神の考え思索を人間の理解出来る言葉で神が伝えている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音書以降だけを読んでも、神が人に伝えている教えの深い詳細は見えないのです。なぜなら聖書の最後の30%には、神の教えの全部の詳細など記されていないからです。完全版は聖書の最初

に全てが記載されているのです。聖書を書いた全て100%の

記者はモーセの五書を土台に、そして福音書以降の聖書記者=

使徒たちは、モーセの五書とそれに付随する預言書諸書だけを

指して語っている事実に気がついて下さい。

 

預言書、諸書の著者は100%モーセの五書しかテキストは

持っていません。だから全て100%モーセの五書だけを指して書いているのです。

福音書以降は、1世紀にはほぼ全ての聖書=創世記〜マラキが

揃っていたので、福音書以降の記者は、トラー、預言書、諸書

を指して福音書以降の全てを書いているのです。

福音書以降を書いた聖書記者達のテキストは、トラー、預言書

諸書だけ!と言う事実に立って、聖書の全てはモーセの五書を

指して話している!と言う事実だけに立って聖書を読めば

永遠不変の神の真実は見えて来ます。

モーセの五書以外の別の教えや、別の福音はない!モーセの五書が否定されたり、反対する教えや改造された教えなどない!

あると言うならそれはイスラエルの神の言葉ではない、

別の神々の宗教の教えです。

 

福音書以降は人が生きる上での全部の詳細が書かれていない、

愛の姿を生きる詳細の細かいことはモーセの五書に詳しく書かれているからです。創世記ではナレーション形式で書かれています。様々な人の人生、出来事を通してイエシュア=救いが書かれています。

出エジプトは救い、贖い、そして贖われて新しくされた人達が

この世の旅路で神の似姿を再学習する内容が実際にイスラエルが荒野を通って40年生活した記録から語られ、教えられています。イエシュアの中に住まう実態は、シャバットを通して、

神の記念日を通して、神のミシュカン=移動式神の家を通して、

クリアーに教えられています。神の臨在が地上に現れ出た。

目に見える形で、ミシュカンを通して、マナを通して、

水が溢れる岩を通して、火と雲の柱を通して、様々な形で神の

臨在を体験したのです。

民数記、レビ記は礼拝、神と人との修復、人が以前の自分の中にある傷ついた数々の記憶体験を、神の教える通りのプロセスを

通って新しい人として古い人の傷を修復する、癒しに至るプロセスが書かれているのです。聖別の意味、神の家族として生きる

全てが実際に神殿で教えられる詳細が書かれています。

だからモーセの五書を読めば、神の伝える人間の生き方が何かを知る事が出来るのです。出エジプト以降には、神に贖われた人として、コミュニテイ、民族全体で神の家族、神の国の民を生きるのかその詳細が書かれています。

 

申命記は契約書のフォーマット完全型そのもので全て書かれています。古代中近東に実際に存在する契約書形式で申命記は書かれています。これにより、この契約書の内容は、婚姻関係にある

内容である事が分かるのです。そこに書かれている用語は

婚姻用語を使われているからです。だから聖書に書いてある、

愛、娶る、裏切る、姦淫などなどと神が伝えている言葉は、

婚姻契約の実態を破る生き方をしたイスラエル<少数の異邦人>

に対してその様な言葉で書かれています。

イザヤ書を読めば、婚姻契約を破ったので法廷に行って、何が

どの様にずれているのか語りあおう!と書いてあるのです。

 

全ての預言者も諸書もモーセの五書だけを土台に預言書、諸書を書いています。ダビデの教科書はモーセの五書のみです。

詩篇119はモーセの五書の中に書かれているものが記されています。知恵、戒め、さとし、命令、教え、etc etc それらの言葉は全て100%トラーに記された教えを指している同義語です。

だから、教えとか知恵、戒めと言う言葉は100%トラーである!と言う知識を得る必要があります。聖書のどの箇所も全て

100%モーセの五書を語っているからです。

ダビデは明らかに、福音、救い、贖い、赦しの全貌を体験的にも知っていた、神の言葉から知っていた事が詩篇には記されています。

聖書に記されている救いの中身は全て同じです。時代ごとに変化しない、なぜなら神は同じことを語り続け、同じ1つの福音、

同じ1つの道、救いしか与えていないからです。

時空を超えて救いは1つ、内容、実態も同じなのです。

どの時代も信仰により受け取り、聖霊を内側に受けた!

その事実だけしかないのです。何も変化が無い。別の種類の救いや福音、別の種類=霊的レベルが違う神=聖霊なんて存在しない。この事実が異邦人に見えないのは、トラーに書かれた内容、

預言書の内容、諸書に書かれた内容を知らない、福音書以降が

最新式の教えだと本当に誤解し勘違いして、最初の部分を学ばないから見えないだけなのです。

ちゃんと聖書を書いてある意味通りに知れば事実が見えてきます。同じ教えしか書かれていない。聖書の全てはモーセの五書を書いている!と言う事実がはっきりと見えてきます。

 

神のトラー=モーセの五書は、頭脳に割礼を受けた人=良い地=

神の言葉を理解する頭脳に種=神の言葉が撒かれ、それを実際に生きる人が御霊の実を付けると書いてあるのです。詩篇1章

 

もし人が本当に霊的な生き方をするなら、それはその人の生き方=神の言葉に根付いた生き方であると聖書には書かれています。

もし人が霊的であると言いながら、同時に神の教え=言葉に聞かない、反する生き方をするなら、それは自己騙し的生き方であるのです。実のならない木は切り落とされて火にくべられると書かれています。神の言葉=教え=トラー=モーセの五書には全く

