モーセの五書の中に書かれた教えと福音書以降に書かれた教えが別物と言う創作話 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

冷蔵庫を開けて探し物をしながら、目の前にあるのにそれが見えないと言う様な経験をした事ありますか?

特に男性など目の前にあるのに見えていないと言う事がよくあるそうですが、見てても気が付かない、目の前に書いてあるのに

全く気が付かない、その様な事がたくさんあるので、この聖書箇所知っていると思っている事でも、その中には気が付かない真理がたくさん詰まっているので注意して読み続ける必要があります。

 

そして、聖書とは全く異なる人が作った教え、思想、神学と言う

先入観、偏見と言う本当に邪魔な色眼鏡をかけて聖書を読んでいるので、その色眼鏡=人が言ってるただの作り物の教えで神の

言葉の真実が覆い隠されてしまっているので、聖書に根拠の無い思想や教えが何か?と言う事に聖書から気がつく事、それには

聖書に書いてある通りにだけ、聖書に書いてある内容を変形させたり、比喩や寓話たとえ話と言う様な曲げられた教えに変えない事が必要です。

代表例が、神の言葉は異邦人とユダヤ人では別、昇天以降は

シャバットは第七日目から第一日目に変わったなどなど。

でもそんなこと聖書に書いてありますか?ないでしょう。

神の教え、記念日、祭りは変更と書かれていますか?

福音書〜黙示録にも書かれていない。シャバットは日曜日に変更と書いてありますか?ぜひ自分の目で読んで確かめてみてください。安息日と書いてあって、それを日曜日と変換して読んでいるだけだと気がついてください。神の教えは一点一画も変わってない!廃れない、今日天と地が存在するなら変わらない!と言う

強調でイエシュアが言ったでしょう。

その事実をどうして無視して別の教えに変換するのか、自分で神の言葉に対峙して考えれば聖霊が真実を神の言葉から教えて下さいます。

 

問題の根は神の言葉を人が違う教えに変換し続けて語り続けて

いること、信じ続けること、そして違う変換された教えを

実践し続けること、それが問題の根なのです。

 

異邦人信者の中で伝統的に語られているモーセの五書は霊的では無い、古い教えであると言うそれらの内容は以下の様だと思います。

 

1 イエシュアの教えは心に響く、入ってくるものであるが、

モーセの五書はうわべ、外側だけのものである。

 

2 トラー=モーセの五書は古い聖書箇所の観点であり、一方

イエシュアの教えは霊的レベルが上のグレードの新しい別の教え別の内容の契約である。

 

3 聖霊はイエシュアが来られるまで始動、作動しない状態で

あった。少なくとも一般の個人の中には聖霊は住まわれなかった預言者の様な特別な人の中だけにしか聖霊は与えられなかった。

それ故、以前の古い時代の古い教え=モーセの五書には高レベルな霊性は期待出来ない。

 

この様な”異邦人が編み出した仮説”を聖書の真実であるが如くに

一般的に異邦人クリスチャンの世界では伝えられていますが、

これらが聖書に基づく真実か否か聖書の記述から検証して行きましょう。

 

イエシュアは人の心に語る、一方トラー=モーセの五書は外側の

事に関しての事ばかりが書かれていると主張します。

もし人が欠け目なし、偏見無しに聖書を読んでみれば、この様に内側、外側と言う思想は人が考え出した捏造、でっち上げの

創作仮説である事は明らかです。

 

最初から神と神の言葉は歴史の途中で変わったなどと言う偏見を持ちながら聖書を読めば、書かれている真実を人間の側で曲げ

続けながら聖書に書いてない意味の方向に読み続けて行きます。

 

人とは霊、肉体、精神と言うバラバラなパートに分かれていると

その様なギリシャ思想の概念では語りますが、ヘブライ語では

その様には書かれていないのです。

生きる存在と言う言葉、1つの存在として表されるヘブライ語で書かれています。全部繋がって1人の人である存在。

 

”人の実”=実とはアクション、行動により生まれるものであり、その人の心=頭脳の中にあるものが行動として現れ出ると

イエシュアは言われました。マタイ7:17−19

 

