神の言葉の本来の意味に戻して神の言葉を知る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書を読み違えている大前提は、トラーは仮の古い律法で

あると言う人の解説、定義です。神はそんなこと言われて

いないです。神が神の言葉で定義する神の言葉=トラーが

何であるのか、はっきりと記されています。

永遠の婚姻契約=契り=印であると神は定義しています。

普遍。歴史の途中で廃れたり、変化したりしない性質。

神の御口から直接語られた言葉でそう宣言しています。

 

世界は神の言葉を否定しますが、神の残された文字で記された

証拠、天と地が証人としてシナイ山で大々的イベント、儀式で

行われた、神の御手で自ら文字で刻んだ婚姻関書、婚姻関係が

結ばれた証拠=トラーが存在するのです。

 

永遠の印=婚姻契約の契りである印がその中に記されて

いるのです。もしそれを捨てるなら、婚姻契約解除と言うこと

になります。

 

もう一つ聖書を読み違えている点は、トラーは”義”とされる

ためにあるのでも、義を獲得するために生きるのでも

ないのです。

もし義とされるために、トラーを生きるとするならば、

聖書ではそれを、律法主義と呼ぶのです。救い=イエシュア

など要らないと言うことを言っているのです。

神の言葉では、トラーを生きる事を律法主義などと定義

していないのです。

この様な人の解説と、神の語られることに始めから

ズレが生じているのです。

 

トラーは、贖われた人が生きる全ての詳細が書かれている

ものなのです。福音書から黙示録の中身も、トラー、

その解説の預言書、諸書以外他の教えなど微塵も書かれて

いない事実を知れば、捉えれば、聖書の世界、聖書観が

根こそぎ土台がひっくり返ります。

創世記から黙示録まで、聖書はどの箇所に於いても、

互いに相反する矛盾した別の二つの福音、メッセージ、教え、

契約など書かれていない全く、矛盾無しのピュアな1つの神の

言葉の書であるのです。

 

贖われた人の姿は、イコール、神の定義した人間の姿は、

トラーに書かれた生き方なのです。それ以外に、神の定義する、

神の造られた神の似姿に造られた人間の生きる詳細はこの世の

どこにも、神によって記されたものは与えられていない、存在

すらしていないのです。福音書以降別の教えだとするのは、

トラーを知らない異邦人が編み出した教えです。

トラーを知るユダヤ人が読めば、福音書以降に書かれたものは、

トラー、預言書の短いコメンタリーであることは明らかに

分かるものなのです。

神を愛する人が生きる全ての詳細が、神の定義した人間の生き方

=トラーの中身です。

 

エレミヤ31章に、”新しい契約”=再更新された契約、参加する

人の意識が、シナイ山で金の子牛=混ぜ物の教えを取り入れた

頭脳が無割礼では無い状態、参加者の状態が全く違う。

誰も主を知ろうと言わない世界が来る書いてあります。

知ろうと言うヘブライ語で書かれたその言葉は、婚姻関係の中

の親密な親しさ=裏も面も全て知り尽くす婚姻関係の間柄

での知ると言う意味の言葉です。

 

再更新された契約の中の状態では、誰もが、神のトラーを

頭脳に刻み、婚姻契約に書かれている親しい関係の中で生きる

人たちだけになる世界が来ると書かれています。

 

神を愛する人は、神の仰せを愛する、神の言葉を愛する事。

神の言われたことを真珠を身に着けるごとく、漏れなく大事に

して、生きることです。

愛するとは、婚姻契約=トラーの中で定義された”アハバ”=

愛なのです。トラーを捨てたら、愛の定義は全く無いのです。

まして、その中身を深く知らない、学ばない、いや読みさえ

しなければ、何が書かれているのかお蔵入りのまま生涯を

過ごすことになります。神の言葉が鳴り響く場所とは別の

部屋で過ごしてしまう。

 

神を愛するとは、神の言葉を言われた通りに曲げないで

生きる事だと書かれています。

従うと言う言葉は、実は単純に”聞く”です。ギリシャ語でも

同じです。神の言うことだけを聞くことです。聞く=神の声の

下に来て、神の声の中で、神の言葉を神の言われる通りに聞く

なら、その結果、神の言われた意図通りをするから、従うと

翻訳しているだけです。

 

生きることはキリスト=イエシュア ハ マシア=肉体を

取って来られたトラー、イコール文字で書かれたトラーと

ヘブライ語では書かれているからです。

 

人の作り出した教え、伝統、長年に渡り浸透した教えが、

イスラエルの神に属するものでは無いと言うことなのです。

世界には、潤沢な資金でふんだんに潤い、立派な建物を建て

そこに集う異教の神々を崇拝することを、イスラエルの神が

支援しているのでは無いと言うことと同じです。

神が支援、祝福しているからその状態にあるのでは無い。

 

どんなに世界が、ある教えや哲学、神学を支持、主張して

やっていても、何十世紀に渡り人間の教えが浸透し、たとえ

根強い伝統になっていようとも、それがイコール、神の真実

でもなければ、神がその人間の編み出した宗教や教えを支持

しているのでもなければ、神がご自分の言葉で述べた真実を

曲げてまで、人間が作り変えてしまった神の教えや言葉、

意見や主張を決してサポートしないと言うことなのです。

はっきりと書かれています。

 

マタイ 7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、

みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨

を行う者だけが、はいるのである。

 

我が父の御旨=トラーに書かれた詳細のことをイエシュアが

話しているのです。イエシュアは父の言葉=トラーを地上で

成就=神の意図通りの生き方を教え、手本を見せるために

来られたと宣言されています。

 

7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、

主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではあり

ませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、

あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありま

せんか』と言うであろう。

7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、

『あなたがたを全く知らない不法を働く者どもよ、行って

しまえ』。

 

ここで書かれている”知らない”とは、婚姻関係を結んでいる

状態=トラーの中に生きる事に同意した花嫁の状態での親しさ

の”知る”と言う言葉なのです。つまり、トラーを生きない=

不法=トラーレスの状態、トラーを捨てて生きているならば、

神との婚姻契約の中での関わり、関係が無いとイエシュアが

言っていることは、ヘブライ語に戻れば、クリアーに理解

できることなのです。つまり、自分定義で勝手に”神の名”を

乱用、使用し、何をしたとしても、それは”イエシュア”と

全く何の関係も無い、私の実態とは全く異なるよと言われて

いるのです。

 

7:24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、

岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。

 

ここに書いてある言葉を聞いて行うとは、”言葉”=トラーを

聞いてその中身を生きることであることはヘブライ語では

クリアーに分かることができます。

 

イエシュアが語られる父の言葉、仰せとは100%トラーで

ある前提が捉える事が出来れば、聖書が翻訳でも見えて

きます。

 

誤解している聖書箇所、聖書をどの様に誤解して

読んでいるのか知るためには、それには、元の言語の意味で

語られている事実、真意に戻る事です。

元のヘブライ思索に戻り、原点、原典、言語に書かれた事に

忠実に戻り、学び、検証し、その中で解説されているもの

だけを土台にする以外真実に辿り着く道はないのです。

もし人間の作り出した教えの方が神の語られることより

正しいとするならばそれは聖書に警告のある”別の福音”と

いうことになってしまうのです。

 

 

続く