シャバットからシャバットへ生きる様に神は人を創造された事が
聖書の最初から書かれています。
聖別された生き方を生きるとは、シャバットで表されているのです。神との関係にある証拠、印である!と書いてあります。
聖別=神の目的通り神の中に世界と分かたれている事、
それが聖別の聖書での本当の定義です。
そして聖別と言う言葉が最初の使われたのが、シャバットに対してであるのです。聖別の意味は歴史の途中で変わらない。
聖書の最初から最後まで同じ。聖書に書いてある神の教えの定義の全ては途中で変化など無い。
聖書に書かれた救い、贖い、許し、恵、義、祝福、命、愛 ,命令
さとし知恵、仰せ、戒めetc etc 全て神の教えの定義は聖書の
最初から最後まで一貫して同じなのです。
異邦人クリスチャンの世界では、途中で神の言葉が変わると教えていますが、それは聖書に全く根拠の無い異邦人思想哲学神学
なのです。それはイスラエルの神は偽りもの!と間接的に言っている事でもあることに気がつかないとならないのです。
2000年前に別物の福音、別物の教え、別物の契約、別物の
2つの神の家族が現れ出たと言う神話を信じている限り
聖書に書かれた事実の点と点は永遠に繋がりません。
教会と言う異邦人造語翻訳用語=存在しない別のグループ=
異邦人グループと言う言葉も聖書には存在しないのです。
聖書には何と書かれていますか?同じ1つの家族、同じオリーブの木、同じイスラエルの羊の囲いに異邦人も加えられる!としか
聖書には書かれていなのです。イスラエルと共にエジプト脱出した少数の異邦人も同じイスラエルの12部族の中に数えられていると書かれています。イスラエルと共に住まう異邦人=同じ1つのイスラエルの神の大家族、同じイスラエルの神の同じ教えを
生きて、同じ記念日を共に祝う。動物も、使用人も全て止まり
神の家族とされている印の神の記念日を祝うとしか書かれていません。ユダヤ人と異邦人は別の教えを生きて、別の記念日を生きるなどと聖書のどこにも書かれてなどいません!
異邦人創作の非聖書的な空想話が創作され続けているだけなのです。それが聖書であると聖書から確認もしないまま伝統で伝え
続けられる人造の教えを信じ込んでいるのです。
しろやぎさんと黒ヤギさんのお手紙交換。
だから、集会、群れ=ケヒラ、カハール、エクレシアと言う言葉で表される同じ意味の1つの神の大家族である事実がクリスチャンの世界でまるで見えないのは、人が創作した神学、置換神学
デイスペンセーション神学などの人の思想=教えを通して
神の永遠不変の言葉、真実、ヘブライ語言語から語られる本来の
意味が曲げられ覆い隠され続けている教え=別物の教え、別の
グループが出現したなどと信じてしまっているだけなのです。
神は2つでは無い。聖霊に最強、劣るなどレベルものない。
神には変化や、移りゆく影もない。人間も進化変化しない。
神は人の内に住まう性質は創造の最初から同じ。
人は神の中に造られ、エデン=喜び=神の中に存在し、神の性質=息=ルアフ=聖霊を神から直接吹き入れられ生きるもの=
ネフィィッシュとなって現れ出たと書いてあります。
神と隔たりがある、エデンの園を飛び出した人達は、イエシュア
に繋がり元の自分を取り戻す以外、このスイッチはオンにならない。眠った、停止状態であるだけなのです。時代ごとに別の二つの福音や別の教え、義の基準、二つの救いの方法などない!
道=イエシュアは1つ!と言う事実しかない。
神が世界の全てを造られた。神が全ての創造物が生きる時を
造られ、人には神の特別に設けられた時=定めの時=記念日を
与えられた事が書かれています。世界は神の暦など生きないのです。神の暦、神の記念日を生きる人はイスラエルの神の家に加えられた印を得て、その事実を神の記念日で祝い生きると書いて
あるからです。
人は神が伝える神の思索、考えを聞いて受け取るだけ、神の伝える考え、思索、教え、言葉を人間が曲げては神が直接伝えている
神の中にある深い様々な思い、考え、思索、教えは伝わらない、
神の伝える事を神の言葉から聞こうとする事を拒絶する人には
神の意図は通じないものなのです。
だから、聖書を曲げて読む事、書いてある事を意味通りにとらえないで、勝手な解釈をする事、それらをしていたら本当に本質が
曲がってしまい、神が伝える真実は見えなくなります。
シャバット=完了の業から生きる。神が備えたもの、性質から
全ての時を生きる。それがシャバットで止まる醍醐味であり、
その日は本当に日常の雑事を置いて、神を中心に大事な家族や
友人と顔と顔を合わせる、神のされた贖いの業を思い出し、
神の言葉を学ぶ。フェローシップをする、そして何より
そのフェローシップ、神の記念日には、必ず美味しいご馳走が
付き物です。
日本の宴会や、集まりや、パーテイ、祝い事には必ず特別な
ご馳走が用意されて皆でそれを楽しみますよね。
美味しいものを実際に味わう、食べて幸せ〜と思うでしょう。
五感を通して神の造られた素晴らしいものを実際に体感、
体験する。神は食べる、飲むことを通して聖別の意味を教え
そして食べる楽しみを皆で体験する事で神がどんなに良いお方か
知るようにと書いてあります。お金を取り分けるのは、
神の記念日を祝うために使うためとも書いてあります。
神の家の食卓=祭壇には必ずご馳走があるのです。
その祭壇で教えられるのは、神により新しくされた人は、