イエシュアは人の霊性とは内側だけのものなどと解説していません。ヘレニズム思想は、物理的、霊的と分断を語りますが、見えるもの、見えないものは一体なのです。神はこの世界の全てを

物理的に造られたのです。神の言葉により全てを造られ、人は

神の息吹を吹き入れられて生きるものとなったと書いてあります。そして人は聖霊そのものである神の言葉、神の口から出る

1つ1つの言葉により生きると書かれています。

その言葉とは、トラーです。トラーとは神の教え、インストラクションと言う意味であり、神の言葉の完全版がモーセの五書です。神の言葉を指して律法などと言うヘブライ語はないのです。

不適切な翻訳で人に神の言葉に対する不適切な印象を与え続けているのです。モーセの五書以降の全ての聖書はこのモーセの五書=神の教えだけを元に語っているのです。モーセの五書とは別のモーセの五書に反する教えなど聖書のどこにも1つも書かれて

いない!と言う事が永遠の神の真実なのです。

 

心に満ちることを口が語ると言う通り、人の内側に潜むものが

形として外に、環境に現れ出るのです。内側にあるもの=見えないもの、外側に現れ出るもの、目つき、顔の表情、行動を通して人の内側に潜むものが他者に伝わるのです。

 

本当に霊的な生き方とは、神の語る教え、言葉=聖霊そのもの

神の似姿の人間の本質を聞いてそれを生きる!と神が教えています。神の言葉=聖霊そのものです。神=言葉と書いてあります。イエシュア=トラー=言葉と書かれています。

そして神の考え、思索は神が語る言葉で人に伝達されていて

そして聖書は聖霊により書かれたと書いてあるのです。

神の言葉=聖霊です。

神の言葉とは聖霊の源、神に繋がる源泉なのです。

 

単純な事です。試しにやってみれば誰でも体験出来るでしょう。

現在日々嫌な体制、支配で辟易しますが、その事ばかり見つめてずっと文句を言い続けても、それでは益々自分の心は暗くなり

絶望感や失望しか湧いてこない。問題だけしか見えなくなる。

でも一旦神の約束、言葉だけに注意を払うと、神が見逃している時は1秒も無い、全ては偶然ではなく、神のプラン通りに全てが動いて神の許可で全てが起こっている。自分が生きる全ての時は

神の意図通りであり、それに沿って生きる時、たとえ周りは嵐でも神の約束、神の中=天の現実の中に今居る事実に意識が戻り

ます。そして、どんな小さな事でも感謝し続けてみれば、

どれほど神が今日までの道のりを守り続けて下さったのか、

内側から喜びが出てくる事を体験するでしょう。

それほど単純な事なのです。

 

人に親切にされたら、人に親切にしたら、喜びを味わいますよね。心温かくなる。パウロが1コリント13章でトラーに書かれた愛の詳細の短い形、お題目を唱えていますが、愛は親切とあるのは、それらは神に造られた本来の人間の性質=それがあなたです。あなたは親切と言う性質で造られているから、親切にするのがあなたの本来の性質の生き方ですと言う意味です。頑張って

やりましょうではなく、本当の自分の性質から生きる!と言う事をパウロが13章で語っているのです。あなたは〜だから、

あなたはこの様に生きるのがあなたの本来の性質ですと書いてあるのです。神を愛する、それが本来の人間の性質です。

愛するとは頑張ってやる事ではなく、神に繋がり神と顔と顔を

合わせる最も親しい関係に生きる様に元々造られている、

だからその状態に留まり生きる=愛すると書いてあるのです。

幼い子供が親を慕う様に、何より親が大好き、それが人間の性質

なのです。頑張って親を愛そうなんて子供は考えていない、

磁石の様にぴったり引き寄せられて繋がる事を切望する、

それが本来の姿であり自然だからです。

 

もし神の言葉に意識を集中せず、別の教えや言葉、蛇の嘘を

食べ始めて自分に語り始めたら、騙されてしまうのです。

神の約束、言葉を捨てて、違う教えに耳を傾け始めれば、自分の中からシャロームが破壊されて行くのを誰でも経験します。

 

