世界に何万と言う分裂の教えがあるのは、ある聖書箇所を取り
出して、論点を前後左右の文脈から読み取らないで、
ある点だけを強調する教えをスローガンとしてグループを
形成するからです。
聖書=神の言葉は丸ごと全部で一つ。交響曲は、全楽章、
全部合わせて1つの曲です。1つの曲を全楽章、聞いたことが
なければ、その大曲の数小節だけ、あるフレーズだけ、
ある箇所だけのメロデイを取り出して知っていても、曲全体が
どんな曲なのか分からない事と全く同じ事なのです。
ジグゾーパズルの数ピースだけ取り出して見ても
全体の絵図が全く見えてこないのと同じ。
しかも、そのジグゾーパズル=神の言葉の中に、別の
ピーズ=人間が編み出した教えのピースを挿入して
しまえば、その絵図は歪み、合わないので隙間だらけに
なり、真実が歪み、真相が見えなくなってしまうのです。
目や足や、体のある一部だけを取り出して、
体全体を表現出来ない。臓器一つだけ取り出して、
これが体の全部ですと言えない。丸ごと全部なければ、
一つ体として、繋がらない、命が流れない、機能出来ないの
と同じです。
天地が存在し続ける限り、神の言葉も同様に永遠に
変わらないとイエシュアの口から直接語られた通り、今日
今現在もこの世が存在しているのならば、イコール神の言葉に
照らし合わせれば、神の言葉も今も変わっていないと言う事
が神の言葉を基準にすれば真実なのです。
マタイ 5:18,19
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、
トラー=<神の言葉=モーセの御所>の中の一点一画でも
決してすたれることはありません。全部が成就されます。
だから、戒め=神の言葉トラーに書かれたもの=のうち最も
小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に
教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。
しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、
偉大な者と呼ばれます。
一点一画とは、ヘブライ語の文字に飾り文字が付けられて
いますが、そんな飾り文字の一画さえも廃らないと
強調しているのです。神の言葉は固定、変動などしないのです。
ルカ16:17
しかしトラーの一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうが
やさしいのです。
これもヘブライ的強調です。神の言葉=飾り文字さえ落ちない、
もしそれが変化するのならば、天地が滅びる方が
簡単と言っているのです。
神の言葉、イエシュアが語られた父の言葉=トラーに照らし
合わせると、何十世紀にも渡り語り継がれる、世間の神学は、
この神の言葉と全く逆行しています。異なります。
人間の神学は、神の言葉は歴史の途中で変わったと教えて
いるからです。その教えは、ローマから発した教えであり、
神から発した教え、言葉では無い事は聖書に戻れば
明らかに証明できます。
神の言葉と人の教えにずれがあるので、その矛盾に気が付いて
聖書を書いてある通りに読み直してみると、神の言葉が語って
いる真実が見えてきます。
狭き門から入ると言う事、世界の主流の教え、伝統の教えを、
絶対基準にしないで、神の言葉だけに戻る事をずっと続ければ
良いのです。
イエシュアが語られている内容、使徒やパウロが教えている
内容、命がけで全世界へ神の言葉を運んだ、その内容は全て
永遠普遍の神の言葉=トラー=婚姻契約です。
トラーがイスラエルから全世界へ運ばれたのです。
イエシュアが登場して、古い教え=トラーを否定していると
誤解した教えを基準にすれば、神の言葉の真実は
見えなくなります。
イエシュアが正していたのは、父の言葉=トラーでは無いの
です。そんなこと天地がひっくり返っても100%あり得ない
ことです。なぜなら、イエシュアはこう言われました。
トラーを、正しく教え、解釈し生きる事を教えに来たと
言われているからです。トラーが肉体をとって来られたと
ヨハネも証言している通りに。
タカノート=口頭トラー=イズム、宗教の世界の
人間が編み出した神の言葉に付け足された様々な当時の
ラビ達の教えを正している事実が書かれているだけです。
もしも、トラー、預言書、諸書が終わりとするならば、
福音書以降に書かれている内容は、何を土台にして
話しているのか、その根拠が全く何も無いと言う事を
言っている事実に気がつけば良いのです。
1世紀のイエシュア信者たちは、誰一人として
トラーを捨てた教えなど生きていないからです。
それがちゃんと、福音書から黙示録の中に、
書かれている事に注目してみれば分かります。
福音書から、黙示録はトラーの外典=トラーの
中身、そしてトラーの解説の預言書、諸書に
対する短いコメンタリーなのです。
続く