最近のメシアニックムーブメントでは”神の招き”と言う教えが
流行っています。日本ではどうなのか分かりませんが。
聞いたことがあるかもしれませんが、ユダヤ人と”改宗儀式”を
した異邦人は、トラー=モーセの五書に書かれた事を生きる義務があるけれど、イエシュアを信じた異邦人はその様な義務は無い
全ての人は道徳的教えを生きることに留まる必要はあるが
改宗儀式をした異邦人だけ、全ての教えを生きる”神の招き”を
得ているのである。<シャバット、祭り、新月、食物規定
割礼、衣のふさなどの教えetc etc>
多くのクリスチャンもこの様に考えているのではないかと思います。だから、1世紀のイエシュア 、使徒、パウロ、信者達が
生きていた内容=モーセの五書に書かれた生き方とは全く違う
ものが現代の異邦人信者の世界で実践されているのです。
シャバット=日曜礼拝、 新月、春と秋の祭り=クリスマス
イースター、過越の祭りの晩餐=聖餐式に変え、割礼を幼児洗礼に変え、日々のリマインダー印を捨て、食物規定=終わった
教え、その他諸々トラーにある教えは、寓話として読み、
今は関係ない教えとされていて、マルキオン、ダービーの教えに沿って聖書の最初の箇所など読まない、教えてもらわない、
部分的抜粋しか語られないそれが現実だと思います。
”神の招き”と言う教えは、もし異邦人が神の招きを受けるなら、祝福されると教えるのです。
しかし、それらを受け入れなくても神に不忠実である訳ではないと言う、これは神が言っているのではなく人間が勝手に言って
いるだけなのです。
世界には、長い歴史の中を通して、人間が編み出した聖書とは
異なる教えが蔓延していて、でもそれらが聖書であると誤解
されているのです。聖書だけに戻り神の言葉の事実だけを捉える必要があるのは、私達が聖書ではない教えを神の教えと誤解するなら、それは神が語る教えではなく、単なる人の教えを信じて
しまう事をしてしまうからです。
どうして12月25日が西洋ではキリストの誕生日で、ロシアでは
1月6日がキリストの誕生日なのか?それは聖書ではなく異邦人が
そう決めたからに過ぎないのです。聖書にはキリストが生まれた日が12月25日などと言う記載など無いのです。
キリストは12月25日には誕生しないと知っているけど、
でも伝統的にそうであると聖書の事実ではない事を言い続けて
いると言う事になるのです。
神の子らは常に真実だけを語りなさいと言われているのに、
半分真実、半分不真実を同時に語る違和感を覚えるのです。
シャバットは永遠から永遠に第七日目なのに、それを変えたのも
1世紀後半から出てきた異邦人教父達、そしてローマ帝国なのに
神が神の記念日を変えたと言う事にされてしまっているのです。
聖書をちゃんと読めば、神の教えや記念日が変更された記事など
1つも書かれていないのが事実があり、神の言葉と神の記念日は
永遠普遍!と聖書には書いてあるのです。どうして聖書=神の語る真実、教えを無視していると聖書を読んでも気がつかないのか、それは進化論を信じている思考回路と全く同じなのです。伝統で語り継がれている、継承されて実践されている事、イコール神の真実と言う人の編み出し教えの幻想を信じているからです。
人は神の言葉と神の教え=記念日=神が生きなさい、行いなさい祝いなさいと言うどの内容の1つも人間が変えたり、否定する事など出来ません。変えても神には無意味、神の真実が永遠に
固く立つと神が言われたからです。
神の招き、教えへの不参加は良いのです。拒否権は人間にもある事は書かれてるからです。命と死、祝福と呪いどちらを選ぶか?と神が語られた言葉が書いてあり、神の勧めは、”あなたは命”=神の教え=トラーを生きる事を選びなさいと言われたのです。
神の勧めを拒否しますか?それはその人の選択なのです。
そして、神の言葉が今は真実ではないと言う偽りを語る事は神の国に属する人達は言ってはならない事なのです。
その場合、こう言うべきだと思います。
”神の教えはそう言いますが、人の教えの伝統を尊重し、
