャバットであり、新月、過越、仮庵であることが書かれているだけです。聖書の記述を無視して、聖書では
無い解説、解釈を異邦人がしているだけです。
アンテイオコスのイグナテイオス2世紀最初に、日曜日礼拝を
認証したのです。人間が神の権威を勝手に奪った。いつから人間が神の権威を取り、神が永遠不変であるとした、神の教え、言葉や記念日を塗り替える権威を、神を退けて誰から与えられたのか?エデンの園のあの動物からですか?神の言葉を嘘で騙した。
イグナテイオスが認定します!と勝手に彼が宣言しただけで、
それは神からの仰せでも、宣言でもないのです。
どの日でも神が創造された日ですが、神は神の創造された特別な日、アポイントメントの日、モアデイムと言うものを神が創造して、人にそれを祝う様に教えているのです。
良いとか悪いとかではなくて、神が指定する日以外は、神が
招集していない日!特別な事を皆で思い出す日ではない。
人の世界でもどの日も結婚記念日、誕生日では無いでしょう?
毎日が記念日だったら、記念日の意味が無くなります。
特別な日=聖別された日=神の目的通りに分かたれた日、
それを通して福音の全て、人が新しくされている事実を、
その記念日で表されている福音の業の全てから、地上に於ける、
人生の旅路の全ての日を生きる様に神がデザインされているのです。
聖書の事実、歴史の中で起きた神の言葉を改ざんし続ける行為をしている事実から考えたら、神の言葉、記念日を否定する教えは、全て神から出たものではなく、人間が勝手に言った、
やった、今もやっているだけ!なのです。どの日に何をしようとも自由であり、集まりも自由です。でも神の指定した記念日以外は、それは神が招集している神が聖別した記念日では無い!と
言う永遠の事実があるのです。
みんながやっているからそれが神の創造した記念日と変更には
永遠にならない。7は永遠に1ではない!と言う幼子でも分かる事実にはっきり意識を向ければ理解出来ます。
人が1900年近く言っている、やっているからと言って、
それが神の真実に変身、進化するとはならないのです。
聖書の事実の前に立てば、人は神の言葉を否定するか、
それとも神の言葉を言われた通りに素直に受け取り、
それを実践するのか?2つの選択の前に人は立つのです。
命の木、知識の木、祝福と呪い、命と死が人の前には置かれて
それを選択する自由が与えられているだけです。
神の言葉を改ざんする自由など、人間には与えられてなどいません。
神から出たものでは無い、コピー品を生きる事ほど残念な事は
ないのです。本物と偽物=コピー品があったらあえて不完全な
コピー品を選ぶなんて事はしないと思います。分からないから、
偽物を本物であると思って偽物をありがたく手に入れるのです。
本物を奪われて、しかも人が作った偽物、神の仰せでは無い別物を生きるのは悲しい。それでは神の性質、栄光が、偽物のからは現れ出ない、正確な映像は浮かび上がらない、イスラエルの神を正確には表す、反映する生き方をしていないことになる。
神が伝える真実とは違うこと、嘘を伝えてしまう事になる。
本来体験できるエデン=喜びを奪われてしまうからです。
事実は、神が伝える事ではない、人間が創作した教えや、記念日を伝統により実行、実践し続けているだけです。でもその実践が余りにも長く、神の言葉を否定して、神が古い教えを終わらせたから2000年以降は違う新しい教えや新しい記念日を生きて
いるのだと疑いもせずに信じて実践しているだけなのです。
4世紀には、ローマ帝国皇帝、コンスタンチヌスがローマ帝国
拡大、支配目的のために作った時の合成新興宗教を作り、
325年、現トルコ<イスラエルではない場所>の町、ニカイアで異邦人有識者教父達のみがローマ皇帝に招集され、会合が開かれたのです。
その中に居た人達は全て、反モーセの五書支持の西洋人のみであり、ローマ皇帝に逆らう人は誰一人としていない、皆イエスマンその中にはユダヤ人はゼロ。その様にして出現した時の新宗教。その事実の上、神の創造した記念日も、別の日に正式に人が変更し、そして、ローマ教の使徒信条には、イエシュアが、使徒達が1世紀の信者達が地上でモーセの五書を教え、それを生きた事実はすっ飛ばされて語られてもいません。神の教えが様々に塗り替えられ、モーセの五書は蚊帳の外に追い出されたのです。福音書以降には1つもモーセの五書に反する教えや、新しい教えなど書いてありませんが、それを読む人はモーセの五書など知らないので、反モーセの五書ありきで勝手な空想の神の言葉を曲げる解説解釈をしているだけです。ヘブライの聖書を知らない人だけが
集まり、グノーシス主義、ヘレニズム思想から聖書を不正確に、勝手な斜め読みする教師に教えられる代償、弊害をつくづく感じます。
ローマカトリックでは10の項目=10の言葉、十戒と訳される
ものの中の”シャバットを守り、聖なるものとせよ”と言うのが
無い、プロテスタントも”安息日”とは言うけれど、それは日曜日の事であるなどと主張するのは、聖書の記述を曲げているからです!聖書の記述に照らし合わせて相違があるのは変だと思わない方が変なのです。そこまで盲目、冬眠状態に陥っているのは、
人の教えに洗脳されて聖書の事実が事実として受け取れない、
昇天以降どこかで神の言葉が変化した〜と勘違いの思い込みを
し続けているからなのです。
神が止まられた!創造が6日で終わり、第七日目に止まられた
から人も神と同じ様に止まりなさい。これが神の永遠不変の仰せなのです。完了の業の事実、その事を全創造物が神と共に祝う!神との関係に人が在る印の日と神が伝えています。
デイスペンセーション神学は、天では神の教えは無用だから
預言書に書いてある様々な事も異邦人には関係ない教えであると
主張しますが、神に造られた人間の性質、デザインは永遠に同じなのです。どこに居ようとも人の生き方=イエシュアの示されたトラーの生き方など変わらないのです。
人が救われたら天で喜びがある!と言う箇所がありますが、
これもシャバットに繋がる事です。天と地の聖徒全て!永遠の時の中で神と共に地上の全ての聖徒と共に繋がり祝う日!でもあるからです!
神が聖別された第七日目に、地上の世界中の神の子らが同じ様に祝う。日の出が最初に出る国は、ニュージーランドだそうです。
そして一番最後が、サモアこの時間帯が天と直結した全ての
聖徒とイスラエルの神と共に、神が創造された記念日を祝う!
と言う事実があるのです。
人の作った教えや、変更されて改造されてしまった記念日より
神がオリジナルに創造された記念日は命があり、意味がある。
神が人にそれを永遠に生きる様にと今も言われているからです。
神が言われている!と言う事実を考えれば見えます。神が言う
重大な事だからです。
人がそれを生きる時に神と直結し、神が人に栄誉を与え、
祝福してくださると書いてあります。神の声を聞く忠実なしもべ
神の子らと言われるのか、勝手な教えを創造し、生きるなら
わたしはあなたを知らない!知らない=婚姻関係の中には無いと言われるのか、どちらを願うのかです。
続く