神の言葉を取るか人間が作った教えを取るか? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エデンの園では、神の言葉から人の意識を遠ざけておいて、

神が言われた事とは違う事を伝えた地を這う動物の存在が

いました。

 

アダムとエバがこの動物の声の方を取った結果何が起きたでしょう?エバはこの動物の声に聞き入った、それをアダムが阻止しなくてはならなかったのに、その役割をすっかり忘れて死ぬ!と

神に教えられていた知識の木から食べた。

たかが食べ物、されど食べ物。食べる=人の命を繋ぐもの、

肉体的に、目に見えない世界=霊的自分の全存在を神のデザイン

通りに保つもの。

その結果、神と離れた場所の中に入ってしまった。

エデン=喜び=神の中から飛び出て、距離、別離、解離、隔たりの場所に入り混んで抜け出せなくなってしまった。

 

神の言葉、声、教えから離れると言う行為は、イコールこれらと

同じ現象が繰り返し今も起きると言う事なのです。

サタンの策略〜神の言う事、神の言葉、教えから人を常に引き剥がそうとしている事!そうすれば、神と密着出来ずに違うもの=別の教え=空の空に人は繋がってしまい密着するからです。

 

敵は、人間だけが神の似姿そっくりに造られている、驚くほど

素晴らしく造られた存在である事を知っている、神と直接つながる、神の中に存在する、神と最も親しい関係にある存在である、

祝福されている存在であるその事実にとっても妬み、どうしてもその状態から人間を引き剥がそうとしたから、あんな嘘を言ったのでしょう。

 

人が最初から神の似姿そっくりに造られた事を忘れさせたら、

どんな事が起きましたか?人が神の似姿そっくりである事実は、

神の言われた言葉=鏡に照らし合わせて知る行為です。

その鏡を壊す=神の言葉を破壊したら、神の意図する事とは違う歪んだ姿が浮き上がります。

曇った鏡では本当の自分が映し出されない。相手の本当の性質も見えない=相手、神を人を誤解し、関係が破壊される。

 

神の言葉を破壊すると言う事はこの様な効果をもたらすものだから、神が厳重に注意したのです。だから怒りの神、変身する神などと言う聖書に書かれていない歪んだイスラエルの神像を異邦人は言い続けているのです。聖書の記述から逸脱した誤解をして

いるからです。一点一画も、神の言葉に付け足し、差し引きするなかれ!この注意をエデンの園から歴史のコースの全ての道のりで同じ妨害をされ続けている事に気が付けば、神の言葉を捨てる事ほど愚かな行為、危険な行為は無い!と神の言葉からはっきりと気が付けるはずです。

 

最終的な権威を、神の言葉に置きますか?それとも人の思想や

人が考えた、神の言葉を塗り替えた教えに置きますか?

これはそれぞれが自分で神の言葉に向き合い、考えるべき事なの

です。しかもマタイ5でイエシュアが言われた通り、他者に

トラー=モーセの五書の教え、戒めのどの1つでも破る様に=

破壊する、捨てる、忘れさせる、退ける、消す、切る、

その様に他者に神の言葉から離れる様に教える人は、

天の国=神の前に一番価値の意味のない存在となる!!!と

はっきりイエシュアが警告しているのに、その警告に真っ向から

挑戦し続けて実行している教えが異邦人の世界で語られる、

”律法に戻るのか〜” ”神の律法は終わったのだ〜” ”神の言葉は今は生きる必要がない!”と言う教えです。

 

神の語る言葉、教え以上に人間に権威が与えられていると勘違いし、神の言葉の事実を塗り替えて解釈する、その行為が神の前にどう言う事をしているのか、何も考えないでいるだけなのです。

人の教えを最高権威とし、神の言葉を人の教えの横に全て置いて、神の言葉だけを最終的な権威としない信仰は、空の空、空想

架空の教えの上に土台を置く、砂の上に建てた家で例えられて

いる、いずれ崩壊する家、イエシュアの教えと同じ事をしていることになってしまいます。

 

もし神の言葉に根拠が無い教えなら、聖書=神の言葉の中から

だけ本当の答えを見出す事をし直す必要があるのです。

 

前回の記事の続きになりますが、異邦人クリスチャンの世界では

本気で神が昇天以降、神の言葉=モーセの五書と、その中に書かれている教え、そして神の記念日を別物に変更したと信じています。

それらは100000%聖書に何も書いてない、根拠も無い異邦人が編み出した教え!であるのに、その事に全く盲目なのです。

 

どうしてユダヤ人と異邦人は別の教えを生きて、別の記念日を

祝っていると考えていますか?神がそう言ったからですか?

歴代の西洋教父たち、19世紀以降ではダービーやスコッフィールドがそう言ったからですか?神がいつそんな事言いましたか?聖書のどこにそんな事が書いてありますか?

ユダヤ人は神の教えの通り1世紀のユダヤ人イエシュア信者、

異邦人イエシュア信者や一般のユダヤ人の様に、モーセの五書をそのまま生きる、異邦人は神の教えを生きなくて良いと神が

言ったからですか?

