ジグゾーパズルのピースをいくつか取り出すような見方 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

世界に何万と言う分裂の教えがあるのは、ある聖書箇所を取り

出して、論点を前後左右の文脈から読み取らないで、

ある点だけを強調する教えをスローガンとしてグループを

形成するからです。

 

聖書=神の言葉は丸ごと全部で一つ。交響曲は、全楽章、

全部合わせて1つの曲です。1つの曲を全楽章、聞いたことが

なければ、その大曲の数小節だけ、あるフレーズだけ、

ある箇所だけのメロデイを取り出して知っていても、曲全体が

どんな曲なのか分からない事と全く同じ事なのです。

 

ジグゾーパズルの数ピースだけ取り出して見ても

全体の絵図が全く見えてこないのと同じ。

しかも、そのジグゾーパズル=神の言葉の中に、別の

ピーズ=人間が編み出した教えのピースを挿入して

しまえば、その絵図は歪み、合わないので隙間だらけに

なり、真実が歪み、真相が見えなくなってしまうのです。

 

目や足や、体のある一部だけを取り出して、

体全体を表現出来ない。臓器一つだけ取り出して、

これが体の全部ですと言えない。丸ごと全部なければ、

一つ体として、繋がらない、命が流れない、機能出来ないの

と同じです。

 

天地が存在し続ける限り、神の言葉も同様に永遠に

変わらないとイエシュアの口から直接語られた通り、今日

今現在もこの世が存在しているのならば、イコール神の言葉に

照らし合わせれば、神の言葉も今も変わっていないと言う事

が神の言葉を基準にすれば真実なのです。

 

マタイ 5:18,19

まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、

トラー=<神の言葉=モーセの御所>の中の一点一画でも

決してすたれることはありません。全部が成就されます。

だから、戒め=神の言葉トラーに書かれたもの=のうち最も

小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に

教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。

しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、

偉大な者と呼ばれます。   

 

一点一画とは、ヘブライ語の文字に飾り文字が付けられて

いますが、そんな飾り文字の一画さえも廃らないと

強調しているのです。神の言葉は固定、変動などしないのです。

 

 

ルカ16:17

しかしトラーの一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうが

やさしいのです。 

 

これもヘブライ的強調です。神の言葉=飾り文字さえ落ちない、

もしそれが変化するのならば、天地が滅びる方が

簡単と言っているのです。

 

神の言葉、イエシュアが語られた父の言葉=トラーに照らし

合わせると、何十世紀にも渡り語り継がれる、世間の神学は、

この神の言葉と全く逆行しています。異なります。

人間の神学は、神の言葉は歴史の途中で変わったと教えて

いるからです。その教えは、ローマから発した教えであり、

神から発した教え、言葉では無い事は聖書に戻れば

明らかに証明できます。

 

神の言葉と人の教えにずれがあるので、その矛盾に気が付いて

聖書を書いてある通りに読み直してみると、神の言葉が語って

いる真実が見えてきます。

狭き門から入ると言う事、世界の主流の教え、伝統の教えを、

絶対基準にしないで、神の言葉だけに戻る事をずっと続ければ

良いのです。

 

イエシュアが語られている内容、使徒やパウロが教えている

内容、命がけで全世界へ神の言葉を運んだ、その内容は全て

永遠普遍の神の言葉=トラー=婚姻契約です。

トラーがイスラエルから全世界へ運ばれたのです。

イエシュアが登場して、古い教え=トラーを否定していると

誤解した教えを基準にすれば、神の言葉の真実は

見えなくなります。

 

イエシュアが正していたのは、父の言葉=トラーでは無いの

です。そんなこと天地がひっくり返っても100%あり得ない

ことです。なぜなら、イエシュアはこう言われました。

トラーを、正しく教え、解釈し生きる事を教えに来たと

言われているからです。トラーが肉体をとって来られたと

ヨハネも証言している通りに。

タカノート=口頭トラー=イズム、宗教の世界の

人間が編み出した神の言葉に付け足された様々な当時の

ラビ達の教えを正している事実が書かれているだけです。

 

もしも、トラー、預言書、諸書が終わりとするならば、

福音書以降に書かれている内容は、何を土台にして

話しているのか、その根拠が全く何も無いと言う事を

言っている事実に気がつけば良いのです。

 

1世紀のイエシュア信者たちは、誰一人として

トラーを捨てた教えなど生きていないからです。

それがちゃんと、福音書から黙示録の中に、

書かれている事に注目してみれば分かります。

 

福音書から、黙示録はトラーの外典=トラーの

中身、そしてトラーの解説の預言書、諸書に

対する短いコメンタリーなのです。

 

 

続く