神の言葉を人間が歪めてはならない 神の教え=トラーは永遠不変 ガラテヤ6章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ6:10 だから、機会のあるごとに、だれに対しても、

とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。

 

パウロが信仰の仲間=イスラエルの神の一大家族=兄弟姉妹に

トーヴ=神の教えに書かれたトーヴな対応関わりをしましょうと奨励しているのは、それが神のデザインされた人間の生き方、

人と人で形成される神の大家族、コミュニテイの生き方そのものだからです。神の家族が生きる詳細はモーセの五書に書かれているものが神の定義した人の生き方、コミュニテにの生き方なのです。神が伝える人間の本来の生き方の内容を読まなければ、

自分の考え、想像が生きる上での基準になってしまいます。

トラーには詳しく互いの命をガードする方法、そして関係を

潤滑にし、損なわない内容が具体的に書かれています。

 

よくお互いはクリスチャンだから、そんな気を使わなくて良い

などと言うのを聞いた事がありますが全く逆なのです。

例えばどんな事でしょう。隣の家から芝刈り機を借りて来て、

使わせてもらったとします。そして返却する時にありがとうの

一言だけで、使ったガソリンの中身も補充しないまま返すなんて、どんな態度?その人の生き方はトラー=神の性質を生きて

いるの?て事なのです。借りた物を返却する場合は、使った分の

ガソリンと、使わなかった分のガソリンもお礼として補充して

満タンにして返すと言う事をするのが神の国に生きる人達の

最低限のマナーでありそれがトラーに書かれたやり方なのです。

この様な愛、気遣いは日本人なら割とあると思います。

お礼をすると言う意識は日本人の中には普通にあります。

 

トラーの中には、互いの間にわだかまり、不快感を残さないために相手に無礼な事をしてはならないと言う教えがたくさん書かれています。

例えば人の物を破損した場合、破損した物とそれ以上のものを

足して償い倍にして返すと書かれているのです。

どうしてでしょう?お互いの間の関係にヒビが入り、わだかまり不満や余計な不快な感情を残さず、関係が壊れないため、

しっかり修復して元どおりになるための神の知恵が細かくモーセの五書には書かれているのです。福音書以降はそんな詳細書かれていないのです。なぜならそれは既に神の口から語られ聖書の

最初の部分で記載されているから重複していないのです。

福音書〜黙示録が書かれているのは、モーセの五書に書かれた

内容を知っている前提で書かれているからです。

最初の読者は契約=モーセの五書を代表として受け取った

ユダヤ人に向けて書かれているからです。

 

この間の友人達との話し合いの時も、夫婦間では一番親しい間柄上、常に身近にいるのでぶつかり合いもたくさんあると話していました。家族と言う間柄が一番問題があります。

エデンの園の初めの初めから、問題の根は、夫婦から発生し、

そして家族間の中に行き渡りそこから全て出ているのです。

夫婦が神の言葉を無視した結果、お互いの中に、それまでに無い

神のデザインとは違う性質が入り込み、お互いをなじる、恥じる

相手のせいにする、隠れるなどの感情、行動が入り込んだ事が

書いてあります。

それらは、本来最も親密な間柄である夫婦=アダムの肉の肉、

骨の骨、自分自身そのもの!と感嘆した相手を神が見ている通り見える透明な純粋な関係が壊れ、相手エバに対する思いや関わりとは全く違う壊れた性質が入り込んだ事でも理解出来ます。

エデンの園の中に涼しい風が吹き神と共に語り歩み、関係を

持っていた素晴らしいエデン=喜びの園に住むには

ふさわしくない状態の中に入った、エデンから飛び出してしまったからです。

 

そしてエデンの園を飛び出した後の家族の最初の悲劇は、

兄弟間殺人です。考えてみればどれほどずれているのか、

どれほど悲惨な事なのか理解出来ます。もし自分の子供達が

兄弟間で殺人をするならそれはもう悲劇以外の何物でもない

周りの全てを破壊する出来事だからです。

 

