異教の神々の祭り教えとの同化混同合体融合 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に書かれている"高き所"とは、異教の神々の礼拝の場所に

便乗し、イスラエルがイスラエルの神とそしてアシェラ神の様な異教の神々、女神を一緒に祀り礼拝していた場所です。

イスラエルの神と異教の神々のシンボル、要素を混ぜている!

ローマ帝国宗教も異教の神々の寺院=バシリカを利用してローマ帝国教の寺院と作り替えたその思想と同じです。バシリカにあるシンボルは異教の神々の様々なシンボル、偶像があるのです。

 

古代のイスラエルのコミュニテイ=街囲みの中でも実際に

イスラエルの神を”偶像”の銅像として作り、バアール神とその妻アシェラの如く、イスラエルの神の偶像の隣にアシェラ像を

造った証拠が遺跡の中に残されているのです。

 

出エジプトして来たイスラエルと少数の異邦人達が同じ様に

”高き所”=混ぜ物の手段でイスラエルの神を拝んでいた記録が

書かれているのは、全世界の人々へ同じメッセージ、

同じ警告同じ教えを神が教えているからです。

”混ぜ物”イスラエルの神と異教の神々の教えを一緒くたに

混ぜるなかれ!異邦人は混ぜ物の教えに全く無頓着なのです。

 

熱い=イスラエルの神=本物、冷たい=異教の神々、

生ぬるい=イスラエルの神の教え、祭りと異教の神々の教え、

慣わし祭りを混ぜるな!と言う警告が黙示録にも書かれているのです。

 

出エジプト32:3 そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。

32:4 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これは

あなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。

 32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。

そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。

 

金=エジプトから取り出した最高の宝、自分達の最高の捧げ物を

自分達の手により作った”金の子牛”=エジプトで培った異教神の

偶像を作ると言う手段で、イスラエルの神を礼拝したのです。

自分の考えで神に最高であるとする方法で神を礼拝する根は

ずっと変わらず同じです。

 

自分の考えで発想する。神に言われた事では無い事をする事

神に言われた事はまるで無視し、捨てて、実際にやらない、

生きない。

でもそれは自分の本心、純粋な心から出た事だから神が有り難く

受け取っているのであると勘違いする。それを歴史の中で

繰り返している事がトラー、預言書、諸書にずっと書かれているのです。神が言われた事は神が言われた通りそっくりそのままを変えないで!!!と言う事は最初から最後まで同じなのです。

神が全てを創造されたのに、人間が神の伝えている事を作り変え

続け、進化、変身を遂げている、それは本当に越えられない深い

溝であり、真実、本物、イスラエルの神の伝える性質とは別物に

変身してしまっているのです。

 

注意して聖書だけを読み自分の頭で神の言葉だけをたどり考えて

行けば、何が混ぜ物の教えで神が最も忌み嫌うものであると

伝えているのか、何が聖別を破り汚す神が忌み嫌う行為なのか、神が教える人間の生き方を読めばはっきり気が付けます。

 

その場合に、異邦人の教え、置換神学、デイスペンセーション

神学の様な教え=古い聖書の箇所は今は終わり、イスラエルと

異邦人とは別の教え、契約が与えられた、キリスト誕生以降は新しい優れた霊、新しい教えが出現した、神の言葉の最初の箇所

70%は古い教えだから今は異邦人は生きる事ない、それを生きる人達は律法に戻る恵みを捨てた生き方に戻るのだなどと言う神の教えに真っ向から敵対し否定する教えが聖書であると誤解して信じている限り、神が教える永遠不変の教え=悪=ラー=汚れから身を守る警告は全く耳に頭脳に響かず、神の言葉が全て他人事、自分に都合良いことだけが響いてくるだけになるのです。

上記の教えは、聖書ではなく、人間が作った思想、宗教である!と言う事に聖書から気がつく必要があるのです。

 

モーセの五書、預言書を今否定する思想をしているのなら、

何を言っても通じないとイエシュアご自身の口から語られた通り

その通りにの事が起きているのです。

 

ルカ16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。

16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とが

ある。それに聞くがよかろう』。

16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、

もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。

16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに

耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 

五人=五とはモーセの五書を指しています。ユダヤ人なら誰でも5と聞けばモーセの五書。10〜10の言葉と理解出来ます。

イエシュアがたとえ話を通して話しているのは、初めの愛=トラー=婚姻契約=モーセの五書に書かれている生き方を捨てた人達モーセの五書を捨てて生きている兄弟の話なのです。

 

レビ記26:30 わたしはあなたがたの高き所をこぼち、

香の祭壇を倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を投げ捨てて、わたしは心にあなたがたを忌みきらうであろう。

民数記33:52 その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、すべての石像をこぼち、すべての鋳像をこぼち、すべての高き所を破壊しなければならない。
 