継承しています。”と言う方が正直だと思います。
マタイ15:3 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも
自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。
人の言い伝え=伝統で語り継がれた教えを尊重し、神の言葉を
捨ててないがしろにしていると言う警告はいつの時代も同じ
神からの警告であるのです。
ガラテヤ5:3 割礼を受けようとするすべての人たちに、
もう一度言っておく。そういう人たちは、トラーの全部を
行う義務がある。
3節の内容は、前回書いた通りです。改宗儀式をするならば
ラビ達が作った負えないくびきを負わされて、異邦人の世界から
縁を切らなくてはならないの知ってますよね?てパウロは言って
いるのです。
ガラテヤ5:3での内容の中では、神の招きの教えなど教えの
支持者からの提案としてなど書かれてないのです。
2節から4節までは、パウロのメッセージの内容を理解するために書かれたものです。
A1 パウロはもし割礼=改宗儀式を受けるなら
B1 メシアはあなたに何の意味もなくなる
A2 割礼=改宗儀式を受ける事に反対する
B2 改宗儀式をする人はモーセの五書と同時にラビ達の
口頭トラーを生きる義務にはまってしまう。トラー=モーセの五書と口頭トラー両方する義務にはまる。その意味は、トラー=
神の教えモーセの五書と口頭トラーの中の教えとでは矛盾する事があるから、その矛盾をどうするの?と言うパウロのガラテヤ人に対するチャンレジ、真実に目覚めさせる問いなのです。
B3 あなたはメシアから切り離されている
A3 口頭トラー=改宗儀式をして義とされることを求めるなら
C あなたは神の恵みから落ちている、もれている
パウロのこの様な平行に対比させて説明している意味は
何でしょう?まず、パウロはこの3つの平行で同じ内容を
ずっと話していると言う事です。
これは、語っている中で”改宗儀式=割礼と言う名の
A1とA2は、”義とされる事を求めている”と言う内容です。
ユダヤ人になる儀式”の事を繰り返し話しています。
簡単に言うと、自分の手柄、行い、修行で”義”や救いが得られると言う教えを信奉するなら、その意識はメシアのされた業の意味
誰も自分で自分を救い出せない、死に値する罪の代価を払えないからイエシュアがして下さったのであるその事を台無しにする
事であると言うクリアーな論点なのです。
問題は、初めからモーセの五書を否定した教えをパウロがして
議論していると勘違いしているその思想を拭い去れば事実は見える事であり、1世紀当時に存在していた”改宗儀式”=別の福音=
異邦人は初めから人種的に神の国の一員にはなれないと考えて
いたユダヤ人達により編み出された改宗儀式=ユダヤ人にならない限り、異邦人は天の国の迎え入れられていませんよ!と言う
偽の福音が問題であると言う事をパウロが話している事が分かれば理解出来る内容なのです。パウロは何があっても100%モーセの五書を支持し、否定する事など絶対にないと言う基本的理解が
ないとパウロの書簡は理解出来ない、誤解したまま読み込みして
しまいます。
ガラテヤ5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
ガラテヤの中に蔓延していた別の福音=生まれつきユダヤ人ではない、異邦人はユダヤ人になる改宗儀式をしない限りは、
天の国の一員にはなれないと言うユダヤ人達が作り出した教え=
改宗儀式=割礼と名付けられていた儀式をやっていなくても、
問題はない!尊いのは、愛=モーセの五書に書かれた契約の愛の姿を生きる事をする信仰だけが大事な事である。
この箇所のクリスチャンの世界の解説では、一般的にこう解説
されています。
”モーセの五書=アヴラハムの割礼など大事ではない、意味がなくなった。なぜなら今は救い主が来られて全て終わらせたので、