これはデイスペンセーション神学、19世紀に出て来た教え、

それ以前にも異邦人教師達が言った教えであり、それが聖書で

あると信じ込まれているだけ、それらは神の言葉ではなく、

人の教えを取り信じてそう考えているだけなのです。

それらは聖書に何も根拠が無い教えです。そして、異邦人は昇天以降、神が与えた新しい教え=聖書のどこにもモーセの五書以外の新しい教えなど1つも書かれていないのに、空想=聖書の読み込みで新しい教えが福音書以降の使徒の書簡に書かれていると言う幻想に基づき全てを語っている。そして、1世紀の使徒達、

ユダヤ人、極少数の異邦人信者はモーセの五書を破り、新しい

別の教えを生きて、日曜礼拝、クリスマス、イースターを祝っていたと信じ込んでいる。

 

そんな教えやローマ帝国が作った記念日など、1世紀には存在

などしていない、誰もそんな事を思いつきさえしていない、誰もそんなものを生きていない!!!4世紀まで、ローマ教と言う

カトリックの前身となるものは存在などしていないと言う聖書の事実が全く見えず盲目状態なのです。

1世紀の全ての人=ユダヤ人、異邦人イエシュア信者、一般の

ユダヤ人は、モーセの五書だけを生きて、ローマ帝国は太陽神

信仰、異教の神々の教えを生きて、異教徒達はそれぞれの神々のそれぞれの神殿で違う宗教儀式、記念日を生きていた!

それが聖書の事実です。

 

1世紀後半70年神殿崩壊以降、異邦人のグループだけ、反モーセ五書に寝返った。ローマ帝国の禁じるモーセの五書を生きる事で、異邦人もユダヤ人とみなされ、ユダヤ人に課せられた

4000ドル相当の純金で支払う税金、

ユダヤ人税=フィスカス ジュダイカス、支払えなければ事実上の死刑、それを逃れる目的で異邦人はトラーに書かれたイエシュアが教えた生き方から離れそして同時に異邦人西洋教父達が、

反モーセの五書の教えを唱え、異邦人信者にモーセの五書を生きる事を同じ様に禁じたから!と言う歴史の事実をほとんどの

異邦人クリスチャンは知らないと思います。

 

神が神の言葉を変えた!と言う嘘を信じているのです。

神の言葉を変えたのは異邦人!人間であると言う歴史の事実に

戻して考え直してみれば真相、真実が見えます。

神だけが人にどう生きるのかを教える事が出来るお方です。

神が人の生きる時、暦、記念日を造られた事が最初から書かれています。

 

創世記2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。

2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、

そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

 

出エジプト20:8 安息日=第七日目を覚えて、これを聖とせよ。

クリスチャンは十戒を唱えながら、9の仰せと1つの提案なるものに変形させています。安息日=日曜日だと疑いもなく信じていると思います。神は神の創造、デザイン、時、記念日を変更など
してないのです。
 

31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。

31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、

かつ、いこわれたからである』」。

<イスラエル=大家族の名字です。自分はイスラエルでは無いから関係ない!と言うならば、その人はイエシュアとは何も関係の無い人です。イエシュアの家族とは、神のトラーを生きる人!

とイエシュアも言われている通りです。神の家族とは神の伝える

生き方=契約の命の生き方に実際に参加する人、それが神の家族の神が伝える定義なのです。>

 

申命記 5:14 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、

はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。

<他国人もイスラエルと同様にシャバットで止まる!動物も止まる!神の創造物は神と神の創造物全部と一緒に最初のシャバットを祝った時と同じ状態で祝い止まる!>
 
マタイ12:8人の子は安息日の主である」。
WWJD?イエシュアは何を生きて、何を祝っていましたか?

 

ヘブライ語では、聖書の最初から読むと、翻訳では全く見えない

別の世界が広がって見せられている事に気が付けます。

人は神の中に造られている、エデン=喜びとは神そのものであり

想像をはるかに超えて理解し難い事が書かれています。

神が創造された通り以外、その性質、状態を離れて生きるから、不都合、別離が生じた。人は悲しみや痛み、別離を体験する様には造られていない事実があるのです。だから別離、神のデザインとはズレた傷を体験すると、苦しむ、痛む、それは神が創造した人間の成り立ち、デザインでは無いからです。人が傷つく事が

神のデザイン通りなら、痛みなど感じないでしょう。

痛みを感じるメカニズム=本来の状態では無い!と言うシグナルなのです。体も同じです。痛み、虚しさ、悲しさ、etc etc etc

 

神が全ての業を完成した!とある通り、全て=付け足すものは

何も無い!これだけで、福音が1つ、救済策も1つ=救いは1つである根拠になる鍵が書かれているものでもあります。

時代ごとに違う救済策があるのでは無い。最初から同じ。

全部ひっくるめて、ありとあらゆる状況に対処する全てを神は

最初から用意していた。永遠の中にあったものが、物理的に

この地上に全て現れた、それが創造の完了であり、第七日目に

止まったと言う事実です。

人は神が造られた全てから生きる。付け足し=人間の無駄な努力は不必要である事が見える記述でもあります。

 

神が止まられた!創造が6日で終わり、第七日目に止まられた

その事を全創造物と祝う!神との関係に人が在る印の日と

神が伝えています。神がされた通りを生きる!WWYD

 

 

 

続く