ハッピー アンチ ハロウイーン | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ハロウイーンですね。日本にハロウイーンが入って来たのは

2000年代に入ってから浸透したみたいですね。

 

ハロウイーンは普通にみんなが世界中でやる祭りとして

浸透しました。

クリスマスと同じ性質の浸透の仕方が背景にあります。

ハロウイーンの祭りの起源は、サーウエインと言う

ケルト人の異教の神々の祭りに由来するものです。

その異教の神々の祭りを初期カトリック教会が1200年前位

から行う様になりました。

 

この異教の神々の祭りは、人間に対して霊的な世界が見えるものとなり=霊的=それは悪霊なのですが、神々が朽ちる命の運命にある人間に様々な仕掛けをして、神々が楽しむと言う趣旨の祭りです。

 

そして悪霊、死んだ人の霊が生きている人と交わると時である

と言うものなのです。

日本のお盆も同じでしょうか。死んだ人の霊が戻ると言う思想。

 

ケルト人達は、シャーウエイン悪霊にいたずらされない様に、

これから来る半年もの長い暗い冬の最初の晩に、呪いを受けない様に収穫物を集めて収穫物の捧げ物を霊に捧げる事をしたのです。

 

ここで注目するべき大事なことは、カトリックがこの祭りを

自分たちの祭りとして混ぜ物して変形した祭りを作った事です。

590ー604年に法王であったグレゴリオ1世は、

イギリスに向かうカトリック宣教師へ、ノンクリスチャンの人達に、神の教えではなく、彼らの馴染みのあるものを利用して、

伝道し、カトリックに改宗する事をしなさいと指示したのです。

この思想よく聞かれますよね。

異教の神々の教えを通してキリストに導く作戦。

なんでも利用してとにかくキリストを伝える。

 

これは、典型的な思想だと思います。でもその様な事をする、

神の教えと異教の神々のシンボルや祭り、教えを混ぜる事は

神の前にどう映るのか、聖書から吟味すべきものなのです。

預言書の中にその答えはたくさん書いてあります。

イスラエルの神を誤解させる教え=聖書ではない教えを神の言葉だとか、真実だとかそう言う事は一切言ってはならないのです。

 

異教の神々の祭りに便乗する事。その目的は、人をカトリックに改宗させる手段として利用するためとありますが、

神の前にはNO NOの行為です。

異教の神々の寺院をカトリックの寺院に改造する事。

 

ケルト人の闇の超自然の神々の祭りを、カトリックの聖人達を

崇め祭る祭りへとカトリックは変身させたのです。

それが万聖節=ハロウインなのです。

古代ケルト人はシャーウエインの祭りの時に悪霊が現れて

脅すと言う事を信じていました。

 

中世時代のカトリックは”聖人”を神のごとくに祭りあげ

聖人信仰をしていました。

クリスチャン達はカトリックの作った聖人信仰を熱心に

信じていたのです。

聖人が奇跡をもたらすとも信じていたのです。

ヨーロッパに行くカトリック寺院には聖人の偶像がたくさん

祀られています。

 

その様な人造の教えのゆえに中世カトリックはケルト人の

伝統の教え、異教の神々の祭り信仰=悪霊信仰と混じりあって

いたのです。

800年には、カトリックは11月1日が”全ての聖人の日”

万聖節としたのです。日本語でもハロウインを万聖節と言うのは

カトリックが付けたカトリックの祭りの名前をそう呼ぶからです。

この信仰は、シャーウエインの祭りと関連していて、

現在もその思想は死に絶えてなど居ないのです。

聖人信仰は根強いのです。

カトリックの中に聖人信仰が根強くあるのは、

死者がやって来て地上を徘徊すると言う思想、異教の神々の思想を信じているからです。

 

その後シャーウエインの祭りとは違う日、カトリックの万聖節は、10月31日の晩にしたのです。

この日の晩の万聖節の祭りをケルト人の悪霊祭りの晩の前に

する、亡くなったカトリックの聖人を崇める日としたのです。

ケルト人の異教の神々の祭りがハロウイン=万聖節と言う名前に変形し、クリスチャンがシャーウエインの祭りの超自然の

シンボルと儀式を、怖くてかつ楽しい祭りに変形したのです。

 

これって冬の異教の神々の祭りをカトリックの祭りに

変形したのと同じ事をしているのです。

 

元が悪霊=異教の神々の祭りなのです。

この祭りをカトリックの要素で別物の祭りに変身させたのです。

異教の神々の教えや創造主の教えを変身させているのです。

 

さて、この日には、闇で崇拝が行われています。

何の崇拝か分かるでしょうか。悪霊です。

そして誘拐された多くの子供達が実際に人間生贄として

神々に捧げられてしまうのです。

 

考えさせられる事がたくさんあるのです。

異教の神々の祭りを、キリスト教的に変える。

面白おかしく、可愛く、皆に喜ばれて楽しいものに変身させる。

それを祝う事を強要されたくはないのです。

同時にそれを祝う人に対して何も言いません。

 

神と自分の中で神の前に正しい事かどうなのか、神の伝えている汚れを自分の中に取り込む事かどうなのか、

神の言葉に基づき個人個人が吟味して考えれば良い事なのです。

 

