救い主が来られる2000年前まで聖霊が人のうちに住まわれなかったと言う神話 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖霊が人の内側に働き始めたのは、イエシュアが地上へ来られた後からであると言うのを異邦人クリスチャンの世界では普通に

聖書の事実であるが如くに教えられています。この思想に基づいて、神の霊は神の業を個人個人信じる者の中にイエシュアが

地上に生まれて以降初めて開始されたと教えます。

 

昇天以降、過越の祭りに続く春の最後の都上りの祭り=

シャヴオートで聖霊が初めて注がれ、聖霊はそれ以前には

不活火山の活動停止状態のごとく、聖霊は働いていない、

稼働していないと教えています。

この様なポピュラー、異邦人思想には受けが良い人造神学=思想は、古代イスラエルのある個人の中だけに、預言者や、王や

熟練工や学者と言う人達の中だけに聖霊が与えられたと言う教えをしています。

そして普通は聖霊は信者の中には住まわれていなかったと

異邦人の世界の教えでは教えられています。

聖別も教えられず、聖霊も個人の内側には存在しないと主張しています。

 

でもこの思想の見解のポイントを考えて見ると、この思想が不適切、真実ではないことは聖書に照らし合わせれば即座に見えます。

 

この様な思想は、聖書に対して、神が解説する、伝える真実に

対して人間が異議、反対意見を主張している事になるのです。

それは2つの別の救い=2つのイエシュア、二つの福音が存在

すると言う事を言っているのです。

そして、聖書の中には救いは罪の赦しだけに関してだけなどと

言う書かれ方はしてはいないのです。もっと広く深い全存在の

修に関して果ては全創造物の回復、修復にまで至るからです。

 

神の救いのゴールは神の目的通り、神が意図して創造した通りの

姿を回復、修復する事なのです。

 

レビ記19:1 主はモーセに言われた、

19:2 「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、

『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、

あなたがたも聖でなければならない。

1ペテロ1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて

聖なる者となりなさい。

 

神の救いは罪人に対しての、逃れ道、避難用具的なものではないのです。神の創造された人々が神の中に住まう事に完全に

フィットするための神の働きです。神は別物、汚れとは決して

相容れない、混じり合うことは不可能だからです。

わたしが聖である様に、あたなも聖でなければならないと言う

神が言う言葉は合点が行くでしょう。人間的に考えて、神は愛だから汚れもなんでも受け入れま〜すと言うのが神であると考えていたら見えません。毒を内側に取り入れたら人は死ぬでしょう。

それと同じです。毒、ゴミ、ウイルスを取り入れられない。

神は嘘つきではないからです。

別物と妥協して共存出来る存在ではないからです。

神の性質は永遠に変わらないのです。

 

神が人に要求する聖別とは神の中に住まう事の絶対的必要条件なのです。多分こう考えると分かります。汚れた状態では、

神の前に立つと被曝してしまう!そう言う事です。

内側に住まう聖霊だけがこの状態を可能にするのです。

まことに救いの全貌は神に与えられた義を内側に得る事、

それは神が提示するきよめを通して、それは使徒が解説した

通りと同じ神の聖霊の業を通してです。

 

”救いのモデル”パウロはアヴラハムとダビデに関して書いています。

ローマ4:3 なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。

 

古代の全ての人達の救いを得る方法は今と全く同じなのです。

アヴラハムは同じ様に神の言葉を聞いて、イエシュア=救いを

内側に得て体験的に救いを知っていた。ダビデも同じです。

 

ヨハネ8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を

見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

 

パウロが救いの業をどの様に表現しているか見てください。

ローマ2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、
そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
 
この”文字によらず”と言う下りを読んで、トラー=神の教え、
言葉=インストラクション=モーセの五書は無意味、殺すなどと読み違えてはならないのです。割礼が無い頭脳=神の聖霊が内側にない、その場合には、どんな文字や言葉を読んだとしても、
神が伝える真実は頭脳にその通りには響かない壁があると言っているのです。
 
頭脳に割礼とは、聖霊を受けて、神が見る通りを見る=その状態は知識の木から食べて別の見方を学習した以前の状態、神の見る通り、神が語る通りをエデンの園で聞いて理解していた元の状態
神の似姿その通り、神の言う事をその通りに聞く状態、見方、
意識、理解に戻る!と言う事なのです。

 