古い縛りの呪いの律法に戻り生きる事は、恵を無駄にする
生き方である。大事な事はキリストを信じて告白すること
愛が大事。”と言うでしょう。愛って聖書では何を指して
使っている言葉なのでしょう?愛=アハヴァ=モーセの五書の
婚姻契約の愛の事を言っているのです。愛=神の婚姻契約に加えられ続けている事実は、神が目で見えの印をアヴラハムの割礼で表されているのです。婚姻契約に加えられている代々継承される証=印、それが無くなる、無効になるなら、私達も神の前に義とされている事実がないと言っている事になるのです。婚姻指輪を
捨てる人がいますか?それと同じ事を言っているのです。神からの婚姻指輪=永遠の印=子孫を生み出す臓器に付けられる印。
福音書以降に書かれた”愛、寛容、誠実、柔和、自制、など
その内容、生き方の全て100%モーセの五書に書かれた意味で
あるのです。そうすると考えれば分かりますが、モーセの五書のどの部分でも終了したと言う異邦人制作の思想、教えが
聖書とは敵対する、相反する事である事が明らかなのです。
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、
慈愛、善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定するトラー=<モーセの五書に書かれた神の教え>はない。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、トラーの下には
いない。
パウロが言っているのは、上から生まれた人=新しく生まれて
聖霊が内側に宿る人は、トラーに書かれた罪の束縛、罪の責め
の下にいない。そしてもう一つ考えられるのは、トラー=人間が
作った教え=異邦人はユダヤ人になる改宗儀式をしなければ
救われている事にはならない、足りてないと言う別の福音の教えに縛れられない!
この箇所も、異邦人の世界の教えでは大変曲解されている箇所
です。
救われた人は御霊に導かれるので、モーセの五書=神の教え
インストラクションの下にいない。
これだけでも変?だと気がつくでしょう。
救われた人は、神の教えなど生きなくて良い!と言う事を言った人達=トラーを知らないギリシャローマ思想=肉体は下劣で霊は崇高などと言うグノーシス主義、プラトン思想の様な教えを通して神の言葉を解説した異邦人達。
神は、この世界を物理的な形で造られて、それら全てに”トーヴ”
神の意図通り、そして全てが揃った時、”トーヴメオード”
最高に良い、神の意図通りにが出現したと歓喜の声で叫ばれた
のです。見えない世界と見える世界、物理的霊的はぴったり1体なのです。知らない間に異邦人異教徒思想に洗脳されたまま
神の語る全く別世界=神の創造された世界の性質を読んでしまっているのです。
1世紀後半に出てきたマルキオン=怒りの神怒りの時代、
恵の神、恵の時代、旧約新約と言うタイトルページを創作した人、その様な思想を刷り込まれ続けているのです。
神は永遠から永遠に同じで変化進化しないと書いてあるのです。
マルキオンの思想=置換神学はずっと異邦人の世界で語り継がれ中世の腐敗的な非聖書的教えを通して、そこから完全にオリジナルの神の言葉=トラーには戻らず18、19世紀、人間至上主義思想を経て、19世紀のダービーの様に人間思想=神の言葉は生きる必要も無いとマルキオンが言った”ルカとパウロの書簡1、2だけ読めば事足りる”神は七へんげする、神は時代ごとの違う福音=
義の基準をもたらしたと言う非聖書的教えの根は継承され、
神の言葉を否定した教えは1世紀後半から今日までも健在なのです。神の教えの中心、土台を知らない、これが大きな問題なのです。何を神が語っているのか、神が造られた人間はどう生きるのかの全てが書かれた箇所=モーセの五書を捨てたらそれは本当に白やぎさんと黒ヤギさんのお手紙交換の世界で、聖書=神の言葉=本当の中身、意味が分からないまま空想、自分解釈を語り続けて行ってしまうのです。