神の言葉をないがしろにすれば命の質 生き方が損なわれる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

世界には、メシアニックと言う名のグループがたくさんありますが、皆が同じ事を信じている訳ではなく、残念ながら聖書から

逸脱した教えや、変形した教えもその中からも出てネットには

無数に浮遊しているのが現状です。これは、どのグループの教えでも、聖書では無い、聖書に根拠のない人が作った教えで聖書を解説するならそれは聖書とは違う!と言う単純な事実があるのです。

ユダヤ人の世界も同じです。1世紀の当時と今では大分違うもの変身しています。現在の異邦人クリスチャンの信仰と1世紀の

イエシュア 、使徒、パウロ達が生きていた内容を語っても

同じではない!と言う事実に気が付いて、それではどこでどう

神の教えの中身が変えられてしまったのか?と言う事を追求、

言及しないとならないのです。

 

イスラエルやアメリカでも黒服を着ている人達を見ますが、

それは、18世紀ヨーロッパ、ポーランドに居たユダヤ人達の服装、神殿が崩壊された事を嘆く事を意味する喪服なのです。

あの服装をしなければ信仰的ではないと言う事ではないのです。

 

ユダヤ人の世界でも、ローマ帝国による迫害や影響を受けて

ローマ教の中にあるシステムに影響されているものがあるのです。例えば階級制の様な一人の人を立てて、支配層を作る形態です。どう言う意味かと言うと、群れの中にトップの人物を1人

作りその下に人が居ると言う階級制度を正統派ユダヤ教の中でも取っています。あるグループには当てはまりませんが、一人の

ラビが絶対的権限を持ち、その人の発言が絶対であるとしているのです。例えばこんな事です。

飛行機などに乗ると、コーシェル食<神が伝える食規定レビ記

11章に書かれた事の食材で作れたもの>オーダーすると”なになにラビが祈りましたみたいなラベルが貼られています。

そして、そのラビの派に属さない人は、自分のグループのラビではないからどうしようと悩むそうです。おかしな話ですが、

神が絶対と分からない場合、人の教えに誰でも縛られてしまうのです。

なんで?人間の世界で権威あるラビが祈らないとそれは食べ物と

見なされないのか?と考えれば分かりますが、その様に人間である存在に傾倒すれば、ラビの指示は絶対とする様な意識を生み出しそれが伝統で引き継がれているのです。それは、人間なのに、

神と同じタイトル=聖なる父と呼ばれる人を神の様に崇拝する

人達と同じ意識なのではないのでしょうか?

 

トラーを読んで理解しているはずではないの?と言うユダヤ人の

ラビたちでさえ、ユダヤ人の中での内部分裂を作っているのです。人の解釈の教えにどっぷり浸っているからです。どんな事かと言うと、イスラエルに行くと市場があります。ある時友人が

そこで買い物をしているともう一人の人がこう言ったそうです

”ここは自分のラビが指示している店ではないから、<たぶん別の派の別のグループの人の店だから>ここでは買わない。”と

言ったそうです。どこまでも人の教えを信じれば逸脱出来るし、人の教えに縛られ続けて行ってしまうのです。

 

ラビの縄張り、ラビの教え。たとえラビがトラーと異なる事を

言ってもその中の人達は反論しないそうです。どこまでも人が

上に立つと本質が曲げられて行ってしまうのは、異邦人の世界だけではないのです。だから、明らかに預言書で、”メシア”に対して語られている箇所は、ユダヤ人のシナゴグでは決して読まないと言う協定が敷かれているのです。

ある時、友人が学んでいた”ヤシバ”=トラーやタルムードや

ミシュナを学ぶ場所、学校ですが、そこに居たラビ達がある時

ある箇所を数人で眺めていて、”沈黙”状態になってしまった事が

あったそうです。聖霊が神の言葉を通して直に語れば、

教えれば人は拒否出来ない状態になるからです。

生まれ出ようとするものを誰も止められないのと同じ。

 

だから、神の言葉だけにまっすぐ向き合う時に、トラーは必ず

救い主に導く役割があるとパウロがガラテヤで話していた役割を

するのです。トラー=イエシュアだからです。トラー、預言書にはイエシュアが書かれていて、イエシュアそのものだからです。

どの世界の人も、人の教えと人間の教えの区別、識別をし、

純粋な神の言葉だけに生きる事に切り替える必要があるのです。

その見分け方は唯一!聖書を正しく知る事これに尽きるのです。”わたしの羊はわたしの声を聞き分ける”とはわたしの羊=

神に属する人=わたしの声=トラーに書かれた神の教えを知っているから、偽物の教えと神の言葉、教えの区別、識別の判断が出来ると言う意味なのです。

何が大事か、神の言葉=聖霊であり、聖霊に導かれるならそれは100%モーセの五書に同意し、逸脱したり、相反する、矛盾したり敵対するものではないのです。モーセの五書=聖書全体の

辞書、どの教えでも神のトラー=モーセの五書を否定する敵対する、ないがしろにする教えは、神の言葉、教えではないと言う

事実を知っていれば、そこから嘘と誠の識別が出来る様になって行くのです。今の世の中の情報は嘘がたくさんあり、意図的に

曲げた情報がたくさん出回っているのです。

なんでも鵜呑みにして言われた通りを調べもせずにそのまま信じれば、自分の身に危険を取り入れ、招きます。

自分で丹念に調べて、嘘に気が付かないとならないのです。

 