申命記10:16 それゆえ、あなたがたは心=頭脳に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

30:6 そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。
 
ここで割礼、聖霊を受けた、イコール神の言うことがなんでも
理解出来るという事ではないのです。神の言うことを神が見る
通り、伝える通りに理解するには絶対条件があるのです。
神の言葉を、神が伝える通りにまず捉えること、理解すること!
神の教え、言葉を常に常に追求し、求め続ける事、知り続ける事。これ無しには見えない神の伝えている真実の数々があるのです。
自分は知っている、理解していると考えていた事柄が実は聖書とは何の関係もない人間=異邦人が編み出した教えである事に気がつくには、聖書に書いてある本当の意味を知る!それがなければ
不真実と不真実の教えの点と点を繋げてみても神の語る言葉の
真実など見えないのです。
だから、神の言葉は歴史の途中で変わった、聖霊は2000年前まで人には与えられていない、神の性質は時代ごとに変わる、
神の義の基準も変わり、救いの方法は2つあるなどなどなど
非聖書、反聖書的思想を信じていても、それが聖書に書かれている事実などではない!と気が付けないのです。
 
エレミヤが人々に頭脳に割礼を受ける事を同じく推奨しています。
エレミヤ 4:4 ユダの人々とエルサレムに住む人々よ、あなたがたは自ら割礼を行って、主に属するものとなり、自分の心=頭脳の前の皮を取り去れ。さもないと、あなたがたの悪しき行いの
ためにわたしの怒りが火のように発して燃え、これを消す者は
ない」。
 
人は神=聖霊から離れていては、 トラー=モーセの五書に
書かれているイエシュアの実態が見えないのです。

 

2コリント3:15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。

3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。

 

もし古代の時代に贖い出された人達が今の私達と同じ様に

イエシュアにある信仰により救われた事実があると言うなら

それは、聖霊がトラー=モーセの五書に書かれたイエシュアの

事実を神が彼らに示し、明らかにし、彼られの内側の目を開き

イエシュアに気が付かせたと言う事実以外にないのです。

聖霊を離れては、神の教えは単に人に罪悪感を与えるだけ、

希望もなく、絶望感しか与えないのです。なぜなら、それは人間的には、ずれた状態を回復して元どおりの自分で生きることは

不可能だからです。

 

ローマ 8:1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は

罪に定められることがない。

8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

どうしてダビデはトラー=神の教え、インストラクション=

モーセの五書は聖霊を内側に受けないまま、人を修復、回復、

生き返らせる事が出来得るのでしょう?

詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、

主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

なぜダビデはモーセの五書のみからこの様な知恵を理解していたのでしょう?聖霊が内側に住まっていたからです。

神のトラーを生きる必要条件は、頭脳に割礼を受けている、

聖霊を内側に受けた人達が聖霊により聖霊で書かれた、

聖霊そのものである神の性質を生きる!と書いてあるのです。

 
ローマ8:9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。
もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人は
キリストのものではない。

 

聖霊を内側に持たない人は神のトラーを素直に受け取り従順には

なれないと書いてあるのです。古代の人々で神の教え=トラーに従順に聞き、生きた人達は、真実な信仰を内側に得ていたのです。彼らも同じイエシュア=救いを知って=体験的に聖霊を受けて知って生きていた!その事実に気が付けば見えます。

救いの方法、道は1つしかない!と聖書にあるでしょう?

クリスチャンも道は1つと言うでしょう?

その道の詳細はモーセの五書に書いてあるのみなのです!

2000年以降別の救いが与えられたと考えている限り、神の永遠不変の言葉、変わらない救い=イエシュアが見えません。

 

トラー、預言書にイエシュアが書いてあると見えないのは

その中身を学ばないからです!それが本当の問題!

その中にイエシュアの深い詳細が書いてあるからです。

 

肉の行いは死に繋がるだけで、命には至らないと書いてあります。

ローマ8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

 8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。

 

古代イスラエルは肉の行いで死に至らしめられましたか?

そうではないなら、彼らはどの様にして個人個人神の与える

聖別を得ていたのですか?

 
ローマ8:16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、
わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
 
神の子らである証は、聖霊が与えてくださるとあります。
古代のイスラエルは、出エジプト=罪の奴隷、偽の神から解放されたイスラエルと少数の異邦人は神の国の民!としてイスラエルの国民となった人達です。イスラエルの民=神の子らです。
 
古代の信者は、彼らは神の子らである事を自覚していた?
知っていましたか?もちろん!知っていたのです。
知る=ヤダ=体験的に知る、内側の深いところで、神との関係の
中で知る!と言う意味の知ると言う言葉が使われているのです。
古代のイスラエルを通して、聖別のモデルを私達がフォローして
生きる様に教えているのです。その詳細が神の家の神殿の中で
教えられているものでもあるのです。
 
続く