神の中に受け取られ、喜ばれている事が祭壇の上で行われる様々な捧げ物=テルマを通して表されているのです。
その中の1つに”オラー”の捧げ物があります。
焼く尽くす生贄と訳されていますが、オラーとは立ち上ると言う
意味です。傷のない動物を神が下した火で焼く、神により純化され、きよめられている事実を表している。
神によりきよめられている、純粋な元の存在とされている、
その事実をバーベキューされた肉から立ち上る香ばしい香りと、
そしてその煙が天に昇る様子を見て、その煙は天の中に消えていく、神の中、天の中に受け取られて喜ばれている事を教えているものです。五感で体験して見て、匂いを嗅いで食べて体験する
新しくされている事実、神に喜ばれ愛され受け取られている事実を知る。
神の前に神の意図通り全ての事を生きる事、それが礼拝の意味の
中心です。生きる中心、日々の全ての行動=それが礼拝の本当の意味であり、そして神の記念日に神の前に皆で出て神の子らと
されている事実を喜び、楽しむ。
神がされた業、贖いの業、子羊の血で贖われ、洗われている事実を思い出す。そしてシャバットで止まり労働出来ない間も
神が備えて下さる、神が全ての事を神の時の中で治めている事実を実際に体験するのです。
そしてそのシャバットで教えられている状態=神の中に、神の
備えて下さった全ての中で、安息して信頼して神の性質通りに
生きる事を第一日目から、第六日目を引き続き生きる、
それがシャバットからシャバットへ生きると言う意味であり、
醍醐味であるのです。
人は日々の生活の中で雑事で忙しく、互いの間の関係や神の
言われた事を皆で集中して意識を傾けると言う時間は取れません。創造の最初の状態に皆で戻る!でもこの日、神が定めた日に神が言われた通りに神の前に生きる時、神はその事に大いに敬意を払い、祝福して下さると約束されています。
神は神の伝える教えを生きる人を祝福すると言われたからです。
西洋人=異邦人クリスチャンの間で、何故神の言葉が寓話化、
比喩、たとえとして実際に書かれている意味を曲げて解釈されたのか、その根は初代西洋教父のヘレニズム思想に汚染された
教えを通して、神の言葉の真実を曲げて行ったからです。
ヘレニズム思想を学んだ人達が語る聖書解釈、思想、
ヘブライの世界のトラーではなく、ヘレニズム思想を通して
聖書を解説する異邦人の教えを継承する人達が、彼らの思想に
沿った教えを世界へ伝え、それが聖書だと思われてしまっているのです。
プラトンと預言者エズラが同じ時代に生きていたのを知って
いますか?イエシュアが生まれる前の数百年の間、ヘブライ人の中にギリシャ思想、ヘレニズム思想が浸透して来たのです。
簡単に言うと、ヘレニズム思想は、哲学思想を語る世界で、
実際に神の言葉を生きる事とはかけ離れた教えをしています。
モーセの五書、ヘブライとは異質の思想サイト
4−5世紀には、異邦人は完全にユダヤ人とモーセの五書と決裂し、モーセの五書を否定する教えを唱える異邦人教父達を教師と立てて、クリスチャングループと呼ばれる独自のグループが
形成されて行ったのです。だからシャバットや神の祭りを祝わない、モーセの五書を否定する、ローマ帝国が編み出した別の教え別の記念日を祝う様になったのです。神が変えたのではない、
人間の思想、別の教えに異邦人は移行して乗り換えた!
これが本当の事実。
ここで確実に覚えておかなくてはならない事があります。
神は嘘つきではありません!神は神が約束された事、語られた
教えを途中で変える様な不真実な神ではないのです。
本当にイスラエルの神に対する誹謗中傷、冒涜そのものの教え!
もしイスラエルの神が移りゆく影があり変化し、神の言葉を変えると言うなら、それは聖書に書かれたイスラエルの神ではなく
信頼に全く値しない神となるのです。
それに憤りを感じるのです。神を愛すると言いながら、
神ご自身の考え、思索の中心である言葉を破壊する教えを正義のごとく平気で唱えさせる教え、危険な思想に何も感じないほど、
人の教えに頭脳が汚染されてしまっているのです。
アウレリウス・アウグスティは、プラトンに傾倒しプラトン哲学を学んだ弟子です。
その様な異質の思想を持つ人が語る思想は、聖書=ヘブライ思想とは異なる思想の土台を持っているのです。
この様な考えです。私たちが見るもの、聞くもの、触るもの、
感じるものはリアル、現実ではないと教えるのです。
リアル、現実は思想、考えであると言うのです。
考えが何よりカウントされる。ではお腹が空いたら、考えがあれば満腹になるのでしょうか?変な思想です。分断思想。
霊と肉体と精神は分けられる存在ではない、全部繋がり1つ。
だからこの様な思想の基づき、聖書に書かれていることも都合の悪い事、理解し難いことなどすべて寓話、比喩として解説して
しまっているのです。
だからクリスチャンの間では、昇天以降どの日もシャバット、
どの日でも神の記念日として祝えば良いなどと言う非聖書的で
ありかつ神が言ってもない事を聖書の真実などと平気で解説しているのです。パウロがモーセの五書を否定する教えをするわけがないと言う事実にさえ聖書から全く気が付けないまま聖書を
誤解して読み続けてしまっている。
そして置換神学を信じる人は、物理的なイスラエルの国は無用
イスラエルも無用、今は全ての人が祭司、だから神殿も無用、
イエシュアも実際に地上で世界を統治しない!と言う教えを
しますが、それらは預言書を全部寓話、比喩的に解説している
からです。
続く