ガラテヤ4:21 律法の下に留まりたいとはどう言う意味? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1世紀後半から、現在に至るまで、オリジナルの神の言葉に

対する解釈は、パウロが語るモーセの五書の意味通りには

解説されず、異邦人はユダヤ人から決裂した後、異邦人は独自の教えを編み出して行きました。

私達は、古代1世紀のパウロ達、信者達と同じ福音、教えを

聞いて生きていると考えていますが、実は1世紀の信仰の内容

トラーに書かれた事とはだいぶ違う教えが歴史の道のりの中で

加えられ続けてしまって現在に至っているのです。

今パウロが来たら、パウロが書いた書簡がこれほど曲解され、

誤解されていることに、心臓発作に匹敵するショックを受ける

事でしょう。 

 

ローマ帝国はヘブライ色のある教え=トラーに書かれた教えや

記念日を生きる事に圧力をかけ続けて行き、トラーを信じて

生きるユダヤ人、異邦人達を迫害し続けました。

 

ユダヤ人は70年代神殿崩壊の時に110万人も殺害され、

エルサレムから追い出され散って行きました。

これが異邦人がユダヤ人から決裂する、トラーから離れて独自の

教え=神の教え、言葉=トラーを否定する教えを編み出す

インフルエンサーの元に流れて行った大きな要因の一つとなった

経緯でもあるのです。昇天以降神が律法=トラー=神の教え

インストラクションを破棄したなどと言う人の教えを信じる事を

排除するならば、神の言葉の真相が初めて見えて来るのです。

1世紀後半以降から異邦人が神の言葉を捨て始めた、神の言葉を、別物の教えとすり替えて行っただけ、それが事実です。

 

4世紀にローマ皇帝”コンスタンチヌス”により、異邦人達が

信仰する教えを国の宗教とし、ローマ色=異教の神々の教え=

ローマの地場宗教=月、年、日など、天体を拝む、特に太陽

拝む信仰の教えが混じる要素教えを取り入れて作り出したのが

時の新興宗教ローマ教なのです。オリジナル、ヘブライではない、ローマ西洋宗教と言うのはそれが由来です。

 

だから、バシリカ=異教の神々の寺院をローマ帝国宗教の教えの

お寺としたのです。しかも太陽の塔=モニュメントで表される

塔と、プラス、主=ローマ皇帝を拝む思想も混じっているのです。それがローマの宗教だからです。

ローマ皇帝はローマ帝国市民に愛され、支持される必要がある。

それが新しい宗教を作った中心の動機だったのでしょう。

それには、ローマ市民=異邦人が嫌う馴染みの無い異物ヘブライ色あるものを全て排除するのは妥当な事!である事実に直目してみてください。

西洋人が下駄を履いたり、正座するのは苦痛それと同じ事です。

だったらサンダルと、椅子テーブルにしましょうと言う事。

彼らローマ市民に馴染みのある地場宗教色=太陽神信仰色が

あるものの方が受け入れやすい。だから神の教えや記念日を変えたと言うのが本当の裏事情なのです。太陽神、異教の神々の根は全てエジプトから発生しているのです。神が下した10の災いの

最後は、エジプトの神=ラー=太陽神に対する裁きです。

 

中世のローマ・カトリックでも分かる通り、オリジナルの

ヘブライの書、神の教え、トラーとは異なる、人の教えが加えられたもの、それがローマ帝国の正式な宗教と認められ、

その時から異邦人信者達に対する迫害は止まったのです。

 

宗教という名の神の教えに混ぜられた人の教え、

これは”ヘレニズム化されたユダヤ教も同じです。

紀元前4世紀から、紀元後2世紀の間にその様な教えが存在し

それ以降も、ユダヤ人の世界でも人の教え=口頭トラーを混ぜた

教えは現代に至るまでありますし、神秘主義やトラーに書かれた教えを秘密主義を明らかにするがごとくの理解や解説もあるのです。謎のコードを読み解くなどと言う教え。神は人に分からない言葉や意味不明な謎で語ってなどいません。

人に理解出来る言葉、内容を語っているのです。

しかも、西洋神学思想の様に秘密を隠して後で明らかにすると

言う思想も神秘主義思想と同じ性質なのです。

神は最初から明らかに人に神の真実を伝え続けているのです。

聞く側の個人個人が神の言葉が語る教えを理解しているのか、

いないのかの違いがあるだけなのです。

時代ごとに別の神の教え!別の義の基準、小出しに救いや

教えを出すイスラエルの神!その教えこそが別の福音そのもの

なのです。

 

異邦人の世界ではパウロ達が教えていたトラー=モーセの五書を否定する別の教えが教えられ続けて現代に至るのです。

 

ガラテヤも同様、そして歴史の中で蔓延していた別の福音=

複雑な背景の1つ1つを理解して行くと、いかに人間が神の言葉に手を付けて曲げた教えを編み出し解説し続けるのか明らかに

なって行くのです。

 

人が神の教えを曲げることは最初の最初から書いてあり、

歴史の流れの中でも引き続き同じ誤りをし続ける事を神が

知っているので、人にちゃんと警告しているのです。

”神の言葉に差し引き、付け足しするなかれ!”とはっきり神が

言っているのに、神の言葉を否定する教えを堂々と作り出し、

発言し続けている、それって本当に神の言葉が耳に届いていない状態なのです。神の声の周波数の下にはいない状態。

 

