最初からイエシュア=救いが与えられ聖霊が人の内側に住んでいた事実 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2ペテロ 2:4 神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、

彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。 

2:5 また、古い世界をそのままにしておかないで、

その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち
八人の者だけを保護された。
2:6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、
2:7 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。
 
ヤコブ5:17 エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、
雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月の間
地上に雨が降らなかった。
 
ローマ4:16 このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、
トラー=モーセの五書に立つ者だけにではなく、アブラハムの
信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。
アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、
 
ローマ4:19 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
 
1ペテロ3:6 たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と
呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。<ヘブル11章>
 
聖霊は私達の祈りの中で助けを与え、神の前に神のみ旨に沿った
リクエストを受け取って下さるのです。いつの時代も同じ。
 
ローマ8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて
下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
 
古代の信者達には、神は祈りの中で同等に助けて下さらなかったと言うのでしょうか?もしそうであると主張するならば祈りとは
どんな意味があるのでしょう?エリヤの祈りが聞かれた様に。
彼ら全て内側に聖霊を受けて、創造主である神に祈っている
前提があるのです。
いかなる人間も、神の聖霊が掲示する事実=神の言葉を
離れて、神の考えを知る事など出来ないのです。
 
1コリント 2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。

 

古代の人は神の考えを知っていたのでしょうか?永遠に変わらない、神は約束を神の教えを変えない、その神に聖霊に在って

どの時代の人も祈っていた事実が聖書には書いてあります。

もちろん古代の時代に生きた彼らは知っていたのです。

それはトラー、預言書諸書に書かれた神の言葉を通して

イスラエルの神、イエシュア=救いを知っていたのです。

今と同じです。私たちも肉眼で見ない神を神の言葉を通して

知る事が出来るのです。

 
1コリント 6:11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、
またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、
義とされたのである。
 
義とされた事実はいつの時代も同じです。
福音の中心は最初から同じで聖書の最初に書かれています。
 
創世記15:6
 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。
 
そして、聖霊に在ってのみ、人は肉の実態を克服出来ると神が
伝えているのです。
ガラテヤ 5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。
そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
 
古代の信者はきよめられていない、聖別されてなかったのですか?彼らは肉を克服する事が出来なかったのでしょうか?
永遠の命とは、聖霊のより生み出された義を通して得る事が
出来るものなのです。
 
ガラテヤ6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。

 

 

 
テトス3:5 わたしたちの行った義のわざによってではなく、
ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により
新たにされて、わたしたちは救われたのである。
 
古代の信者は救いを得ていましたか?救いは再生の洗いを受けてのみ、そして聖霊による新しい再生のみ得る事が出来ると書いてあります。到達する唯一の結論は聖書に書いてある通り、使徒達が言った通り、古代の人々も同様に聖霊により新しくされていた永遠の命を受けていた、どの時代にも同じ神が存在し、同じ神の性質、神は人の内側に住まうと聖書に書いてある通り同じ性質の神がどの人も時代を超え、人種を超え、時空を超え同じ聖霊=
同じ救い=イエシュアが住まわれて、与えられていた事実しか
聖書には記されていないのです。
 
聖霊は現在有効、活動している通り、古代のイスラエルの人達の中でも同じに有効、実在し活動していた記録しかありません。
 

聖霊の働き=人が聖霊により新しくされると言う事実は

聖霊によりきよめられ聖別される実態は、イエシュアが地上に

来られる前と後とではこの事実は何も変わらない。

イエシュアの業は永遠の中に既に完了して存在しているからです。これが創世記の最初、神が全ての業を完了して止まった!!!と言う事実の中に書いてあるのです。後から付け足す

もの何も無し。永遠の中に全てが完了され存在している!

その事実にアクセスするだけなのです。

 

ヘレニズム思想の様に時系列で考えるから見えないのです。

聖書には、永遠からの事実が書いてあるからです。

 

シャバットからシャバットへ生きると言う意味もこの事にあるのです。神の完了の業から全ての時を生きる!

 

そして使徒2章は、シナイ山での最初のシャヴオートを表しています。イスラエルが代表として受け取った婚姻契約。

出エジプト=奴隷=偽の神々の奴隷から贖い出され、救われた人達が受け取った神の家の家族として生きる家訓。

それが今度は全世界へ!アヴラハムを通して与えられた同じ福音

義とされて神の祝福を生きる事、それがアヴラハムを通して

世界の全ての民族も同じ義とされ、同じ祝福を受け継ぐとある

そこに繋がるのです。全ての人は同じ方法、贖い、救いを通って

イエシュアを内側に得て新しくされている事実は変わらない。

福音は1つ、道は1つ、イエシュア=救いは1つとクリスチャンも言うでしょう。どう言う意味で言っているのか聖書から確認する必要があるのです。1つの方法=それが聖書に書いてあるのにどうして2つ別種時代別の変化する義、変化する救いの方法、

内容などと言う聖書に根拠がゼロの人造思想哲学神学を神の言葉と同等にして混ぜて混同し誤解しているのでしょうか?