毎年この行事に参加して協力してと周囲から執拗に頼まれます。

子供達が知り合いの家を周りTrick or Treatをして楽しむ行事

だからです。何十人分のCandiesを用意してくれる?と。

断ると付き合い悪い人と思われてしまう。

お菓子をあげるのは良いのです。でもこの祭りの起源、趣旨を知り、悪霊祭りでTrick or Treatを我が家の玄関でされる事には、

絶対に参加したくないのです。我と我が家は、イスラエルの神に

仕える!と言うなら異教の神々のシンボルや教えが混じったものとは交わらない!と言う基本的なことは譲れないのです。

クリスチャンからも頼まれるので、どう断ろう。いやはっきり

言わないとならないので、Bible Studyにお菓子を

その家の子供達にあげるのは良いけど、Trick or Treatに

参加出来ない、ごめんねと伝えました。

 

そして神の目には異教の神々の祭り=この世界の裏側、地下で

行われている本当の意味を知って、この日に悪霊が崇拝され、

異教の神々に尊い命が犠牲にされてしまう事を考えるのです。

 

同時に、これから冬の祭りが来ます。

ハヌカの祭りは、ギリシャの異教の神々の偶像をギリシャ帝国がエルサレムの神殿に持ち込み、きよい神の祭壇に豚を捧げて

汚し、ユダヤ人達も食する様に、強要されたのです。

ギリシャ帝国に迎合し同化して行くことに抵抗したマカバイ達は

ギリシャ帝国に抵抗し戦ったのです。

 

異邦人に取って、神の聖別の領域を汚すと言うことは

全く理解出来ない内容なのです。なぜなら、異教の文化自体が

神の前に汚れとされる事に交わる事が日常普通に平気で行われていて、皆がしている、生きている、自分の生活の1部だから

なんとも感じないのです。

 

使徒15章を読んでも、ペテロがどうして異邦人と交わる事を

躊躇していたのかもその背景を知ると理解出来ると思います。

 

汚れと平気で交わる異邦人信者達との関わりを躊躇するのは

無理のない事です。相手に話しても絶対に通じない聖別の意味、

自分が聖別を破る行為など出来ないと言う領域をユダヤ人達は

理解して生きていたからです。

 

このハロウインでもハヌカの裏にあるマカバイ戦争の要因でも

分かる様に、異教の神々の要素と交わる事!はイスラエルの神の前に完全なる汚れでしかなくご法度なのです。

 

それなのに、異教の神々の祭りを自分達流に変形する事を

したのが中世のローマ教なのです。

ローマ教は、ハロウイン=万聖節の祭りを異教の神々の祭りを

変形させて作っただけでなく冬の冬至の時期に行われる数々の

異教の神々の祭りを、キリストの誕生日だと聖書に根拠もないのに勝手に決めて、冬至を祝う異教の神々の祭り変形アレンジさせてクリスマスと言うカトリックの祭りを作ってしまったのです。

ケルト人の異教の神々の祭りを、ハロウイン=万聖節と言うものに変形させた事と同じ事をしたのです。

イースターも同じです。イースターは異教の女神の名です。

イスラエルの神と何の関係も無いのです。春の異教の女神の祭り

多産を願う祭り、収穫と出産を待つその祭りは、イシュタル、

アストラ、イースター神の祭り。多産=だから卵がシンボル。

神が創造したオリジナルの祭り、過越の祭りの内容、曜日、

日時、期間を変形させたのが、カトリックの作ったイースターの

祭りです。だからカトリックの記念日はすべてが必ず日曜日です。それは、ローマ帝国の皇帝と神々を拝む日が日曜日だった

からです。

1列王記12章にあるヤロベアム王のやった事と全く同質の罪

なのです。

 

キリストの誕生日は12月25日などと聖書には書いてなど

なく、真冬に羊飼いが野宿して羊の出産を見守る時期であるわけもないのです。野宿をする、一晩中羊飼いが羊を見守る時期は

羊が出産をする時期なのです。

そして1世紀のユダヤ人の世界では誕生日を祝うと言うことは

文化の習わしに無いものだったのです。

 

心情的にはキリストの誕生日を祝いたいと思うのです。

でも誕生日が重要でなく、イエシュアの生まれたその日を祝いなさいと神が言わなかったのはどうしてだろう?と考えてみるのです。神は永遠から永遠に存在しているからでしょうか。

そして神の創造された記念日の中で必要なすべて、

福音のすべてが網羅されて祝われているからだと思います。

その中にエデンの始まりも新しい時代に入ることまでも、

復活の命も、贖われて救われた事実も全て全て神の記念日の中には最初から含まれているのです。

神が〜〜を記念して代々祝いなさいと言うその事を大事にする様に神が伝えているのです。その他の記念日は、国や文化や個人の記念日は自分が家族が大事だと考える事に沿って祝えば良いのです。神の記念日は外せない!のです。

 

でもよく考えると、どうして神が代々永遠に祝う”わたしの

記念日”と神が人に伝える記念日を捨てて、ローマの作った記念日を祝う事が今の時代の正当なものであると考えるのは、

この中世のハロウインと同じく、単にローマ教が作った教えを

継承し、伝統で語り継がれ祝われて今に至るから、

それが聖書だと考えているだけなのです。

神の教えを退けて人の教えを生きる事の意味、損失を考えて

いないからだと思います。

 

続く