心配事に取り囲まれ、心配事を心配し始め、ラ=悪のループに

はまってしまいます。

神=命の木に繋がらないなら切り落とされて燃やされるとあります。命の木に繋がらない生き方は周りをも、破壊、腐敗させてしまいます。自分も死にます。体は死ななくても本来の性質を生きる事から切り離された状態になる、それが死、別離です。

 

イエシュアは彼の弟子達に注意勧告!注意を払う様に神のトラーを教えています。一点一画、カンマや句読点の様に一番小さい

文字にさえも注意を払って!と言いました。異邦人の教えは逆を教えます。神の言葉は終了、無用!捨てよ!と教えます。

危険極まりない教えです。マタイ5:18

誰かに敬意、尊敬、信頼を表す事はその人の語る事を注意深く

聞き、頭脳に留めて、それを実際に実行し生きる事です。

逆は何ですか?その人の言う事を軽くあしらい、又は無効と

考え、聞いたふりして無視、却下する行動をする事です。

サタンはツボを知っているのです。どうすれば私達エデン=喜び=神の中に造られた人間が本来の生き方、喜びを失ってしまうのかを知っている。

 

神の言葉を疑わせる、変形させて別物を信じさせて、本来の性質とは違う行動、思考、神と直に顔と顔を合わせる関係から引き離す!サタンは巧妙でありワル知恵に満ちているのです。

サタンは何をすれば人を破壊出来るのか知っているのです。

神の言葉=神の言われた言葉、神の教えから人をうまい具合に

引き離す、それは神の言葉に別の教えを混ぜる事、神の言葉は

大事では無い、呪いの律法だ!本当にうまい騙し手法です。

 

その事実に注意を払えば、神の言葉に注意を払わなくて良い!と言う教えは神から出たものでは無い、イエシュアの羊は、

本物の羊飼いの声=神の言葉=父の教え、インストラクション=トラー=モーセの五書で語られる神の言葉、声を知っている、

聞き分けると言っているのです。

 

イエシュアの声が肉声で聞こえ、それを識別するなんて考えて

いたら、霊媒の世界と同じ、イエシュアが語る真実は永遠に闇の中に葬られて別の声を聞いてしまうのです。それが神の言葉を

捨てよ!と言う神が出所の教えでは無い、元はサタンの声=言葉が出所の教えを信じてしまい、本当に神の言葉をないがしろにし捨てる事が今の時代の恵みの生き方などと聖書にも無い恐ろしい思想を神の教えだと誤解して信じ続けてしまうのです。

 

福音書以降には、神の教えの詳しい詳細は書かれていません。

タナック=トラー、預言書、諸書のほんの短い解説、使徒が書いたコメンタリーしか書かれていません。イエシュアが、トラー、預言書にわたしが書かれていると言った通り、そこにイエシュアの実態の完成形の形が記されているから、福音書以降には同じ事を復唱して書いてはいないのです。

 

その意味は、神が造られた人間の生きる詳細は福音書以降には

書かれていないのです。だから罪の定義の詳細すべても書かれていない。堕胎の罪や、獣姦や、その他諸々の罪の詳細や説明なども書いてない。聖別の意味の詳細、定義も書かれていない。

人は神の前にどの様に近づくのか、どの様に関係を修復するのかその詳細も書かれていない。人の生きる上での全ての詳細も

書かれていない。礼拝の意味の全貌も祈りの意味の全貌も書かれていない。救い、贖い、許し、恵、祝福、福音の全貌の詳細も

福音書以降には書かれていない。

その理由は、トラー=モーセの五書に全てが書かれていて、その中に書かれた神が伝える人間の生き方は完成形であり、福音書

以降は、地上に実際に来られたイエシュアの記録、世界へトラーが伝えられた記録、そして諸外国でトラーに根付く教えをパウロが解説している記録、黙示録にもイエシュアが記されていて最後はエデンに戻る。それらの短い記録が使徒によって書かれているだけだからです。元の完成形、モーセの五書に書かれた詳細は

福音書以降では復唱していないからです。する必要はない。

なぜなら最初に全部書いてあるからです。

 

続く