それは聖書ではない!人種別時代別の別の救いの方法など聖書にはない!同じ救い=イエシュアしか書いてない!!!

 

使徒2章で初めて聖霊が降ったと誤解するのは、聖書の最初を

読まない、書いてある意味通りに学ばないからです。シナイ山の出来事の方がずっとすごい事だったのです。なぜなら、その記念日自体が神の創造された記念日=トラー=婚姻契約が正式に

文書として与えられた日を祝う日であり、天が直接シナイ山の

山頂まで降りてきて、雲の中で70人の長老がイエシュアと直接顔を合わせて共に契りを交わした契約成立後の晩餐会までして

いるのですから。

 

主の日とは、レビ記23章の神の記念日、そして神が特別な業をされる時の事です。使徒2章の出来事も今度は世界へトラーが

運ばれ伝えられる、そして使徒達が地上で見たイエシュアの生涯を聖書として書き記す、特別なミッションを請け負う為の特別な

聖霊の働き、力、知恵が必要だったのです。

だから、その約束の力を得るまで、使徒達は都に留まり

シャブオートの祭りまでエルサレムに滞在し続けなさいと

イエシュアが言われたのです。意味が見えますか?

過越から7週間、7回のシャバット、新しくされた命=初穂が

成長する過程をたどる7週を過ごした意味。

7=完了を表す数字。

 

考えてみると分かります。福音の出来事、イエシュアの業を

表す全てはレビ記23章の神の記念日にまつわる出来事です。

人の救い、贖いの過程はどの時代も同じだからです。

過越の祭りでイエシュアが過越の小羊として屠られた。復活の命を表した。子羊の血を受ける決意をした人は新しくされた。

鴨居に子羊の血を塗らない家の初子は死んだ。

死=奴隷の生き方を断つ事をエジプトの初子は表しています。

新しい命=イエシュアの命に繋がる人達は、子羊の血を家の鴨居

に塗る決断をした人達。絵画的教えでしょう。見えます。

2000年前の過越で屠られた子羊の血を受けた人=救いを受けた。エジプトに居た人達、イスラエルと少数の異邦人、同じ子羊の血=イエシュアの血を表す実態を受けた人達、救われた。

 

同じ事を神が教えているのが見えますか?まだ未来に見ぬ

イエシュアをアヴラハムは見てその日を喜んだ!とあるのは信仰により同じ義、救い=イエシュアを受けている実態が内側にあり聖霊が内側に住んでいたから様な理解を神の言葉から受けていたからです。同じ!どの時代にも同じ!道、救いは1つの同じ方法しかない。1つで内容は同じ、イエシュアを内側に受ける事以外にない!と言う聖書の事実だけに立たない限り、変形創作の人の教えに遮られて永遠不変の神の真実な業、真実な言葉が見えなくなるのです。

 

これらは既にエデンの園かの最初から教えられ、神の記念日で

祝われている内容です。シャバットはその中心です。

シャブオート=ペンテコステを祝うとは、その日はシャバットとして止まり祝うのです。何も変わってなどいないのです。

シャブオートは異邦人の世界では祝われない、都上りの祭りの

1つでもあるのです。過越、シャブオート、仮庵みんな同じで

繋がっていて、イエシュアの業を表しているものです。

永遠に祝うべきわたしの記念日と神が言う言葉を信じるのか?

それともローマ帝国が作った別の教えを信じるのか?

それはその個人個人次第ですと言う事なのです。

復活の命は過越の3日後 初穂を捧げる日で表されているのです。

聖霊の業は太古から最初から同じです。人は聖霊により上から

生まれる、イエシュアの業の実態を信仰により受け取る。

これ以外の救いの方法は無い!と聖書で説明しているのに、

異邦人クリスチャンの世界では2000年前までこれは活性化されていない、有効ではないと聖書とは違う解説をしているのです。

異邦人の世界の聖書解釈的推測で、イエシュアは別の聖別や別の教えをしていたと誤解されている内容は全て100%却下すべきものです。

 

続く