パウロが根拠としている事は100%モーセの五書です。

異邦人クリスチャンの世界で教えられるのは、パウロはモーセの五書を否定し、違う教えをしていると完全に誤解、勘違いをした

解説のみしか聞かされていない、プラス不適切な翻訳と、パウロが話している論点を捉えていない、知らない、パウロが語っている”割礼”とはトラーに書かれたアヴラハムの割礼の事ではなく、1世紀当時のラビ達が編み出した”改宗儀式”の事を言っていると言う事実を知らなくては見えない話なのです。

聖書を読むには当時の背景や、文化、生活事情などを知らない

まま、21世紀のしかも異邦人が編み出した置換神学や、

デイスペンセーション神学の様な非聖書的、非ヘブライ思想の

人間至上主義=ヘレニズム的分断思想=人の思想の分厚い色眼鏡を通して聖書を読み続けたら聖書に書かれた真実など歪んだままでしか見えてこなくなってしまうのです。神の言葉の真実とは

敵対し遠く離れた違う教えに埋没し続けてしまうのです。

 

人の教えと言う邪魔でしかない妨害、障害物、色眼鏡を脱ぎ捨てて、聖書に書いてある意味通りに全て最初から学び直さないと

ならない課題があるのです。

 

ガラテヤ 6:1 兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもってその人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に

陥ることがありはしないかと、反省しなさい。

6:2 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたは

キリストのトラー<モーセの五書に書いてある神の教え、

インストラクション>を全うするであろう。

 

この箇所を読んで、日本語の翻訳ではキリストの律法と書いて

ありますが、ギリシャ語=ヘブライ語では、メシアのトラー=

モーセの五書を指して話しています。聖書はどの箇所も100%

モーセの五書を指して話しているのです。

 

キリストの律法などと言う翻訳を読んで、モーセの五書とは

違う別の教え=律法をキリストが伝えた、パウロが別の教えを

話していると誤解しているのです。1世紀当時の聖書に登場する

ユダヤ人ならその様な誤解や間違いの読み込みはしないのです。

誰でも100%モーセの五書から全てを話している事実を知って

いるのです。福音書以降はずっとずっと何世紀も後になってから聖書として認められて流通したのです。しかも手書きなのです。

流通の度合いは低いのです。福音書以降、聖書と書かれているのは100%、モーセの五書預言書、諸書のみを指して語っている!その事実だけに立って聖書を書かれた通りに読み直してみる必要があるのです。

2テモテ3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

 3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 

ここに書いてある”聖書”とは、モーセの五書のことであり、

それに付随する預言書、諸書以外を聖書として語っていません。

なぜなら、これが書かれた時は福音書以降は聖書としては存在していない、流通していないから、100%モーセの五書を土台として全ての聖書はモーセの五書を解説していると言う事実にはっきり目覚めて聖書を読んでみれば理解出来ます。

 

ガラテヤ 6:10 だから、機会のあるごとに、だれに対しても、

とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。

 

パウロはモーセの五書に書かれた”神の婚姻契約”の中に加えられた人達のコミュニテイ全体としての生き方を土台に話しているのです。この間の日曜日友人達と集まってみ言葉を考える時間が

ありましたが、夫婦間の話をしていて”契約の中にあるから”と

言う表現をしていたので、その通り、英語ではCovenantedと

言う言い方をしますが、契約の中にあるからどんな時も契約の中にある愛から外れないと言いました。夫婦だけではなく、イエシュア に繋がれた人達全てはモーセの五書に書かれた神の愛の性質=を生きる事に加えられたのです。律法を生きるなんて窮屈と考えるなら、それは意識がずれた場所に既に飛び出しているのです。神は神の性質=最高に麗しい生き方に招き入れてくれて

その生き方の詳細がモーセの五書に書かれている事実を知らない

だけなのです。トラー=イエシュアであり、イエシュアが人類で

ただ一人その麗しい生き方の集大成を見せて、イエシュアに

繋がる全ての人がその麗しい生き方を出来る状態に引き寄せて

下さった、それが福音!そのものなのです。

 

契約の中にある愛の詳細、それを生きるとは実際にどんな事を

生きるのか?は、モーセの五書を知らないと理解出来ない様に

になっています。手引きを読まなければ分からないのです。

聖霊に導かれても、聖霊が教える教え=モーセの五書を読まなければ理解出来ない。教科書を与えられて中身を見ないで聖霊に

導かれるから中身が自動的に分かると言う霊媒の世界みたいな

思想は聖書とは異なるのです。それなら神は初めから霊に導かれるから文字で書かれた神の言葉など与える必要などないと言って

いる事に気が付かないとならないのです。

 

異邦人は神が創造されたデザイン、言葉で全てが造られ、神=言葉=聖霊であると言う事実をトラーから教えられないから、別の思想の教え=霊に導かれるから神の教え=言葉など読む必要などない、ないらない!と言った異邦人達の教えを復唱し続ける思想が基本、信仰の根底に根強く張っているのです。神の言葉を知らなければ、何の霊に導かれているのかの基準=神の教え映し出す鏡が無いので、独自の判断、曲がった物差しで計ってしまう事になるのです。

クリスチャンの世界ではほとんどの場合、聖書の最初の70%は

読みもしない、読んでも詩篇や箴言、預言書の一部、数カ所だけを取り出して読むと言う読み方しかしないのが普通だと思います。

 

続く