聖書を読み違えている大前提は、トラーは仮の古い律法で
あると言う人の解説、定義です。神はそんなこと言われて
いないです。神が神の言葉で定義する神の言葉=トラーが
何であるのか、はっきりと記されています。
永遠の婚姻契約=契り=印であると神は定義しています。
普遍。歴史の途中で廃れたり、変化したりしない性質。
神の御口から直接語られた言葉でそう宣言しています。
世界は神の言葉を否定しますが、神の残された文字で記された
証拠、天と地が証人としてシナイ山で大々的イベント、儀式で
行われた、神の御手で自ら文字で刻んだ婚姻関書、婚姻関係が
結ばれた証拠=トラーが存在するのです。
永遠の印=婚姻契約の契りである印がその中に記されて
いるのです。もしそれを捨てるなら、婚姻契約解除と言うこと
になります。
もう一つ聖書を読み違えている点は、トラーは”義”とされる
ためにあるのでも、義を獲得するために生きるのでも
ないのです。
もし義とされるために、トラーを生きるとするならば、
聖書ではそれを、律法主義と呼ぶのです。救い=イエシュア
など要らないと言うことを言っているのです。
神の言葉では、トラーを生きる事を律法主義などと定義
していないのです。
この様な人の解説と、神の語られることに始めから
ズレが生じているのです。
トラーは、贖われた人が生きる全ての詳細が書かれている
ものなのです。福音書から黙示録の中身も、トラー、
その解説の預言書、諸書以外他の教えなど微塵も書かれて
いない事実を知れば、捉えれば、聖書の世界、聖書観が
根こそぎ土台がひっくり返ります。
創世記から黙示録まで、聖書はどの箇所に於いても、
互いに相反する矛盾した別の二つの福音、メッセージ、教え、
契約など書かれていない全く、矛盾無しのピュアな1つの神の
言葉の書であるのです。
贖われた人の姿は、イコール、神の定義した人間の姿は、
トラーに書かれた生き方なのです。それ以外に、神の定義する、
神の造られた神の似姿に造られた人間の生きる詳細はこの世の
どこにも、神によって記されたものは与えられていない、存在
すらしていないのです。福音書以降別の教えだとするのは、
トラーを知らない異邦人が編み出した教えです。
トラーを知るユダヤ人が読めば、福音書以降に書かれたものは、
トラー、預言書の短いコメンタリーであることは明らかに
分かるものなのです。
神を愛する人が生きる全ての詳細が、神の定義した人間の生き方
=トラーの中身です。
エレミヤ31章に、”新しい契約”=再更新された契約、参加する
人の意識が、シナイ山で金の子牛=混ぜ物の教えを取り入れた
頭脳が無割礼では無い状態、参加者の状態が全く違う。
誰も主を知ろうと言わない世界が来る書いてあります。
知ろうと言うヘブライ語で書かれたその言葉は、婚姻関係の中
の親密な親しさ=裏も面も全て知り尽くす婚姻関係の間柄
での知ると言う意味の言葉です。
再更新された契約の中の状態では、誰もが、神のトラーを
頭脳に刻み、婚姻契約に書かれている親しい関係の中で生きる
人たちだけになる世界が来ると書かれています。
神を愛する人は、神の仰せを愛する、神の言葉を愛する事。
神の言われたことを真珠を身に着けるごとく、漏れなく大事に
して、生きることです。
愛するとは、婚姻契約=トラーの中で定義された”アハバ”=
愛なのです。トラーを捨てたら、愛の定義は全く無いのです。
まして、その中身を深く知らない、学ばない、いや読みさえ
しなければ、何が書かれているのかお蔵入りのまま生涯を
過ごすことになります。神の言葉が鳴り響く場所とは別の
部屋で過ごしてしまう。
神を愛するとは、神の言葉を言われた通りに曲げないで
生きる事だと書かれています。
従うと言う言葉は、実は単純に”聞く”です。ギリシャ語でも
同じです。神の言うことだけを聞くことです。聞く=神の声の
下に来て、神の声の中で、神の言葉を神の言われる通りに聞く
なら、その結果、神の言われた意図通りをするから、従うと
翻訳しているだけです。
生きることはキリスト=イエシュア ハ マシア=肉体を
取って来られたトラー、イコール文字で書かれたトラーと
ヘブライ語では書かれているからです。
人の作り出した教え、伝統、長年に渡り浸透した教えが、
イスラエルの神に属するものでは無いと言うことなのです。
世界には、潤沢な資金でふんだんに潤い、立派な建物を建て
そこに集う異教の神々を崇拝することを、イスラエルの神が
支援しているのでは無いと言うことと同じです。
神が支援、祝福しているからその状態にあるのでは無い。
どんなに世界が、ある教えや哲学、神学を支持、主張して
やっていても、何十世紀に渡り人間の教えが浸透し、たとえ
根強い伝統になっていようとも、それがイコール、神の真実
でもなければ、神がその人間の編み出した宗教や教えを支持
しているのでもなければ、神がご自分の言葉で述べた真実を
曲げてまで、人間が作り変えてしまった神の教えや言葉、
意見や主張を決してサポートしないと言うことなのです。
はっきりと書かれています。
マタイ 7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、
みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨
を行う者だけが、はいるのである。
我が父の御旨=トラーに書かれた詳細のことをイエシュアが
話しているのです。イエシュアは父の言葉=トラーを地上で
成就=神の意図通りの生き方を教え、手本を見せるために
来られたと宣言されています。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、
主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではあり
ませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありま
せんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、
『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行って
しまえ』。
ここで書かれている”知らない”とは、婚姻関係を結んでいる
状態=トラーの中に生きる事に同意した花嫁の状態での親しさ
の”知る”と言う言葉なのです。つまり、トラーを生きない=
不法=トラーレスの状態、トラーを捨てて生きているならば、
神との婚姻契約の中での関わり、関係が無いとイエシュアが
言っていることは、ヘブライ語に戻れば、クリアーに理解
できることなのです。つまり、自分定義で勝手に”神の名”を
乱用、使用し、何をしたとしても、それは”イエシュア”と
全く何の関係も無い、私の実態とは全く異なるよと言われて
いるのです。
7:24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
ここに書いてある言葉を聞いて行うとは、”言葉”=トラーを
聞いてその中身を生きることであることはヘブライ語では
クリアーに分かることができます。
イエシュアが語られる父の言葉、仰せとは100%トラーで
ある前提が捉える事が出来れば、聖書が翻訳でも見えて
きます。
誤解している聖書箇所、聖書をどの様に誤解して
読んでいるのか知るためには、それには、元の言語の意味で
語られている事実、真意に戻る事です。
元のヘブライ思索に戻り、原点、原典、言語に書かれた事に
忠実に戻り、学び、検証し、その中で解説されているもの
だけを土台にする以外真実に辿り着く道はないのです。
もし人間の作り出した教えの方が神の語られることより
正しいとするならばそれは聖書に警告のある”別の福音”と
いうことになってしまうのです。
続く