お互いが学習して来た本来神の性質に造られた自分とは違うものを学習してしまって、歪んだ物の見方、相手を相手が考えている通りに見えず、誤解している事がたくさんあるからです。自分の思い込みで相手はこう考えているはずだ、こんなつもりでこんな事やってるんだと自分の色眼鏡を通して相手を見ているのです。相手の考えや思いを勝手に推測して相手を誤解する事は日常茶飯事です。

 

もし互いにぶつかり合いなどがあった場合に、冷静に話し合う、

相手の言う事をしっかり聞くと言うことさえしない。

もし自分が間違っていたらプライドを捨てて、きちんと謝る、

修復すると言う事をどれだけの人がないがしろにして、

関係を壊し続けて行く路線に乗っているのだろう?と考えないのです。

幼稚園で、”ぶつかったら、ケンカしたらごめんなさいと言って

お友達と仲直りしましょう。”と大人は子供に教えるのに、

自分の日常ではそんな基本さえやらないのです。ガラテヤにある

人に言うだけ言って、自分はトラー=神の教えを生きてないまさにそれです。わだかまりが残るのは、その都度ちゃんと向き合い起動修正し、謝罪し、自分のずれを神の前に確認し、相手と修復する事を日々怠るから、これに尽きるのです。実践のない信仰は無意味であり、兄弟を憎みながら神を愛する事は不可能だと

言った通り、それは不真実な生き方で命がない生き方になるのでしょう。

世界が今狂った路線に走っている本当の理由=その裏にある本当の事情を知る人達には理解出来る内容ですが、それを知らない

場合は、自然にこの様な状態になったと考えているのです。

事実を調査して何百年も前に遡り裏事情を知らなければ見えない内容があるのです。全ては歴史の中での同じ事の繰り返し、

イスラエルの神、神のトラー=教えに反するものがサタン=異教の神々の性質を生きる世界統一を目指している事の繰り返しなのです。ハヌカの事件の裏にあった世界統一も、神のトラーを生きる事を禁じ、異教の神々の前にひれ伏し、神の性質である人の

尊厳を捨てて生きさせる世界へ迎合、統一、同化して行く事なのです。今それが既に始まっているのです。

日本のニュースで流れているのでしょうか?今度”こども庁”と

言うものが創設されるそうですが、その中身は、神のトラーを

完全否定したおぞましいものなのです。

幼い子供に対する性教育を履き違え、子供は性的な体験を自由に得る権利がある事を教える方針だそうです。罪に身を浸せよと言う教えをする、この事に危機感を感じない人は眠っている人達で

しょう。幼い子に自分の性別を好きなように選ばせる?

性体験を自由にさせる?どう否定しようと、自分の性別は、神が与えた肉体が性別を語っているのです。

命を生み出さない間柄の関係は神がデザインされた関係ではないのです。全ては、狂った事を周りから学習して別物を生きる事を学んでしまっただけなのです。

狂ってるの?と創造主を知らない普通の常識がある人でも分かるほど恐ろしい内容なのです。

どうしてこうなったのか?それはエデンの園から同じ、神の言葉をどの部分でも否定する教えを誰かが支持し、推奨し、発言し

実践しているからです。

考え直さないとならないのです。神の言葉をどの部分でも、

どんな度合いでも、どんな教えでも否定する事を奨励する場合、神の国に属すると自称しながら、同時に聖霊=神の言葉を否定する行為は危険だと気が付かないとならない神の言葉は一つとして繋がり、人の命をガードするものだからです。それはとんでもない闇の世界の声を代弁している事である事に今気が付かないと危なのです。

ガラテヤの最後の部分のパウロが語る誤解されている箇所で

ガラテヤ書に関する解説を終わらせたいと思います。

 

ガラテヤ6:12 いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼=ユダヤ人になる改宗儀式

受けさせようとする。

6:13 事実、割礼のあるもの自身がトラー=モーセの五書を

守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、

割礼を受けさせようとしているのである。

6:14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、

わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

6:15 割礼=改宗儀式のあるなしは問題ではなく、

ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。

 

