ガラテヤ5章ー6章 パウロの書簡を知る手がかり 当時の文化背景を知る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、

トラーの下にはいない。
 

パウロが言っているのは、上から生まれた人=新しく生まれて

聖霊が内側に宿る人は、トラーに書かれた罪の束縛、罪の責め

の下にいない。そしてもう一つ考えられるのは、トラー=人間が

作った教え=異邦人はユダヤ人になる改宗儀式をしなければ

救われている事にはならない、足りてないと言う別の福音の教えに縛れられない!

 

ガラテヤ5:25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、

また御霊によって進もうではないか。

 

神=聖霊=神の言葉=聖霊が吹き入れられた神ご自身を表すもの

聖霊を内側に受けた人、神の言葉=霊に導かれると言う事。

神の言葉と聖霊は1体であり、神の言葉と聖霊は互いに敵対し

合ったり、相反する事などあり得ない!と言う神の言葉の事実だけに立って考えれば、神の言葉を否定、退ける、無用、終わりと宣言する人の編み出した教えがいかに神の言葉=聖書から逸脱した教えである事は明らかでしょう。

神が神の口から出た言葉を否定するとするなら、それは、神が

神自体に敵対する=自己免疫攻撃をするのと同じなのです。

変な教えなのです。考えたら分かるでしょう。

今日真実、明日は嘘と言う教えを神がしたと考えるその思考回路は人の教えに洗脳されているからです。人間の世界でさえ、

コロコロ言う事を途中で取り消したり変える人を本気で信じら

れますか?

聖霊=神は誰に対しても同じなのです。神に人種差別はありません。神の言葉は神の国を生きる代表として選ばれたイスラエルに最初に神の教え=婚姻契約が与えられました。

イスラエル=ヤコブ、アヴラハム、イサク、ヤコブの神。

神が神の言葉を途中で変え、違う教えをするなら、この言葉の

意味は全く無用で聖書には記載されません。

アヴラハムでさえ、もともとは異郷の地、メソポタミアに生きて、父テラは、異教神に仕える親である”異邦人”だったのです。

 

一人が選ばれたと言う意味は、この世から完全に分かたれて

”神の似姿”を生きる事、境界線を引かれている事、

聖別=神の意図、目的通りの分かたれている事を知り、生きて、人に教える人達を神が選び出したのです。何のため?

世界へ同じ義=同じ祝福、神の元に戻る道を示す目的のため。

 

神の言葉のどの部分でさえも否定する教えは、人から出たものであり、神から出たものではない=聖霊ではないと言う神の伝えるシンプルな事実に立てば神の言葉の真実が見えるのです。

 

人はある真実を知りながら、全く偽物の教えや嘘を信じる事が

出来るのです。それは、嘘を真実だと信じるからです。

聖書の重大且つ最初の警告=この警告が全ての中心でもあるのですが、それは”騙し”!です。

 

私の羊は私の声を聞き分ける、イエシュアが言われた当時、

イエシュアが言われた”わたしはイスラエルの失われた羊の所

以外遣わされてはいない”と言われたのです。

どう言う意味でしょう?イスラエル以外、神の言葉=トラーを

知っている民族はいなかったからです。

イスラエルの神の婚姻契約を与えた、その人達の所にまず来た。

詰まり、神の言葉=トラーを知らない人が神の言葉を聞いても

聞き分けられない、だから、神のトラー=教え=人間の生き方を神から聞いた人達は、神=羊飼いの声を聞き分けられる、

神の教えと人の教えを区別、識別、聞き分け判断出来ると言っているのです。

 

そうすると、神の言葉に対し、神が”決してないがしろにせず

寝ても覚めても=常に思い起こし、生きて、そして周りの人に

教えよ!”と言う神の教えに反する教えが、人が語る神の言葉は

終わった、イスラエルだけの教えだ、異邦人には無用、現代は

無用と言う教えなのです。

 

パウロの教えているテーマ、論点を忘れずにパウロの書簡を読めばパウロが警告している内容を正しく理解出来ます。

クリスチャンの世界では、”パウロはアヴラハムの割礼を禁じて

いる!これがモーセの五書を終了した証拠だ!”と言うのです。

パウロがモーセの五書を否定する教えをもししたら、パウロの

使徒としての生命は終了であり、パウロの書簡は聖書とは認められないものとなってしまうのです。真実に気が付いて下さい。

 

聖書のどの箇所も100%メシアを指して語っているのです。

聖書のどの箇所も100%モーセの五書を語っているのです。

聖書の全ては、メシア=救い主を語っているのです。

イエシュア以外の救いの方法、別の福音は無いからです。

もし、神の言葉が終わりならキリストも終わり!と言う教えを

している事に気が付いて下さい。

アヴラハムの割礼は永遠の印です。全世界の民族に対して同じ

です。アヴラハムを通して世界の民族が神の福音を信仰で受け取れば義とされる、神の国の子らとされる特権を与えられている

事を、アヴラハム=契約を継承する民族の代表=イスラエルと言う代表を通して、子孫を継承する臓器に付けられている目で見て見える証拠、印なのです。アヴラハムの種は、肉的なバイオロジカル=生物学的、遺伝的なものではないのです。