4世紀以降も西洋異邦人信者達のユダヤ人達に対する迫害は

止まることなく、ホロコーストを経て今でも反ユダヤ思想、

反トラー思想は、クリスチャン達の間にも根付いているのです。

 

モーセの五書は悪いものである、律法であり、恵の無い生き方で

イエシュアが来られて排除したという空想、人の教えを取り除かない限り、聖書に書いてあることは見えてこないのです。

なぜなら、福音書以降、イエシュアが教えて生きていた内容は

100%トラー=モーセの五書だからです。

 

イエシュアが福音書の中でラビ達やトラー書記達とたたかわしている議論は、神の言葉そのものを否定する内容などではなく、

人間解釈の”モーセの五書”=父の教えに対してイエシュアが

正しているという事実だけに立って聖書を読めば真相は

見えてきます。神の目から見た、神が直接解説するトラーの

中身の真髄、意味、生き方をイエシュアが話し、実際に生きて

人に教えているのです。

 

人は歴史の途中で、神の言葉に混ぜ物をして、肉の目から見る

解釈をして、神が伝える意図通りを理解していない事が多々

あったからです。今もそうです。人が解説する神の言葉を否定

する教えなど、神が語る教えでもなんでも無い、いやその罪は

死に匹敵する神に対する直接の冒涜的行為であるのに、

それが正義の教え、恵の生き方、真実であると疑いもなく語られてしまっています。

 

それらの教えは、もれなくモーセの五書を理解しない、聖書に

書いてある意味通りを学ばないから知らない、そう言う背景が

裏にはあるのです。

本当の意味で神の言葉を理解したら、神の言葉を否定する教えは

神から出ているものでは無いことは誰でも理解出来るからです。

その事を念頭に置いて、パウロが書いている書簡のどの箇所も

モーセの五書に反した事など語っていない事実だけに立って

読み続けるのです。

 

パウロが神の教え=モーセの五書を否定して、神の教えや

記念日を虚しい霊力などと言っていると誤解する聖書の読み方は
完全に人の教えに聞き入って聖書とは全く関係の無い思想、
神学の上に聖書の意図とは違う読み込みをしていると言う事実が
あるのです。
 
パウロの書簡の解説は、メインストリームのクリスチャンの教えでは殆ど誤解された解説=トラーは廃れた!と言うことを前提に話している内容しか聞かされないので、正しい聖書解釈、
解説は聞かれることが無いのです。
 
ユダヤ人でトラーを理解し、パウロの様に救い主を信じる人達は
パウロの書簡をその様には決して読まないのです。
何も知らないユダヤ人ラビが初めて福音書〜黙示録を書いてある
意味通りに読む場合、100%その中身がトラーである事を
理解出来るのです。それが異邦人の世界とは違う、ガラテヤ人の
中にあった様に神の教え=モーセの五書に書かれた永遠不変の
神の言葉、教えを理解しない人達は、簡単に別の教えに引っ張られて行くので、パウロは諸外国の人々、ローマ、コリント、
ガラテヤ人へ正しく神の教え=トラーを理解するために
書簡を書いていた!と言う大前提を崩さずに、書いてある内容
意味、背景を正しく把握して読めば、神の永遠不変の教えを
パウロが否定しているが如くに解説されてしまっている臭い箇所は正しく読み直しする事が出来るのです。
 
ガラテヤ4:12ー20まで、いかにパウロはガラテヤの人々に
トラーに書かれた真髄、意味をちゃんと理解してもらいたいか
綴っています。20節にある様に書いたものを読んでも
声音や顔の表情が見えないですよね。
私達も誰かからのメールやメッセージを読む時に、相手の顔や
声が聞こえないので誤解することってたくさんありますよね。
なんだか冷淡とか、塩対応とか、相手が意味していない事まで
読み込みして誤解してしまう事誰でも経験していると思います。
 
誤解して読んでいると見えないことが、再度読み返してみると
そんな意味で書いてはないねと見える事があったりします。
 
パウロは、手紙に書いた文字だけではパウロの気持ちや真髄が
伝わらないので直接会って話せたらと切望している気持ちを
伝えています。
 
神の言葉も同じです。文字で書かれていても神の声のトーンが
そのまま響いてこないし、ましてや顔の表情も見えない。
聖書の中に書かれている人、アダムなんて言われてもそれが
同じ人間であるなどと想像もつかない。
古代の人も今と同じ私達と全く同じ人間であり、同じ感情があり悲しみ喜び同じ様に体験し、同じ救い=イエシュアに出会い
新生体験をしたなんて想像も出来ないでしょう。
 
同じ人間であることすら想像できない。それは文字に書かれているだけで実際の声や表情を想像出来ない、する努力をしないからです。画像が無いから、余計想像しがたい。
皆同じ人間なのです。古代の人は腕が1本でその後進化変化したと考えないでしょう。同じ神に造られた同じ神の性質に似せられた同じ人間である!その事実から離れるから、人種別、
時代別の神の教えなどと言う発想が生まれてしまうのです。
 
 
続く