同じ事が書かれています。

神の教え=言葉、インストラクションは、人の生き方が神の言葉に治められて生きることが出来るには先ずは頭脳に割礼を受け=割礼=神のものとして新しくされ、神の言葉、教えが刻まれなくてはらないとあります。

 

申命記6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心=頭脳に留め、

11:18 それゆえ、これらのわたしの言葉を心=頭脳魂=全存在におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、

箴言4:23油断することなく、あなたの心=頭脳を守れ、

命の泉は、これから流れ出るからである。

 

神の教え=トラーは頭脳に割礼がある状態=神の聖霊を内側に

受け、神の言葉に目覚めている状態である必要があるのかを

を説明している事が分かります。

 

申命記10:16 それゆえ、あなたがたは心=頭脳に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

30:6 そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心=
頭脳に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろ
エゼキエル11:19そしてわたしは彼らに一つの心を与え、
彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。
実=実態=行いの伴わない信仰は虚無、空虚と書いてあります。
 
ヤコブ2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。
その信仰は彼を救うことができるか。

2:15 ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、

2:16 あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。

暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、

それだけでは死んだものである。

 2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には

行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いに

よって信仰を見せてあげよう。

パウロは人々にトラー=神の教え、インストラクション=モーセの五書を聞くだけの人ではなく、神の言葉、教えを実際に生きる

人が義とされた本物の生き方であると言っています。

 
ローマ2:13 なぜなら、トラーを聞く者が、神の前に義なるものではなく、トラーを行う者が、義とされるからである。
 
ここでパウロが語っているのは、トラーを行う事で義とされる
実態=救いを獲得すると言う事を言っているのではない事を
知って誤解した読み込みをしない様にしてください。
神の言葉を聞いて受け取る=信仰により義とされた=イエシュアの命を頂いた実態を実際にイエシュアの性質=トラーを生きる人が本物の義人である!聞くだけで、神の教えを実際に生きない人は義人としての生き方をしていない、神の義の実態の伴わない
空虚な生き方をする、聞いてるだけの人は義人の生き方をしてないよと言っているのです。
み言葉=聖書=神の言葉は、一貫して同じ教えを貫いて伝えています。神が人の内側、頭脳、思索を変えた、そして救われた人は
同時に行動にも変化があると言う事実が伴わないと空虚な信仰を
持っている、思想だけの世界に生きているだけと言う事です。
 
神を愛するとは単なる内側の理解、解釈に留まる扱いをしていますが、愛するとは、愛しま〜すと口で言うだけ、アイドル写真を眺めて愛しま〜すと賛美すること、感情の話ではないのです。
愛とは契約の愛=神の伝える人間の生き方の詳細を実際に生きる
それが愛の姿を生きると言う事です。神の性質=教えに根付いた
生き方をすると言う選択、コミットメント、神の家族としての
生き方の責任、義務を負うと言う事です。
聖書を読めば、神を愛する、イコール神の与えたインストラクションに留まり生きる!と聖書の最初から最後まで同じく書かれているのに、異邦人の世界は哲学、解釈、思想に留まる世界を
語り、実際に神の言葉、教えを生きる事=恵みを捨てた生き方で律法主義であるなどと言う、聖書とは全く関係の無い人の教えを言い続けているのです。
神を愛するとは、イコール神の仰せを知り、ガードし、実際に
生きる事!と聖書には書いてあるのです。そのインストラクションの大半を捨てて、聖書の最後の部分で十分と考えているなら
大きな空洞、洞穴の中に神の教えを埋蔵してしまうのです。
神の伝えている深い神の考え、思索の詳細が自分には伝わって
こないと言う事が起きているのです。
 
出エジプト20:6 わたしを愛し、わたしの戒め<ミツヴァテイ=わたしの命じる事=トラー>を守る<ガードして生きる>ものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
 
申命記5:10 わたしを愛し、わたしの戒め<ミツヴァテイ=わたしの命じる事=トラー>を守る者には恵みを施して千代に至るであろう。
7:9 それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、
主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、そ
命令<ミツヴァテイ=わたしの命じる事=トラー>を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、
申命記11:1 それゆえ、あなたの神、主を愛し、常にそのさとしと、定めと、おきてと、戒めとを守らなければならない。
11:13 もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令
よく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、
精神をつくして仕えるならば、
30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を
愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は
多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る
地であなたを祝福されるであろう。
ヨシュア 22:5 ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた
戒めと、トラーとを慎んで行い、あなたがたの神、主を愛し、
そのすべての道に歩み、その命令を守って、主につき従い、
心をつくし、精神をつくして、主に仕えなさい」。
ネヘミヤ1:5 言った、「天の神、主、おのれを愛し、その戒めを守る者には契約を守り、いつくしみを施される大いなる恐るべき神よ、
ダニエル9:4 すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、
ヨハネ14:15 もしあなたがたがわたしを愛するならば、
わたしのいましめを守るべきである。
14:2わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、
わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に
愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。
 
イエシュアは人々の心にダイレクトに響く様に教えていますが
同時にそれはイエシュアはトラーに書かれた純粋な神の言葉、
教えに人々を戻す事!人々が神のトラーを聞く事を促し、
神の教えに戻り根付いて生きる事を教えているのです。
神の言葉、イコール聖霊です。
イエシュアはモーセの五書=父の言葉以外の、
新しい教えなど1つもしてなどいません。
聖書の最初から最後まで、同じメッセージ、同じ歌が歌われ
続けている事実だけに目を留めて、人が語る非聖書的、聖書に
根拠のない人造仮説思想、分断した2つ別の教え、2つの福音、
2つの神の家族、2つの新旧別の内容の契約、2つの救いを語る事をやめないとならないのです。