天から生まれたもの=人種に関わらず、天の国籍を得る事を信仰により受け取る人全てに同じなのです。神からの永遠の印、割礼であれ、シャバットであれ、祭りであれ全て神が永遠と宣言したものは途中で終わる、すたる事などないのです。

ギリシャ哲学思想の学者から学べば、聖書=神の言葉を別物の

姿に解説してしまうのです。人の教えの幻想を信じ、神の永遠普遍の真実=言葉を退けているのです。

 

 ガラテヤ 6:12 いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする。

 

パウロがここで話しているのは、別の福音を語るユダヤ人の

インフルエンサーが”正当な事”をローマの大衆に対して、

見せているのではなく、皮肉な事に、ギリシャローマの世界では

人間の体を=肉と言う言葉で呼び、肉が美の一番崇高な形として崇められている思想の世界なのです。

ギリシャローマの世界では、体に傷を付けたりするなど冒涜で

あると考える世界の人々なのです。”肉”と言う言葉でパウロが

表しているのは、パウロは、”改宗儀式”=割礼と名付けられた

異邦人に対する改宗儀式は、インフルエンサーの目的は、

ローマ市民達に受け取られる事ではなく、ユダヤ人のコミュニテイの中で、異邦人が受け入れられる事であるのです。

英語などの翻訳ではその事実がクリアーに反映されない訳され

方をされています。

 

現在のメシアニック、トラームーブメントの中でも同様に、

異邦人がユダヤ人になるためには、改宗儀式をしなくては

ならないと言う様な強制をしている人達もいます。

多くの異邦人は、メシアニックのグループに来て、気がつく事は

ユダヤ人がメシアを信じないユダヤ人グループに受け入れられるために、表むきに彼らの伝統の慣わしにならうのです。

 

これと同じで、ガラテヤに居たユダヤ人インフルエンサーも

イエシュア を信じる事を告白した人達とは、同時に普通の

ユダヤ人のグループの人達から自動的に拒絶されるグループに

なっていると言う事があったのです。

それなので、ユダヤ人コミュニテイ=イエシュアを信じない人達から受け取られるために、よく思われるために=面子を保つために、彼らの伝統の慣わしの教え=異邦人は改宗儀式をしなければ天の国の一員になれないからと言う教えに迎合しなくてはならないと言う事があったのです。

 

もし、インフルエンサーが異邦人達を説得する事が出来たら

ユダヤ人シナゴグに集うラビ達からインフルエンサーは反感を

買わないと言うキャッチがあった訳です。

改宗儀式をした異邦人はもう改宗儀式により異邦人とはみなされない、この方法で、異邦人であると言う問題が消えるからです。

 

ここで、パウロが居た当時の状況を知るための大事な見識があるのです。”その道のもの”=イエシュアを信じる人達に対する、

ユダヤ人コミュニテイの反対、抗議はメシアが救い主であると

言う事に対しての抗議が中心では無いのです。

 

ユダヤ人の他のグループ=派の中には、イエシュアがトラー、

預言書に書かれたイエシュアだと見えない人達も、

その派のリーダー達がメシア的役割をしていたのです。

”バルコクバの乱”がその事により起きた良い例なのです。

 

問題は、伝統的なユダヤ人シナゴグと”その道のもの”=

イエシュア を信じるユダヤ人達の間に亀裂が出来始めた事なのです。

ユダヤ人達は、異邦人信者達を、神の国の一員として完全に認めるには、異教の世界から切り離される事、改宗儀式をしなければ

その立場になっていないと言う根強い思想があったのです。

異教徒=異邦人ではなく、ユダヤ的になる事、それが当時の

ユダヤ人達のグループの要求であったのです。

 

それゆえに、インフルエンサー達は、異邦人達が自分たちの

シナゴグに集うグループ=コミュニテイの中に存在するならば、

異邦人達は、使徒15章にもある通り、イエシュアを信じながら、

異教の神々の神殿で汚れた行為=汚れた動物=血を食したり

神殿娼婦と交わったり、動物を絞め殺す方法=つまり汚れた動物を屠ったり、その様な事をする偶像礼拝に関わる事をしている

異邦人達もいるから、それらの汚れと交わり続ける人達を

そのまま受け入れたら危険、神の教えに反する事をする異邦人により自分たちが神の前に汚されてしまうから、ユダヤ人の会堂に加える事は出来ないと考えていたからです。

 

ここで1つクリアーにしないとならないのは、1世紀当時、

現在の様に異邦人クリスチャンのグループ=今は何万と言う

グループに分かれていますが、プロテスタント、カトリック

異邦人クリスチャンと言う様な人達は存在していないのです。

 

全ての信者は、ユダヤ人の会堂=シナゴグで、トラーを学び

交わりをしていた。シャバット、新月、過越、仮庵を祝い、

子供が生まれたら割礼をさずけ、異邦人イエシュア信者はユダヤ人と同じ様にトラーを生きていたのです。その中の一部が”この道のもの”=イエシュア 信者であったと言う事実にだけ立って考えて下さい。21世紀今日の様子で考えていたら全く事実が見えなくなるのです。

 

続く