1列王記3:3ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた。
 
ここで注目する事があります。ソロモンは主を愛したけれど、
高き所を取り除かず、”混ぜ物の教えを取り入れていた”罪が
書かれています。その結果は、ソロモンは晩年異教の神々の教え
に引きずられ腐敗して行く末路を辿ってしまったのです。
その原因?混ぜ物の教えに扉を開いたから!単純な理由です。
全ては人類全てに対する同じ警告であると気が付かない場合
全て他人事、自分と関係無い事と神の教えの意味を捉えず素通り
してしまいます。
悔い改めとは、混ぜ物の教えを完全に取り除く事でもあります。
それが”過越の祭り”で行われるパン種を除去する作業でも
あるのです。神の教えは100%全て繋がって1つのレッスン
プランとして作られているのです。
 
 
1列王記12:31 彼はまた高き所に家を造り、レビの子孫でない一般の民を祭司に任命した。

12:32またヤラベアムはユダで行う祭と同じ祭を八月の十五日に定め、そして祭壇に上った。彼はベテルでそのように行い、彼が造った子牛に犠牲をささげた。また自分の造った高き所の祭司をベテルに立てた。

第七の月の15日から始まる”仮庵の祭り”=イエシュアの中に

住まう事を表す未来全ての人がイエシュアの中に住まう事を

表す未来預言的祭りの日程を作り変えている罪、ヤロベアムの

大罪とずっと聖書に記されているのは、神の教えを塗り替える教えであるのです。クリスチャンの世界は、神の祭りを塗り替える事とそして神の祭りさえどれも祝わなくなった、初めの愛=婚姻契約の愛を捨てた理由は、ローマ帝国により作り変えられた宗教の教えに乗り換えたから、それが本当の理由なのです。

神が神の教えや永遠の記念日を変更などしていないことが聖書には書かれていのです。

 

神のシャバットや祭りは呪いの律法なので今は廃れたと教えられてしまいましたが、嘘でしょその教え!と今は聖書に照らし合わせてはっきり知る事が出来ました。

イスラエルと書かれているのは、誰でもイスラエルの神=

イエシュアに属するならば全て100%イスラエルという苗字=天の国の1つの家族の名を与えられ、同じ契約、同じ生き方に

加えられたと聖書に書かれているのに、どうして2つ分裂した

教えと、記念日を生きるのが正当な教えなのと信じるのでしょう?しかも神の教えや記念日を終了したと言い、人の作った

教えや人が創作した記念日聖書にはない、ローマ帝国が4世紀に

作ったものが正当であるとし、伝統で実践している、大矛盾が

存在するのです。

 

イエシュアや使徒、1世紀の人達はローマ帝国が作った教えや

記念日を一度も生きてなどいないし、使徒や1世紀信者達、聖書に書かれている内容は全て神の教え、神の記念日以外のものではない事しか書かれていないのに、どうして聖書に書かれていない事が真実だと信じるのかそれは伝統の教えに埋没して聖書に

書かれている真実を見ようとさえしていないからと言うのが本当の答え=異邦人の世界の伝統の慣わしに染まっているからなのです。

1列王記13:33 この事の後も、ヤラベアムはその悪い道を

離れて立ち返ることをせず、また一般の民を、高き所の祭司に

任命した。すなわち、だれでも好む者は、それを立てて高き所の祭司とした。

14:23彼らもすべての高い丘の上と、すべての青木の下に、高き所と石の柱とアシラ像とを建てたからである。

 
15:14 ただし高き所は除かなかった。
けれどもアサの心は一生の間、主に対して全く真実であった。
神の前に真実に生きても、混ぜ物の教えをしている王達の事が
書かれているのです。神を愛していれば、混ぜ物をしていても
良いと言う意味ではなく、神の語る真実の核心にで気が付けないリーダー達が居た事が教訓として書かれているのです。
これが世界の現状でもあるのです。
イスラエルの神に属する人は、混ぜ物の教え=聖別の性質を
破壊するものを取り入れてはならない!嘘と本物を識別するには
羊が神の声を識別する唯一の方法は、モーセの五書を知らないと出来ない!と言う警告なのです。
だから何が神の目に聖別を汚す事なのか知らないとならない。
それにはモーセの五書に書かれた神の性質を生きる詳細を知らないと見えないのです。混ぜ物OKの世界は異邦人の世界では常識。混ざってもどんな形でもキリストが伝われば良い。
そんな考えをしてしまうと危険を招きます。神が言われた通り
その通りを自分にも他者にも語らないとならないのです。
イスラエルの神の性質とは異なる事を一切語り、生きてはならない!と聖書にはずっと書かれています。それはDNA、遺伝子破損し、組み替える作業と同じでからです。偽物しか現れ出なくなる。
 
 
2列王記17:11主が彼らの前から捕え移された異邦人がしたように、すべての高き所で香をたき、悪事を行って、主を怒らせた。
 
高き所を取り除いた王、へゼキアとヨシア王、その様なリーダーの元イスラエルはシャロームな状態が保たれるのです。
リーダーがどの様な意識でいるかは重要なポイントでもあるのです。
 
出エジプト25:40 そしてあなたが山で示された型に従い、
注意してこれを造らなければならない。