十字架の故の迫害=ユダヤ人の仲間から、ナザレ派の人達は

イエシュアを信じて、救いは信仰により義とされる事と言う

本来トラーに書かれた真実だけに立とうとする場合、伝統的な

教え=口頭トラー=ユダヤ人の中に普通にあったユダヤ人以外

神の国の一員として認めないと信じる人から迫害されるから、

別の福音でも伝統的なユダヤ人の口頭トラーに沿って改宗儀式を

強要していたのです。

改宗儀式をさせようとしていたユダヤ人達が居て、それがガラテヤのイエシュア信者達の間に蔓延していた偽の福音であると

パウロはガラテヤ人に話していましたね。ユダヤ人は、肉的生まれがユダヤ人は生まれつき天の神の国の一員だと考えていて、

異邦人は生まれつき神の国に属さない人だから、ユダヤ人になると言う改宗儀式をしない限り神の国のメンバーにはなれないと言う教えをしていたからです。

そして全ての人は100%モーセの五書を生きていた!この事実は変わらないのです。神の国に入る方法=その話をしているのです。神の国に入る方法は唯一=イエシュア=義とされた事、救いを信仰により受け取るだけ!義とされた人は100%もれなく

モーセの五書=婚姻契約の詳細を神の家族として生きる!これは

絶対に揺るがない神の教えの事実なのです。これを異邦人の世界では信じるだけで、後は神の教え=トラーを生きなくて良いなどと言う非聖書的な教えをし続けているのです。一体クリスチャンは日々何を実際に生きるの?福音書〜黙示録?それならそこの

部分はモーセの五書、その付随の預言書、諸書のほんの短い抜粋された解説でしかなく、人が生きる詳細は書かれていないのです。この事実にはっきり気が付く方法は、モーセの五書をしっかり書いてある通りに学び、預言書に書かれた内容もはっきり知る事です。預言書=モーセの五書の生き方に戻れ!最後の審判は

モーセの五書に書かれた神が提示した人間の生き方に沿ってされるのです。モーセの五書が終わりなら全ては無意味、茶番劇なのです。モーセの五書=イエシュアそのもの=人間の本来の生き方そのものが書かれているからです。

 

自分達は生まれ付き異邦人より優れているのだと言う錯覚、誤解

肉について誇る、そして異邦人を中身に入れる場合には、

同時に周りのユダヤ人からの圧力もあったので、異邦人を改宗儀式に導けば、彼らの手柄となる。クリスチャンが誰かに伝道して

救い主を信じさせたら、それがその人の手柄のごとく認められる様な同じ性質の意識です。

しかも、改宗儀式を奨励する人こそ、モーセの五書を生きてなどない!とパウロは指摘しています。パウロがモーセの五書を否定するなら、そんな発言どうしてするのでしょう?と考えて下さい。何度も言う様にパウロがモーセの五書を否定した教えをするならば、パウロは偽教師、偽使徒となってしまい、聖書としてパウロの書簡は神から認められないものになることを頭脳にしっかり入れて人の教え=パウロは別の福音を語っていると言う

異邦人創作の思想、神学や作り話を捨てないとならないのです。

 

どの時代の人でも、どの人種でも救い=福音=道=イエシュアはただ1つだけです。

イエシュアを通して新しく生まれた事実=義とされている事実

アヴラハムを通して与えられた事実以外には道はない!

2000年前に初めて救い=イエシュアが与えられたと言う

線上=ヘレニズム思想で考える場合は、聖書が語る1つの福音

どの時代にも同じ性質、同じ神の教えであることに気が付けない

のです。

そして最後に、割礼=改宗儀式をして正式にユダヤ人になる事が

大事ではなく、肉の生まれ=生物学的、遺伝学的にユダヤ人の

血を引いていなくても、上から生まれたと言う事実=天に属する

事実は、イエシュアを通して生まれ変わったと言うその事実だけ!とパウロは話しているのです。

 

続く